古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

筑紫磐井の乱(3/3)

2016-10-10 19:41:09 | 歴史
筑紫磐井の乱(527年)
・ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。
・この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
・磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
・継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
・528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、一年以上続く激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。

ヤマト王権が大きな軍事的負担を強要した事に強い不満をもった九州の諸豪族が「筑紫君磐井」を盟主として結集し、起こした反乱であると伝えられています。(九州朝廷VS大和朝廷)kn
宗像氏は、物部氏側についたと思われます。

筑紫一族も滅んだわけではなく、後に日本の歴史に登場します。

こうして、物部氏は天皇家の信頼を得ますが、蘇我氏VS物部氏の争いで滅んでしまいます。
この当時から天皇家は権力の象徴で、実態は豪族側にあったのでしょう。

以上、磐井の乱ですが、筑紫磐井 と 継体天皇も覚えておくと良いでしょう。
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