古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

ここまでの目次 と次回予告

2020-05-24 19:10:43 | 歴史
このgooブログサイトは、過去投稿の検索など
ちょっとばかり???です。
アメブロさんの方が良く出来ていると・・・
(ここは小さな声で)
まあ、愚痴は置いといて
今までの目次
・邪馬台国 と 女王 卑弥呼は存在した。
・邪馬台国 九州説 と 近畿説
・魏志倭人伝 に記載されている邪馬台国までの道程
・つまびらかに出来ない21の国々
全く歴史など専攻したこのない私ですが
如何でしたか。

さて次は
邪馬台国のお話から外れて
日本神話のお話にします。
このお方の登場です。



えっ、邪馬台国は何処?
卑弥呼は誰??


そんなことはどうでも良いです。
一人でも多く方に 日本の古代史ファンになってほしいのです。
その為には、日本神話が一番
何と云っても、ゲームなど登場する神様が沢山登場します。
「それって、不謹慎じゃない!!」
何と云われても大丈夫です。
ほしいのは
・アクセス数
・いいね
です。


では、来週をお楽しみに・・・
ご覧になられた皆様へお願い
友達など、他の方にも紹介してください。

別にアフェリエイトはしていませんが
「アクセス数、ほしか~」
コメント

つまびらかに出来ない21の国々

2020-05-24 17:46:34 | 歴史
本日三投目です。
全て直球ストライクで、三球三振です。

魏志倭人伝に登場する21の小国
女王国(邪馬台国)の北にあるべき国です。
つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。

つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。

末盧国(松浦半島)
伊都国(糸島半島)と言うように、発音が現代の地名に使われているなら
上記の21の国名の地名が残っているのではないでしょうか?
連続する地名なので斯馬国(しまこく)と奴国(なこく)が端っこ?
奴国が二度登場するの記載ミスなのか?
一周して奴国へ戻ったのか?
玄界灘側の国々は含みませんので
松浦半島から有明海へ更に大分へと
玄界灘より南に位置したでしょう。
そこで
・対蘇国(とすこく) 鳥栖
・蘇奴国(さがなこく)佐賀
・呼邑国(おぎこく) 小城
・華奴蘇奴国(かなさきなこく)   神崎<=吉野ヶ里遺跡があります。
・鬼国(きこく)、姐奴国(さなこく)基山
佐賀県の有明海側、いずれも隣接している。
順番でちょうど中ほどに出てくる。


ならば、邪馬台国は
この地域の近く南側
更に南に狗奴国が・・・
後の平安時代に九州南部は 熊襲国 と呼ばれます。
ならば、邪馬台国は・・・

福岡県の有明海側に 山門(ヤマト)があります。
当時、海面は今より高かったので
神崎郡の吉野ケ里遺跡近くも有明海に近い場所です。
そこから、内陸へ入った場所に「山門」
山門=邪馬台国の可能性は捨てきれません。
同じく、近畿にも大和(ヤマト)があります。
こちらも奈良県、海から内陸へ入った地域
どうも匂いますね。

以下が九州の弥生時代の遺跡の分布です。

博多湾より広い地域
有明海側に遺跡が分布しています。
この広い地域が邪馬台国で
この中に女王 卑弥呼の宮殿 があったはずです。


ド直球で三連投したつもりですが
私が考える邪馬台国
如何でしょうか。
コメント

魏志倭人伝 に記載されている邪馬台国までの道程

2020-05-24 15:51:53 | 歴史
今回も前投稿の続きです。
邪馬台国を紹介している魏志倭人伝をよく読んでみましょう。
帯方群(ソウル)南へ7000里
狗邪韓国(プサン)南へ1000里
対馬国(対馬) 南へ1000里
一支国(壱岐) 南へ1000里
末盧国(松浦半島) 南へ1000里
ここで船を下りて、陸路となります。
山が海にせまり、草木が茂りさかえ、前の人がみえないほどである
伊都国(糸島半島) 東南に陸行すること五百里
ここに一大率がいて、大陸との貨物を検査している。
帯方郡使が往来す るとき常にとどまる場所である。
奴国(倭奴国王の金印が送られた国)東南へ100里
不弥国(共に博多湾)東へ100里

帯方群は当時の魏が支配していた地域で現在の平壌かソウル辺りになります。
図にすると以下の通りです。

博多湾の沖ノ島から「漢委奴国王」の金印が発見されたこともあり
・伊都国(糸島半島)
・奴国 (博多湾周辺)
を疑う人は少ないです。

しかし、ここからが??
投馬国(とまこく)まで水行二十日である。
邪馬台国まで水行十日、陸行一月である。
邪馬台国の北に、つまびらかに出来ない国がある
21国の名前が記載されています。
邪馬台国の南に狗奴国があり、邪馬台国には属していない。
(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある


魏の役人は伊都国に留まり、奴国、不弥国(玄界灘の地域)までしか実際は知らない。
邪馬台国までの道程を倭人に問い合わせ
内容をまとめてみると・・・
なるほど、なるほど
帯方群から末盧国(松浦半島)まで 既に1万里
多分これが水行10日
邪馬台国まで残り2000里(陸行1月)
邪馬台国の北側に21の小国
南に敵対する狗奴国(男王 卑弓弥呼)がある。

更にこんな事も
・倭の地(理)を参問する(人々に問い合わせてみる)に
 海中洲島 のうえに絶在している。
 あるいは絶え、あるいは連なり、
 周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかり
・女王国の東(方)に、千余里を渡海すると
 また国がある。みな倭 種である。

如何ですか?イメージとして
末盧国(松浦半島)から邪馬台国まで南北で2000里程
周囲5000里なら東西も同じくらい
東の端が海(大分辺り)、船で千里の場所は四国
普通に読めば、この通りで魏の国が知る倭国は
九州を出る事は無いようです。

水行20日の投馬国は?の疑問は残ります。

これに対する近畿説の主張は
・「邪馬台国まで水行十日、陸行一月である。」
 不弥国 が出発点に変わる。
・「邪馬台国の北に21国がる」
 当時の中国は日本の南と東を間違えていた。
 不弥国から東へ進むが正しい。
・東にある海と倭人が住む国は
 奈良の北にある琵琶湖であり、その先にある倭種の国は福井辺り・・・
ちょっと、無理やり過ぎませんか!!
更に南にある歯黒国、裸国は?? ハワイって事に??
コメント

邪馬台国 九州説 と 近畿説

2020-05-24 14:31:33 | 歴史
前投稿で「邪馬台国 と呼ばれた国が日本(倭国)のどこかにあった」事は信じていただけたでしょうか。

この邪馬台国は何処にあったのか?
江戸時代から論争が続いていて
・九州説
・近畿説
の二つが主流です。

結論が出ないので、いろいろな説が出ています。
誰でも地元愛があるので「私の所に古代の大国 邪馬台国があったの!!」
心理的にはわかるのですが、きちんと理論で考えてみましょう。

・近畿説主張の強み
 邪馬台国は ヤマト国と発音して、後の大和朝廷の事
 最大の纏向遺跡(奈良県)が発見され、年代が卑弥呼の時代と重なる事が判明
・九州説主張の強み
 魏志倭人伝に記載されている通りに進むと九州の範囲になる。
遺跡調査が進む現在、近畿説が力をつけています。
纏向遺跡ってどんな遺跡?


「え~っ、私?」
はい、私は 九州説です。
※最初に主張しておきます。
多分これで近畿の方から嫌われたかもしれませんね。

では
九州説の主張 魏志倭人伝 を読み解いてみましょう。
コメント

邪馬台国 と 女王 卑弥呼は存在した。

2020-05-23 19:10:14 | 歴史
さて、前投稿の続きです。
以下は絶対に譲れない事実です。
239年
邪馬台国(30国ほどの小国連合)の卑弥呼が魏(中国)に朝貢して
親魏倭王(しんぎわおう)の称号と金印を授かる
248年
邪馬台国と狗奴国(くなこく)で戦争状態の中、卑弥呼の死す。

