古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

弥生時代の人口(出生率、家族構成)

2019-12-31 23:50:53 | 歴史
さらに疑問
・国の大人はみな四・五婦、下戸(庶民)もあるいは二三人の婦をもつ
不思議です。
この時代でも、男女の出生比率は半分半分なはずです。
一人の男性が4人の妻を持ったとすれば
残り75%の男性は結婚できない。
もちろん、住む家もありません。
当時の寿命は短いです。3~40歳
4人の奥さんと結婚
10代で結婚、出産(女性が赤ちゃんを二人出産)
男女4人づつ8人の子供が生まれる。
4人の女性は、他の家の嫁さんへ
これで、一人に4人の婦 の計算が成り立ちます。
しかし、男子で3人余りが出てしまいます。

縄文時代の狩猟生活であれば
狩猟で男性が亡くなった
は考えられますが
時は弥生時代、集落で暮らす農耕の時代です。

考えられる事は
倭国大乱
・男性は戦闘員として集められ殺しあった。
・卑弥呼が女王になり大乱は収まるが、守衛の為に集められた。
・男性は権力をもつ者の労働力になった。
・後の古墳時代には、古墳を建てる為の労働者です。

農耕や織物など主な産業は女性の仕事
戦争・守衛や建築、食料運搬など男性で
権力者の元へ集まられる。
この体制は弥生時代以後も続いたと思います。

弥生時代初期
人口は農耕による食糧自給により決まっていましたが
弥生時代後期(卑弥呼の時代)
人口は権力者の住む国に集められます。
もちろん、食料も一緒に集められました。
農耕の面積=人口 の関係も崩れてきたでしょう。

邪馬台国7万戸の情報が
倭国大乱の時代、或いは直後であれば
邪馬台国はかなり広大な農耕地を持った国ですが
卑弥呼が魏国に使いを送ったり、金印ももらった後であれば
農耕領地は関係なく、男性が卑弥呼の宮殿へ運んだ。
卑弥呼自信も1000人の女性と共に生活していたとあります。
人口は権力であり、国づくりに必要な労働力だったのです。
邪馬台国7万戸は
奴国2万戸の3倍以上の農地をもつ広大な国ではなく
周辺国から食料と労働力を集めた
人口密度の高い国だったのではないでしょうか。
倭国大乱後も狗奴国との争いが続いています。
卑弥呼を守る為に周辺の国々から男性を兵隊として集めたはずです。
そのため、男性が少なく
一人に男性に3~4人の女性と結婚して
子孫を増やす事が続いたのではないでしょうか。

弥生時代の人口(遺跡から)

2019-12-31 23:27:16 | 歴史
続いて、遺跡から考えてみます。
サンプルは、吉野ヶ里遺跡です。
ピーク時(卑弥呼の時代)
・環濠が二重になり環濠内に1200人
・農耕など食料を作る為の集落とあわせて5400人
環濠内では
・王族
・織物や鋳造な特殊な産業
・環濠を守る戦闘員
・祈祷師
・食料保管、分配の為倉庫があります。
都 となる部分です。

環濠の外は
・農耕や狩猟など食料を生産する人
面積的には、環濠内より何倍も広いです。

こんな感じの集落が環濠の周囲にいくつもあったのでしょう。
簡単に
吉野ヶ里が5000人
弥生時代に人口が300万人なら
吉野ヶ里規模の集落が各地に600程あった。
吉野ヶ里の半分ほど規模なら1000程
倭国は100国から30国なった
ならば、吉野ヶ里規模が20個ほど集まって1国?
まあ、想像は出来ます。

食料を準備する人口    4
食料を管理、祈祷を行う人 1
の割合ではないでしょうか。

農耕を行う集落は
数ヘクタール程の農地に
10~15戸程に人々
一戸 10数人なら
一集落が200人程
4000人は
20程の小さな集落が
環濠の周囲にあって
環濠内で生活する人口を支えていたのでしょうか。
つまり、吉野ヶ里(河川が一つ)は
200~400戸+環濠内の戸数
弥生時代の最大と思われている吉野ヶ里遺跡
対馬国千余戸にも及ばない規模です。
人口5400人は、全くの小国と云う事です。
唐津湾の末廬国 5倍以上
博多湾の奴国 25倍以上 
邪馬台国7万戸は比較になりません。
吉野ヶ里規模の集落が100以上あって邪馬台国

人口は農地面積の比例するでしょう。
吉野ヶ里の5倍ほど=唐津湾(末廬国)
唐津湾の5倍ほど =博多湾+多数の河川沿い内陸まで(奴国)
考えられない事もないで鵜す。

