古代日本の歴史を謎解き

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旧ブログから引っ越しです。

日本神話ストーリーの矛盾

2020-11-30 17:47:18 | 歴史
神話ですので、現実を知る私たちから見れば信じられない事ばかりです。
年代設定や年齢が異常に長い、仙人でしかない。
八岐大蛇の様な化け物登場など
大和朝廷のご先祖様が素晴らしかったことを誇張する為に
色々な話が盛り込まれたのでしょう。
しかし、天皇家の正当性を主張する為の「古事記」「日本書紀」です。
何故?と思われるストーリーの部分です。
・天皇家の祖が 女性 天照大神から始まる。
 歴代天皇は男性の子孫です。
 三貴神 天照大神、素戔嗚、月読 ですが
 天上界の高天原に残るのは男性の方が良くないですか。
・追放された素戔嗚が出雲で再度活躍する。
 最後は国譲りの話となり、ちょっと見苦しい。
 天孫降臨した神様が次々と国を作った方がふさわしい。
・天孫降臨の土地が九州の高千穂
 近畿の山に降臨して周囲の国々を従えてくストーリの方が良い
・神武東征の必要性
 天皇家の祖先は九州生まれ、近畿に上陸するも古銭の連続
 二人の兄を失う。
・八俣のオロチの尻尾から出てきた草薙の剣
 ライバル国を滅ぼし奪った剣が国の宝になっている。
・海幸彦・山幸彦は九州、素戔嗚の活躍は出雲
 近畿以外の地域が日本神話
 もちろん、東海や関東が神話の舞台になる事はありません。
大和朝廷が栄える以前は九州と出雲の方が栄えていた時代背景の物語です。
古墳時代、飛鳥時代の伝承が西日本全域で知られていたのでしょう。
或いは、神武東征が事実であったのかもしれません。
もし、邪馬台国近畿説で邪馬台国が後の大和朝廷であるなら
神武東征は卑弥呼より以前、弥生時代中期以前の出来事になります。

天照大神は卑弥呼 或いは 台与など邪馬台国の宗女で
後に結婚して新しい国を九州の起こしヤマト国名乗る。
古墳時代に九州を離れて近畿で復興する。
この言い伝えに色々な話を盛り込んだと考える方がすっきりするのですが
如何でしょうか。
ちょうど、卑弥呼の死後、3世紀後半に近畿で鉄製品の出土が見受けられます。
台与らが九州から近畿へ移住する際に鉄製品を持ち込んだのではないでしょうか。
青銅製から進化した鉄の剣
卑弥呼の祈祷に使った鏡
先祖代々、大切にしていた勾玉
この三つが揃う条件が出来ます。
それ以外では
近畿のヤマト朝廷が手に入れた、或いは当時の職人に作らせた
・立派な剣
・大きな鏡
・きれいな勾玉
かもしれませんが
何故のこの三つと云う疑問は残ります。
その由来は、卑弥呼や台与の登場を考えると腑に落ちます。

