更に時代を遡って四世紀
さすがに日本の遺跡から時代の決め手になる文字(年代)がありません。
唯一、朝鮮半島(百済)から贈られた 七支刀(しちしとう)
奈良の石上神宮に残っており
「泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■・・・・」
朝鮮半島の百済から倭王へ贈られた繁栄を祈願した文字を刻んだ奇妙な形の刀です。
しかし、年代の決め手になる一文字が解読出来ていません。
西晋の「泰始四年」(268年)として判読する説(管政友)。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、浜田耕策ら)。「泰」は「太」と音通するため。
劉宋の「泰始四年」(468年)説(宮崎市定)。
の三説が・・・
「日本書紀」には神功皇后に七支刀が贈られたと記載されているので
当時(平安時代)には七支刀の存在は知られていたようです。
更に、倭王の名前もありません。
とりあえず、倭国と友好的でありたかっただけかもしれませんね。
もう一つは「広開土王碑」です。
「高句麗(現在の北朝鮮付近)の王が侵略してきた国の兵を追い返した。」と書いてあります。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
仮に七支刀が「太和四年」(369年)だとして
・369年 倭国と百済は友好的?(倭人が侵攻していた)
・徐々に、倭国軍は北へ(高句麗へ)すすんだ。
・396年 ついに高句麗と衝突
・404年 倭軍は朝鮮半島から撤収する。
もう一つ、大陸の歴史書(宗書)に倭国の五人の王は朝鮮半島支配について書いた手紙があります。
420年~479年
朝鮮半島の支配に軍を出した倭国の王から大陸の宋へあてた手紙
5人の歴代の王が倭王と名乗り、朝鮮半島支配の為に出兵するが
その戦争はうまくいかず
最後の王は止む無く兵を退ける決断をした報告の手紙です。
広開土王碑以後も朝鮮半島へ出兵して支配を考えていたようです。
「倭の五王」と呼ばれてい手紙の内容から親子、兄弟が登場するので
16代 仁徳天皇から21代 雄略天皇ではないかと考えられています。
しかし、どうでしょう
これも「古事記」「日本書紀」の作者の術で
「倭の五王」手紙に合うように親子、兄弟の天皇を設定したと考えられます。
前の投稿にある様に、400年代 名前を漢字の読みで当て字にしていますが
「倭の五王」の手紙では、5人の王、讃・珍・済・興・武と名乗っています。
大陸で十分通じる手紙でもあります。
倭の五王を歴代の天皇に宛てる事が
「古事記」「日本書紀」の作者の術中にはまっていると思います。
なかなか、四世紀(古墳時代)の日本の状況にはたどり着けないですね。
さすがに日本の遺跡から時代の決め手になる文字(年代)がありません。
唯一、朝鮮半島(百済)から贈られた 七支刀(しちしとう)
奈良の石上神宮に残っており
「泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■・・・・」
朝鮮半島の百済から倭王へ贈られた繁栄を祈願した文字を刻んだ奇妙な形の刀です。
しかし、年代の決め手になる一文字が解読出来ていません。
西晋の「泰始四年」(268年)として判読する説(管政友)。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、浜田耕策ら)。「泰」は「太」と音通するため。
劉宋の「泰始四年」(468年)説(宮崎市定)。
の三説が・・・
「日本書紀」には神功皇后に七支刀が贈られたと記載されているので
当時(平安時代)には七支刀の存在は知られていたようです。
更に、倭王の名前もありません。
とりあえず、倭国と友好的でありたかっただけかもしれませんね。
もう一つは「広開土王碑」です。
「高句麗(現在の北朝鮮付近)の王が侵略してきた国の兵を追い返した。」と書いてあります。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
仮に七支刀が「太和四年」(369年)だとして
・369年 倭国と百済は友好的?(倭人が侵攻していた)
・徐々に、倭国軍は北へ(高句麗へ)すすんだ。
・396年 ついに高句麗と衝突
・404年 倭軍は朝鮮半島から撤収する。
もう一つ、大陸の歴史書(宗書)に倭国の五人の王は朝鮮半島支配について書いた手紙があります。
420年~479年
朝鮮半島の支配に軍を出した倭国の王から大陸の宋へあてた手紙
5人の歴代の王が倭王と名乗り、朝鮮半島支配の為に出兵するが
その戦争はうまくいかず
最後の王は止む無く兵を退ける決断をした報告の手紙です。
広開土王碑以後も朝鮮半島へ出兵して支配を考えていたようです。
「倭の五王」と呼ばれてい手紙の内容から親子、兄弟が登場するので
16代 仁徳天皇から21代 雄略天皇ではないかと考えられています。
しかし、どうでしょう
これも「古事記」「日本書紀」の作者の術で
「倭の五王」手紙に合うように親子、兄弟の天皇を設定したと考えられます。
前の投稿にある様に、400年代 名前を漢字の読みで当て字にしていますが
「倭の五王」の手紙では、5人の王、讃・珍・済・興・武と名乗っています。
大陸で十分通じる手紙でもあります。
倭の五王を歴代の天皇に宛てる事が
「古事記」「日本書紀」の作者の術中にはまっていると思います。
なかなか、四世紀(古墳時代)の日本の状況にはたどり着けないですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます