簡単に古中国(秦、漢、魏)の時代と倭国の航路を纏めておきます。
秦の始皇帝の時代(紀元前200年頃)
斉の方士 徐福が「当方の東海に仙人が住み不老不死の薬がある」と申し出
若い男女3000人を含む大群を準備し出航しています。
今まで誰も行ったことがない黄海の始まりです。
黄河下流を出航して、東へ向かうのみです。
朝鮮半島の南にある 済州島に到着
更に東へ、五島列島から玄界灘湾岸の九州北部へ上陸
しかし、徐福は戻ることなく、以後、この航路で倭国へ向かう人はいなかった様です。
前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の時代
黄海周辺の国々を支配て朝鮮半島まで支配を伸ばします。
『後漢書』に
後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ金印を贈ったと記述
実際に「漢委奴国王」金印が博多湾で発見されています。
次に魏の時代
「魏志倭人伝」に紹介される倭国への航路が詳しく記載されています。
植民地化した楽浪郡、帯方群 を経由
朝鮮半島南端 現在のプサンまで海沿いに船で黄海
海の向こう(南側)にしまが見えた 対馬です。
更に南側に回ると島が 壱岐 です。
更に南側に回ると陸地が松浦半島です。
実際に松浦半島の山から壱岐対馬の向こうにプサンを見ることが出来ます。
倭国が大陸の国と交易を行うようになったのは
漢、魏の国が朝鮮半島を支配した事が原因でしょう。
地理的には、長脇の五島列島を出発して北へ進み大陸へ向かう方が近道ですが
さすがにそこまで危険を冒す航路は無かったようです。
秦の始皇帝の時代(紀元前200年頃)
斉の方士 徐福が「当方の東海に仙人が住み不老不死の薬がある」と申し出
若い男女3000人を含む大群を準備し出航しています。
今まで誰も行ったことがない黄海の始まりです。
黄河下流を出航して、東へ向かうのみです。
朝鮮半島の南にある 済州島に到着
更に東へ、五島列島から玄界灘湾岸の九州北部へ上陸
しかし、徐福は戻ることなく、以後、この航路で倭国へ向かう人はいなかった様です。
前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の時代
黄海周辺の国々を支配て朝鮮半島まで支配を伸ばします。
『後漢書』に
後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ金印を贈ったと記述
実際に「漢委奴国王」金印が博多湾で発見されています。
次に魏の時代
「魏志倭人伝」に紹介される倭国への航路が詳しく記載されています。
植民地化した楽浪郡、帯方群 を経由
朝鮮半島南端 現在のプサンまで海沿いに船で黄海
海の向こう(南側)にしまが見えた 対馬です。
更に南側に回ると島が 壱岐 です。
更に南側に回ると陸地が松浦半島です。
実際に松浦半島の山から壱岐対馬の向こうにプサンを見ることが出来ます。
倭国が大陸の国と交易を行うようになったのは
漢、魏の国が朝鮮半島を支配した事が原因でしょう。
地理的には、長脇の五島列島を出発して北へ進み大陸へ向かう方が近道ですが
さすがにそこまで危険を冒す航路は無かったようです。