古墳時代の日本

2020-11-30 16:41:52 | 歴史
卑弥呼の死後の4世紀は大陸の歴史書から日本の紹介が無くなります。
一方で古墳や埴輪など新しい遺跡が登場します。
弥生式土器も無くなり
土師器、須恵器へ発展します。
この時代の手掛かりに日本最古の歴史書「古事記」などが参考になります。
日本神話の国産みの神話では
九州を 筑紫島 として
  筑紫国(つくしのくに)を白日別(しらひわけ)といい
  豊国(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)といい、
  肥国(ひのくに)を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、
  熊曾国(くまそのくに)を建日別(たけひわけ)という。
と紹介しています。
筑紫と白日別などと二つの呼び名がある様です。
筑紫は地元の一族が自ら付けた国名で
白日別は大和朝廷が付けた呼び名でしょう。
それぞれに由来がある様です。
筑紫は、福岡、佐賀の玄界灘側の国で一族の名前です。
肥国は、長崎、佐賀、熊本など有明海側の国です。
この地域に卑弥呼の邪馬台国があったのでしょう。
豊国は、大分辺りです。
卑弥呼の次の女王 台与(トヨ)の由来ではないでしょうか。
熊曾国は、卑弥呼のライバル 卑弥弓呼の狗奴国の名残でしょう。
弥生時代に銅矛文化圏に属していない地域です。
さすがにこの名前には納得しなかったのでしょう。
後に、日向や薩摩になります。
最後に 本州、大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)が出来たとしています。
「古事記」に記載されている神話の部分は
古墳時代の出来事です。
さすがに、弥生時代や縄文時代まで歴史を遡る事は出来なかったのでしょう。
もちろん、魏志倭人伝など大陸の史記も呼んだでしょうが
基本的に無視しています。
大和朝廷の国名は
最初は 倭 言う漢字で ヤマトと呼び
漢字を 和に変え、最後に 大和 と云う二文字に変化したようです。
最後まで 倭(ワ)と云う文字に固執したのが大和朝廷です。
そして、呼び名も 何故か ヤマト 邪馬台国も ヤマト国です。
天皇の三種の神器が
八咫鏡 (やたのかがみ)
八尺瓊勾玉 (やさかにのまがたま)
草薙の剣 (くさなぎのつるぎ) 
となったのも神話のお話です。
勾玉 は縄文時代から日本にある飾り物で、守り神の信仰です。
剣  は武力で弥生時代の銅矛文化の名残でしょう。
鏡  は大陸から伝わったもので、魏国が卑弥呼に怒った事で有名です。
大和朝廷は、弥生時代に邪馬台国(ヤマト国)
銅矛文化圏、卑弥呼の鏡の祈祷 の歴史を引き継いでいる事を伝えています。
神話の最後は 神武東征の話になります
九州の日向を出発して山陽を経由して近畿へ上陸
新しい国を作ったという流れです。
当時の大和朝廷には必須の事実ではないでしょうか。


卑弥呼の死

2020-11-30 15:21:39 | 歴史
243年、卑弥呼は再び魏国へ贈り物を贈り沢山の位を受けます。
245年には、難升米に黄幢(黄色いはた)を渡して対立する狗奴国の卑弥弓呼にも
見せつけたでしょう。
しかし、卑弥弓呼は手を引くどころか更に怒りを爆発させます。
遂に、247年に張政らが卑弥呼の元へ乙津れる事になります。
しかし、張政らが倭国に着いた時には、卑弥呼は亡くなっていました。
卑弥呼の葬儀も終わっています。
卑弥呼は
老衰によって亡くなったのか
狗奴国との戦いで殺されたのか
余りにもタイミングが良すぎます。

玄界灘側の国々(筑紫など)も南方の邪馬台国の祈祷師に従う政治に対する反対があったでしょう。
大陸の役人、張政らが直接、卑弥呼に合う事を拒んだのです。
それまでは、大陸の役人は伊都国に留まり、倭国を観察しています。
張政らが邪馬台国まで出かける事には反対しました。
卑弥呼が亡くなったわけでは
卑弥呼の祈祷による指示に従う事を止めた。
卑弥呼の祈祷政治に終止符を打ったのです。

卑弥呼の死後、男王がたつが国中はでは争いがおこり
結局は卑弥呼の宗女であった13歳の壱与(台与)を王とする事でまとまったとあります。
13歳ですので、知識も権力もない壱与(台与)に祈祷を任せる事で
祈祷が国づくりに対する影響力をなくして、祭りごととして参加させたのでしょう。
まもなく、魏も滅んでしまいます。
古墳時代は、筑紫や出雲など力がある豪族の国々に分かれて統一されていきます。
大陸も乱れるので交易の相手は、朝鮮半島の百済、新羅が対象です。
日本海側の筑紫、出雲は朝鮮半島の金製品や武力の為の馬、馬具などを入手して
武力と財宝で栄えていきます。
力を失った卑弥呼の宗女たちは諸国へ嫁入りすることで平和を維持させる役目を担います。
壱与(台与)の国も滅びることはなく長く続いたようです。
そして、張政らに生口三十人を献上するなどして国へ送り返しています。
日本では
銅矛や銅鐸を神器とする祈祷文化がなくなり
環濠で周囲を囲う環濠集落もなくなります。