この時代に日本に 邪馬台国 と国があり
卑弥呼と云う女王がいました。


え~っ、何故言い切れるの?
古代中国の歴史書「三国志」に登場しているからです。
古代中国が魏・蜀・呉 の三国に分かれて戦争を繰り返した時代の歴史書です。

ゲームもなりましたのでご存知の方は多いと思います。
中国がこんな風に分かれていました。

日本に最も近いのが 魏 です。
三国魏の 魏の歴史の部分を 魏史 と呼び
魏の東の方の国々を紹介した部分が 東夷伝
その中に、 倭国について紹介した部分が 倭人伝 で
魏志倭人伝と呼ばれています。
難しそうなことがたくさん書いてありますね。
わかりにくいので 邪馬台国の会 さんの魏志倭人伝訳を参考にしてください。
ちゃんと、魏の皇帝が倭の卑弥呼へ「親魏倭王」の金印を贈ったと書いてあります。

え~、どこ?
では続き(のち程)を読んでください。


実は、その前の時代の歴史書「後漢書」には、倭国に王に「漢委奴国王」の金印を贈ったとあって
実際に、福岡県の沖ノ島で発見されています。


これなら信用していただけますよね。
邪馬台国も卑弥呼も架空の人物ではありません。
ちゃんと、実在していたことは間違いないです。
コメント

弥生時代(女王 卑弥呼の時代)をもう一度

2020-05-23 17:00:02 | 歴史
新しい話題が見つからず、久しぶりの投稿です。
最初の投稿から数年を経過しました。
過去投稿を重複しますが、もう一度まとめてみます。

最初に「何故、弥生時代?」って所です。
ネットで一番人気があるのは
・戦国時代
 織田信長や徳川家康など数々の戦国武将の時代です。
 およそ400年前
次に話題が多いのは
・世界大戦の時代(明治~昭和の時代です)
 やはり日中戦争、日露戦争、太平洋戦争の話題です。
 70数年前
そして
・疑似倭人伝に登場する邪馬台国の女王 卑弥呼 ではないでしょうか。
 弥生時代と呼ばれる、こんな時代です。
 ※過去投稿へのリンクですみません。
 以後こんな感じです。

今から1300年ほど前の出来事
文字もありません。
手掛かりが
大陸の歴史書「魏志倭人伝」や各地で発掘される遺跡です。

「歴史なんてあまり興味なし」とは言わずに
是非、お付き合いください。

私の他のブログで おもしろおかしく作成した
ミステリー小説「卑弥呼の秘話」がありますので
一度読んで頂ければ幸いです。

太平洋戦争についてもこちらで少し紹介しています。
こちらにも、勝手なお話「おもしろエクセル塾の夏旅行」

ぼちぼち、仕上げていきますので
お付き合いください。

コメント

魏志倭人伝~古墳時代~隋書、唐書 まとめ

2020-03-29 14:13:24 | 歴史
倭国の3世紀を紹介している魏志倭人伝
・帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里
・帯方郡から末盧国まで一万里、伊都国、奴国、不弥国まで数百里
・その南に21国
・その南に邪馬台国
・その南に狗奴国
・周旋五干余里、女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種
邪馬台国を含む倭国は九州北側半分くらいで間違いないでしょう。
・南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。
 は帯方郡から水行二十日で出雲ではないか。

後の古墳時代、九州でも国がまとまります。
末盧国、伊都国、奴国、不弥国、南の21国がまとまり筑紫
九州は豊国、肥国、熊襲国の四つに分かれる。

隋の時代(600年頃)
・中国と交流したのは三十余国
・国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
・地勢は東が高く西が低い
対馬、一支国など島々+九州の4国+出雲や安芸、吉備+四国の4国など
近畿は含ます。
隋の時代に、突拍子な国書を送ったのは大和の聖徳太子
しかし、その場所は明らかにせず。
・日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。
当時より
昼間(太陽神)と夜神の信仰があったようです。
太陽神 天照大神 と 黄泉の国 信仰の事だと思います。

唐書の時代(700年頃)
近畿の大和朝廷が国名を日本にする。
九州などの旧倭国陣営も賛成
西日本全土が日本となる。

しかし、まだ疑問が残る部分が
近畿の大和朝廷が、何故
ヤマト と呼ぶ名前を使ったのか??
邪馬台国 の邪馬台(ヤマト)が使われたと思いますが
如何でしょうか?

