最初に
帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里
を疑ってみましょう。
後漢の時代に、倭国王へ「漢委奴国王」金印を贈っていますし
倭国王と名乗る帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内し天子にお目にかかることを願い出た。
伊都国に一大率をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
後漢の役人が伊都国まで来ているので
伊都国、奴国、不弥国までの距離、道程は正しく把握していたでしょう。
投馬国、邪馬台国、つまびらかに出来ない国々の情報は
当時の倭人からの情報です。
残念ながら当時の 里 と云う距離の単位を知りません。
距離は日数で伝えたでしょう。
「女王国からここまで〇〇日かかりました。」みたいにです。
この情報を伝えたのは
度々、女王の命令で帯方郡を訪れている難升米・(都市)牛利らでしょう。
難升米らは
邪馬台国から帯方郡までは 南へ水行十日、陸行一月
投馬国 から帯方郡までは 南へ水行二十日
水行十日、陸行一月は
帯方郡から末盧国まで水行1万里(10日)
末盧国から邪馬台国まで陸行27日(国々を回って27番目に邪馬台国)
1万2千里も末盧国から最短コースで2千里です。
周旋するこ と五千余里も
対馬国~一支国~末盧国 で既に2千里ですの
末盧国から邪馬台国まで27国を経由して3千里です。
投馬国も帯方郡から水行だけで20日かかる地域です。
こちらは末盧国経由ではないです。
末盧国で一度船を降りて陸路で博多湾の伊都国、奴国ですので
朝鮮半島から伊都国を経由せずに
直接、倭国へたどり着くもう一つの航路が存在したはずです。
朝鮮半島から
・関門海峡経由、日向
・隠岐の島経由、出雲のどちらかでしょう。
投馬国(ズマ国)と出雲(イズモ)の発音も似ています。
日本神話で、天照と素戔嗚が兄弟(?)で喧嘩もありますが
国譲りで一つにまとまっています。
弥生時代の出来事が平安時代まで神話として残っていたのでしょうか。
卑弥呼の元へ訪れた大陸の役人 張政らがいます。
帰国したのは266年ですので、卑弥呼の死の原因なども伝わっていたはずです。
立派な卑弥呼の墓や葬儀の状況等の情報はきちんと伝わっています。
卑弥呼の死は、卑弥呼の名誉を傷つけるような悪い情報だったのかもしれません。
如何でしょうか、
これでだいぶすっきりしませんか。
帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里
を疑ってみましょう。
後漢の時代に、倭国王へ「漢委奴国王」金印を贈っていますし
倭国王と名乗る帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内し天子にお目にかかることを願い出た。
伊都国に一大率をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
後漢の役人が伊都国まで来ているので
伊都国、奴国、不弥国までの距離、道程は正しく把握していたでしょう。
投馬国、邪馬台国、つまびらかに出来ない国々の情報は
当時の倭人からの情報です。
残念ながら当時の 里 と云う距離の単位を知りません。
距離は日数で伝えたでしょう。
「女王国からここまで〇〇日かかりました。」みたいにです。
この情報を伝えたのは
度々、女王の命令で帯方郡を訪れている難升米・(都市)牛利らでしょう。
難升米らは
邪馬台国から帯方郡までは 南へ水行十日、陸行一月
投馬国 から帯方郡までは 南へ水行二十日
水行十日、陸行一月は
帯方郡から末盧国まで水行1万里(10日)
末盧国から邪馬台国まで陸行27日(国々を回って27番目に邪馬台国)
1万2千里も末盧国から最短コースで2千里です。
周旋するこ と五千余里も
対馬国~一支国~末盧国 で既に2千里ですの
末盧国から邪馬台国まで27国を経由して3千里です。
投馬国も帯方郡から水行だけで20日かかる地域です。
こちらは末盧国経由ではないです。
末盧国で一度船を降りて陸路で博多湾の伊都国、奴国ですので
朝鮮半島から伊都国を経由せずに
直接、倭国へたどり着くもう一つの航路が存在したはずです。
朝鮮半島から
・関門海峡経由、日向
・隠岐の島経由、出雲のどちらかでしょう。
投馬国(ズマ国)と出雲(イズモ)の発音も似ています。
日本神話で、天照と素戔嗚が兄弟(?)で喧嘩もありますが
国譲りで一つにまとまっています。
弥生時代の出来事が平安時代まで神話として残っていたのでしょうか。
卑弥呼の元へ訪れた大陸の役人 張政らがいます。
帰国したのは266年ですので、卑弥呼の死の原因なども伝わっていたはずです。
立派な卑弥呼の墓や葬儀の状況等の情報はきちんと伝わっています。
卑弥呼の死は、卑弥呼の名誉を傷つけるような悪い情報だったのかもしれません。
如何でしょうか、
これでだいぶすっきりしませんか。
おっしゃる通り、二人目の魏使張政は卑弥呼の死後やってきて、その後、男王が立ち内戦になり、千人ほど死んだ結果、十三歳の宗女台与が女王に立てられ、帯方郡に帰るまでおよそ二〇年ほど倭国に滞在したのは事実だと思います。
つまり、張政はその間に卑弥呼の死因も知り得たし、倭国の内政にかなりかかわったと思われます。ですから、帯方郡の墓から太守張撫夷の磚によって太守に出世したと考えることが出来、東夷の倭国を鎮撫した功績によるものと分かりますね。つまり、倭国の方向性は張政の進言で決定されたということですから、台与を親魏倭王卑弥呼の後釜にしたのも彼の功績と考えることが出来そうです。
そうするとその内戦ですが、卑弥呼の男弟は政治権力を持っていたはずですから王にわざわざ立つまでもなく権力者ですので、それに異を唱える邪馬台国側に人間は居ないはずです。そうなると、敵対する狗奴国側が倭国に侵入してきたということでしょうが、倭国側の人間は卑弥呼の男弟が王に立つことを承認しないのは当たり前で、わざわざそのことを書くのもおかしな話です。
そうなると答えは、①狗奴国によって邪馬台国が滅ぼされた後に、狗奴国の将軍の誰かが倭王になろうとして、②狗奴国軍の仲間とケンカになったと考えるのがよさそうです。③そうなるとそのケンカの勝者が卑弥呼の宗女台与を女王に立てるでしょうか?④倭王になればいいはずですが、魏はすでに倭国を女王の治める国という認知があるので、女王を立てるように張政に指導されたということで、倭国を手なづけた張政の功績も納得行くものになるということですね。
ここまでの推理は如何でしょうか?
突然、お邪魔して恐縮ですが、よろしければご意見をお聞かせください(#^.^#)
誤:倭国側の人間は卑弥呼の男弟が
正:狗奴国側の人間は卑弥呼の男弟が
です。申し訳ありませんが訂正いたします。(;´Д`)