卑弥呼の苦労

2020-11-30 14:50:33 | 歴史
女王になった卑弥呼の元へは
沢山の貢物が贈られ
若い女性も贈られます。
卑弥呼の為に新しい館も建てられたでしょう。
それは大きな環濠の集落で、中では卑弥呼と女性たちが暮らし
周囲は男性が守るという光景が目に浮かびます。
そして、卑弥呼は239年に魏の国へ使い(難升米ら)を送ります
その年の12月には「親魏倭王」の制詔(みことのり)がきまり
240年には、帯方郡の太守の弓遵は、建中校尉らを倭国へ送り
詔書・印綬の他、沢山の贈り物が届きます。
順調に思われた卑弥呼の政治ですが
南に接している狗奴国との対立は深まっていたようです。
元々は隣国なので親しくしていたでしょうが
倭国の代表となり、卑弥呼の館は徐々に大きくなり
邪馬台国は栄えていきます。
一方、狗奴国の祈祷師 卑弥弓呼は、これを喜びません。
卑弥呼が魏国へ使いを送り、魏国から王の印を受ける等
倭国の代表として認めなかったのでしょう。
卑弥呼も南に位置する狗奴国へは、大陸の知識や農耕具
鉄製品を渡しませんでした。
その為、九州南部では鉄製品の普及が無く
九州北部とは全く異なる文化圏となります。
武力の証であった銅矛を祀る事はありませんでした。

こうして、狗奴国の卑弥弓呼の反乱で倭国統一する卑弥呼の夢は徐々に壊れていきます。

何故、卑弥呼の祈祷に委ねたのか

2020-11-30 13:52:56 | 歴史
魏志倭人伝によると190年頃に
諸国が卑弥呼の祈祷に全てを任せる事で
大乱が静まったとされています。
卑弥呼が女王になったと表現されていますが
当時の日本に女王と云う呼び名はありませんので大陸が付けた呼び方です。
当時の村々(集落)に一族の長(王)と王に提案を出す祈祷師がいたようです。
環濠集落の中には、祈祷や祭りごとの建物があります。
村々の祈祷師が、それぞれ異なった占いの結果を王に伝えていたので
栄える国、飢饉で食糧難に陥る国が出て食料の奪い合いから大乱に発展しました。
残り30国ほどにまとまった九州北部の王たちは、祈祷を一人に委ねる事で
争いを避ける提案をしたのでしょう。
しかし、誰でも自分の村から代表者を出したいと云う気持ちがあります。
最後の構ったのが邪馬台国の卑弥呼です。
邪馬台国は30国の国々の一番南にある大国です。
倭国大乱の様な争いが少ないまま小さな村々が一つにまとまっていました。
その国(邪馬台国)の祈祷師(卑弥呼)に祈祷を委ねる事で九州北部の国々の意見がまとまったのです。

弥生時代の倭国大乱

2020-11-30 13:29:13 | 歴史
平和な時代だった弥生時代に争いごとが始まります。
西暦100年頃から始まったとされている倭国大乱です。
人口も増えて小さな集落も徐々に大きくなり
建物中ではそれぞれの役割に値する仕事をしていました。
毎年が豊作であれば良いのですが、飢饉の年もあったでしょう。
その時に始まったのが、食料の奪い合いです。
狩猟の為の弓なども大型化して武器になり
大陸から鉄製の武器を手に入れます。
鉄製品の武分布を見ても

この分布を見ても西暦100年頃の倭国大乱は丹生州北部が中心です。
出雲や若狭湾の地方の鉄製品は大陸から直接手にいれたのでしょう。
山陰側の地方では豊かな食物と九州地方の鉄製品との物々交換です。
地理的には山陽より近いはずの九州南部
鹿児島や宮崎では鉄製品がありません。
阿蘇山を中心とした山脈が国を分けていたでしょうが
全く違う文化の国があり、九州北部の村々を襲う事は無かった証です。