この後に「古事記」「日本書紀」が作成されますが
目的は。天皇家の正当性です。
しかし、九州の筑紫も出雲も無視できない状況だったのでしょう。
・天孫降臨の地は九州の高千穂
・神武東征の出発地は宮崎の日向
・天照の兄弟 素戔嗚が作った国は出雲
※天空の神様が住む国 高天原は昔の倭奴国
ヤマト朝廷が
・西日本を統一する為に配慮したのか
・事実伝承が残っていたのか
・大陸の史記を参考に九州(玄界灘)~山陰(出雲)を組み込んだ
但し、邪馬台国や卑弥呼など大陸の史記に登場する国や人名は
一切使っていません。
当時の天皇家を頂点にした上
西日本を統一する為に
最高の史記ではないでしょうか。
※但し、年代などはかなり出鱈目ですが・・・
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旧唐書に登場する「倭国伝」と「日本伝」

2020-03-29 13:03:49 | 歴史
隋の次の大陸の国 唐の時代史記
旧唐書 からです。
なんと
「倭国伝」と日本伝」に分かれていています。
これは 旧唐書 も 新唐書でも同じです。
・倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり
・日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
とはっきり 倭国 と 日本国 は違う・・・
日本の歴史書では
女帝の持統天皇の時代 89年に飛鳥浄御原令を施行し
『日本という国号』、『天皇という地位・称号』が公式に設定された。
この時代、大和朝廷は、九州の倭国をまだ統一するには至っていなかったようです。

倭国伝
・倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり
・東西は五月行、南北は三月行。
 隋書と同じです。隋書の倭国伝には、後の日本国「ヤマト朝廷)は含まれてません。
 ※新羅東南は出雲の可能性もあります。
・世ヽ中国と通ず。
 魏の時代の邪馬台国の事??
・其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為る。
 柵を作るは環濠集落的ですが500年近く前の時代
 塀を作るなら平安時代の屋鋪です。
・四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。
 国の数も増えている。筑紫+出雲か?
・官を設くる十二等あり
・すこぶる文字あり、俗、仏法を敬う。
・衣服の制は、すこぶる新羅に類す。
聖徳太子の冠位十二階も筑紫が始まりなのか?

日本国
・日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
・倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす
・日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり』と。
・その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こた)えず。故に中国焉(こ)れを疑う。
聖徳太子の「日出・・・」の国書の事でしょう。
怒りと云うより、倭国の国書ではないと疑っていた。

・其の国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り
・東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なり
確かに近畿を中心に
西界の海は伊勢
南界の海は和歌山
東界北界は大山ありて限りをなし
日本アルプスなど中部から関東に至るのでしょう。

旧唐書 と 新唐書 の違いに
旧唐書 倭国が日本国を統合
新唐書 日本国が倭国を統合
と違いが見れます。
冠位十二階など体制が倭国から日本国に伝わったので 倭国が日本国を
国名の日本国を 倭国も使う事になったので     日本国が倭国を
いずれにしても大きな武力闘争があって
西日本が「日本」と云う国にまとまった訳ではない様です。

日本の史記「古事記」「日本書紀」では
527年に筑紫磐井の乱があり、大和朝廷が勝利しています。
冠位十二階も仏教伝来、漢字の普及もヤマト朝廷が・・・
大和の天皇家の正当性を主張する「古事記」「日本書紀」ですので
鋳方がないと思います。
次に、簡単にまとめてみます。
コメント

隋書から見える当時(600年頃)の日本

2020-03-29 11:49:10 | 歴史
隋書の冒頭の部分は
後漢書や魏志倭人伝を参考にしたのでしょう。
同じような事が記載されています。
・倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
・魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国
・夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
・その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
魏志倭人伝では
めぐりまわると5千里、東に海があり船で1日倭人の住む島がある。
九州と四国との関係と思われますが
東西は五ヶ月行はかなり長く感じられますし、東の果ての海とは??
瀬戸内海の航路もありますので5か月の情報はいつの時代なのか?
長崎~博多湾~北九州~大分~宮崎 が5か月
博多湾~有明海側を南下~鹿児島  が3か月?

・邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。
・古には、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れ
・會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。
隋の時代には邪馬臺(ヤバタイ)は存在していない様な書き方です。

以下が隋の時代の出来事です
600年
・倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。
・お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。
・使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。
・日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”
アマ・タリシホコ・アハケミ = 聖徳太子 の様です。
・内官(中央官僚)には十二等級がある。
・隋代に至って、その王は始めて冠を制度化し、
・錦や模様のある布でこれを作り、金、銀の花模様を散りばめて飾りとしている。
大分、身なりや宝飾も変わったようです。
菌の冠などは朝鮮半島の文化が古墳時代に伝わったのでしょう。
・仏法を敬い、百済に仏典を求めて手に入れ、始めて文字を知ったのである。
・阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。
ちゃんと阿蘇山と云う名前が出ています。
607年
タリシホコ(聖徳太子)は使者を派遣し朝貢した。
・使者は
 『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。』
・その国書にいう。
『日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々』 
帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」
まさに聖徳太子が小野妹子に託した
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」 で始まる国書です。
608年
・煬帝は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。
・百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。
・またチクシ(竹斯)国へ至り
・また東の秦王国に至る。
・その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。
・また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。
漢字は違いますが伊都国・奴国が筑紫になっています。
この時代も筑紫が窓口で、その東は良くわからない??
東へ十余国を経て 海なのか?
南へ十余国を経て 海なのか?
筑紫~安芸~吉備~難波~大和~伊勢までに10の国??
610年にも遣使を派遣しているようです。
ここで不思議と思うところは・・・
大和(ヤマト)と国名が出てきていません。
聖徳太子様
我が国は
倭国を改め
「大和と書き、ヤマトと読む」
と伝えてほしかったです。
その大和の場所も詳しく紹介してほしかった。
「日出る処の天子・・」の国書を渡すと怒りを買う事を知り
あえて、大和の場所は伏せたのでしょうか?
小野妹子らは、その内容を知って渡したのでしょうか?
命がけですね。
小野妹子 は大陸では
蘇因高と表記されたようです。
苗字は 和邇 =>蘇
名前の 妹子 =>因高(インコー??)
と名乗ったようです。
まあ、無事に帰ってこれたようですが
怒り狂った返事を聖徳太子に渡す時の気持ちは??
次の旧唐書を読めば少しわかります。
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隋書、旧唐書にみる古代の日本

2020-03-28 18:34:25 | 歴史
久しぶりの投稿です。
しばらく卑弥呼の時代(3世紀)から
時を超えて(300年ほど)
600年代位の日本について
大陸の史記
隋書
旧唐書
に倭国伝(日本伝)が登場しますので紹介してみたいと思います。
その前にさらっと復習です。
3世紀中ごろ卑弥呼が亡くなり
大陸でも魏蜀呉の三大国も滅び戦乱の時代に突入します。
魏志倭人伝には
伊都国、奴国が大陸との窓口で
その南に邪馬台国があり、女王卑弥呼の宮殿がある。
前投稿が私の主張ですが
有明海側の広い地域が邪馬台国で
その一部に卑弥呼の宮殿があったと推察しています。

大陸が乱れると、力をつけたのが朝鮮半島の高句麗です。
倭国は大陸との航路が閉ざされてしまい
古墳時代と呼ばれる日本独特の時代に変わります。
朝鮮半島の百済や新羅も同様です。
倭国と違うのは
・北の高句麗から攻められる。
・南の倭国から攻められる。
この時代、幸いに倭国は他国(朝鮮半島の高句麗など)から
攻められる事は無かったようです。
当時の大陸 宗宛に送った倭王の手紙(倭の五王)
などが当時の朝鮮半島の奪い合いを紹介しています。
661年の白村江の戦い
・百済復興を応援する百済・倭国連合
・新羅・唐の連合軍の争いで
倭国完全に敗退、百済滅亡
は事実でしょう。
ちょうど、その前の時代を紹介しているのが
隋書
旧唐書
です。
特に旧唐書に
・倭国伝
・日本伝
と日本の事が二つに分かれていて
日本国は倭国の別種である。
と書いてあるのです。
既に、古事記、日本書紀でも
当時の日本の事がかなり高い信ぴょう性と思われる記述があります。
ちょうど、聖徳太子や遣唐使の小野妹子ら時代です。
既に漢字を使った文字が存在している時代です。
この二つの史記から当時の日本を推察してみます。
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