弥生時代の始まりは定かでない

2020-11-30 13:04:48 | 歴史
もう一度、弥生時代についてざっくりと・・・
弥生時代と云えば
・縄文土器と違って、薄い土器で世界津に必要な器などが大量に生産されています。
・大陸から伝わった農耕の技術で定住性の生活に変わっていきます。
・木製、青銅製の農耕具などが使われ始めます。
・織物の技術も伝わり蚕を使った絹なども使われ始めます。
・徐々に建物も大きくなり倉が出来て、集落も環濠で周囲を囲った環濠集落へ発展
・食料が貯えられると奪い合いが起きたのでしょう。
・狩猟用の弓などが大型化して武器に発展します。
これらが一斉に短期間で出来たわけではありません。
農地の開拓や建物、集落の構成は何年もかけて徐々に大型化しています。
九州北部から徐々に東へ広がり近畿や関東へ伝わっていきます。
弥生時代の始まりを決めることはできません
紀元前500年頃から西暦100年頃までかけて徐々に日本各地へ広がっています。
大陸人が一斉に攻め込み日本列島を支配して新しい国が出来たわけではないのです。
徐福の様に大陸での争いに負け、廃車となった一族が国を捨てて
大陸の影響の及ばない海の向こうの土地へ移住したからです。
そして彼らは出会った縄文人たちと共に暮らすという選択肢をしたわけです。

弥生時代の二つの文化圏

2020-11-29 13:45:00 | 歴史
前投稿の補足です。
弥生時代(卑弥呼の時代)には西日本は
銅矛文化圏(九州中心)
銅鐸文化圏(近畿中心) に分かれていました。
出雲など中国地方には別の文化圏もあります。

この時代の鉄製品の普及は、銅矛文化圏です。

想像出来る事ですが
銅矛文化圏では、武力が信仰されていて、争い事があった。
弥生時代に大陸から銅矛や鉄製品の武器も入ってきます。
新しい国造りの課程で争いが続いたのでしょう。
魏志倭人伝では、90年に及ぶ倭国大乱と記されています。
銅鐸文化圏では、比較的平和で、争いごとは少なかった。
農耕や環濠集落など大陸の文化も入ってきますが
幸いに鉄製品の普及は遅れています。
後の大和朝廷にみられる連合国体制は銅鐸文化圏の方が早かったのでは?
倭国大乱の後、諸国から推薦された女王卑弥呼がとった政策は
祈祷の信仰を中心とした連合国家体制です。
卑弥呼は銅鐸文化圏の国づくりを参考にしたのでしょうか
或いは、銅矛文化圏の出身だったのか?
もし、卑弥呼が銅鐸文化圏の大和朝廷の覇者であれば
卑弥呼の時代に銅矛文化圏が無くなりそうですが。

卑弥呼の死後
銅矛文化圏、銅鐸文化圏は無くなり
環濠集落など弥生時代の特徴もなくなります。
西日本では
九州の 筑紫
山陰の 出雲
近畿の 大和 など強国ごとに分かれた古墳時代に突入します。
200年以上の歴史を得て
飛鳥時代、奈良時代、平安時代に仏教、漢字が伝わり
大陸の国づくりを真似する為に遣隋使、遣唐使を派遣
日本国として一つにまとまります。
女王卑弥呼の邪馬台国が西日本を統一した連合国とは考えにくいのですが
如何でしょうか。

『漢書』に登場する東鯷人

2020-11-29 13:03:27 | 歴史
『漢書』ですので、魏志倭人伝より前の時代です。
燕地の条には「夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」
朝鮮半島を経由して海(玄界灘)を渡ると 倭人が住む国があって百余国に分かれていた。
魏志倭人伝では、90年ほど続いた倭国大乱の後、百余国が30国にまとまったとありますので
時代的にも説明はあっています。

もうひとつ
呉地の条には「会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」
この東鯷人の国、東鯷國(とうてい)の否定地は??
当時の大陸の会稽は


会稽海中が沖縄を含む東シナ海の島々
会稽海外は更に東です。
東へ行くとやはり日本列島へ到着します。日本列島の四国、近畿(?)
100余国の 倭国と
20国  の 東鯷国
朝鮮半島経由と東シナ海を船で渡る航路の二つ行程ですが
同じ日本列島の様です。

糊の三国志の 呉志(呉書)には
孫権の東方遠征の記述がある様です。
ざっくりと説明すると
230年三月、孫権は将兵万人を遣わし、海に出て夷洲および亶洲を求めさせた。
「秦の始皇帝は、徐福が童男童女数千人を連れて海に出でて、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、
 この島に留まって帰らなかった。
 代々続いて数万家にもなり、そこの人民は、時に会稽に来て取り引きをすることがある。
 会稽の東の県人は海に出て風に流され、移って亶洲に行った者もいる」
 その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶洲には行きつけなかった。
 だが、夷洲には行くことができ、数千人が帰ってきた。
卑弥呼の時代に呉は東方へ兵を出して、徐福伝説の仙人の国へ出発しています。
その目的地は 亶洲 ですが、行きつくことはできなかった。
途中の夷洲で引き返した。
亶洲 は徐福の末裔の国の様です。
東鯷国の記述はありませんが、亶洲と云う国が登場します。
亶洲からは交易でしょうか?、人がまで来ているが会稽
会稽から亶洲まで出かけて戻ってきた人はいない様です。

亶洲=東鯷国=日本の国のどこか?
で間違いな様です。
福永晋三先生の倭国、東鯷国説は説得力があります。


人類のルーツ

2020-11-22 19:47:20 | 歴史
前に投稿しました日本人のルーツのおまけです。
世界人類のルーツのお話です。
現代人のDNAを調査したけったか現代人のルーツは
アフリカ発祥の ホモサピエンス とされています。
約20万年~10万年前にアフリカで現生人類へ進化したのち
6万年前にアフリカを離れて長い歳月を経て世界各地へ広がった。

原人は、ホモサピエンス以外に
・ネアンデルタール人
・ジャワ原人
・北京原人など有名です。
ホモサピエンス以外の人類は滅んだ
ホモサピエンスと他の人類を混血になって進化した
二つの説に分かれているようです。
ホモサピエンスはアフリカの地を旅立つ(約6万年前)
南アジアに到着(約5万年前)
日本に到着(約4~3万年前)とされています。
比較的歴史がわかる卑弥呼の時代から現代まで1800年位ですので
途方もない歴史が残っています。

西のヨーロッパへ向かった一族は白人
東のインド、アジアへ向かった一族は黄色人種
必勝時間の違いだけでしょうか
シベリアからアメリカへ渡ったのがアメリカインディアンなら
アメリカの原人も各人化しそうな気がします。
意外と我々が知らない原人が既に住んでいて混血した可能性があります。
東へ進んだホモサピエンスですが
日本列島へは
・北方経由
・朝鮮半島(九州)経由
・東シナ海からの航路経由
と幾つかあり、混血になっています。
そして氷河期が終わると日本列島は大陸から切離れます。
一方、陸続きのヨーロッパの国々では
ユダヤ人やアラブ人などそれぞれの一族の国が形成されたようですが
陸続きであったために争いが絶えず、エジプトの様な滅んだ国もあります。
中国においても
揚子江流域
黄河流域
それぞれの上流下流と離れて国が掲載せれたため
中国4千年の歴史は戦争の歴史です。

菱倭人伝に登場する1世紀位の倭国大乱の後の
邪馬台国の連合政権
大和朝廷の連合政権 の政策は
世界的に見ても異例です。
その後の朝廷を中心とした権力集約の歴史が続きます。
現在でも平和と軍事についての思考は日本は特別です。