では、邪馬台国7万戸
奴国(博多湾)の3倍以上
・有明海の場合
 長崎、佐賀、福岡、熊本を広い範囲です。
※吉野ヶ里は、邪馬台国の一つだったかもしれません。
 或いはその他21国の
 呼邑国(おぎこく)=小城
 華奴蘇奴国(かなさきなこく)=神崎
の可能性もあります。

邪馬台国 近畿説(奈良盆地)の場合
7万とは奈良盆地だけでは狭すぎます。
邪馬台国は
大阪湾~奈良まで広い地域を指しているでしょう。
近畿全体が邪馬台国7万戸(35万人)かもしれません。
卑弥呼の宮殿が吉野ヶ里遺跡より
何十倍も大きい必要はないです。
婢千人と共に生活しています。
規模的には、吉野ヶ里の環濠です。
但し、吉野ヶ里の環濠は二重構造で
守衛の武人がいたはずですの
卑弥呼と共に生活していた婢千人は
吉野ヶ里内環濠ほど地域で生活していたかもしれません。
周囲に男性の守衛が生活していたとすれば
卑弥呼の宮殿が吉野ヶ里の2倍程の環濠集落だったのではないでしょうか。

しかし、近畿説に 弥生時代の300万人を考えると
・九州には 奴国他 3万戸(15万人程)
※九州に吉野ヶ里規模の集落が30
 少し少ないような気がします。
・近畿には 邪馬台国7万戸(40万人程)+狗奴国
・山陰には 投馬国 5万戸(30万人程)
瀬戸内海や四国を鑑みても
西日本に300万人の三分の一
100万人では少ないように思います。
弥生時代初期~中期 人口は九州と山陰に
弥生時代末期であれば人口は西日本に集中
です。
7万戸の  邪馬台国 と
隣接する国 狗奴国(対等に戦える)
この二つが共存する土地があったのでしょうか。

邪馬台国7万戸も大げさな数値とも云われています。

弥生時代の人口(魏志倭人伝から)

2019-12-31 22:19:59 | 歴史
まず
魏志倭人伝から卑弥呼の時代の人口を考えてみます。

対馬国    千 余戸
壱岐国   三千 許家
末廬国   四千 余戸
伊都国    千 余戸
奴国   二万  余戸
不弥国    千 余家
投馬国  五万  余戸
邪馬台国 七万  余
微妙ですが、単位に
余、許
家、戸
が使われています。
余 は 以上
許 は 以下
の意味ではないでしょうか。
とにかくアバウトです。
魏志倭人伝の朝鮮半島でも
家、戸が表示されていて
2家 = 1戸 ではないかと云われています。
当時の家族関係で
おじいちゃんが主役
二人の男子(息子)夫婦と同じ家で生活する場合 戸
一人の男子(息子)夫婦と同じ家で成果する場合 家
ではないでしょうか。
それぞれの国の風習で
子孫を男子二入以上
 と 
一人の場合があったのではないでしょうか。
では
一家の場合
おじいちゃん+2~3人の妻
息子+3~4人の妻
子供5~6人
十数人

一戸(二家)は
更に、20人以上になります。

ざっとですが
対馬国   1.5万人
壱岐国   1.5万人
末廬国   2.0万人
伊都国   1.5万人
奴国   40.0万人
不弥国   0.5万人
ここまでで 合計50万人弱

投馬国 100.0万人
邪馬台国140。0万人
ここまで合計300万人程
+21国
それに対抗しうる狗奴国も
100万人
として、卑弥呼の時代の人口
合計 400万人超

その他に
瀬戸内海湾岸、近畿地方内陸部、四国東海の太平洋側に
約100万人
関東より北部北陸地方が
100万人とすると
合計日本列島
600万人

弥生時代の実行予想300万人を超えてしまいます。
奴国まで合計(九州北部)が50万人
この部分まであり得るかも??
邪馬台国近畿説で、狗奴国も西日本で計算
西日本だけで400万人
既におかしくなって来す。

疑わしい数値は
邪馬台国7万戸
投馬国 5万戸
大陸の使者が実際に確認したわけではありません。
多分、倭人が使者に大げさに伝えたのでしょう。
奴国2万戸<投馬国<邪馬台国=狗奴国
の順番を伝えたかった。
しかし
それも事実とは限りません。

弥生時代を人口から考察

2019-12-31 21:59:37 | 歴史
今年も残りわずかになりました。
以前より考えていましたが
考え纏まらず現在に至っているのが
卑弥呼の時代の人口です。
無茶苦茶ですが
当行に時間が空いたので
一応、投稿しておきます。

手掛かりは
1、魏志倭人伝に登場する国々の戸数
邪馬台国7万、投馬国5万、奴国2万他合計
15万戸
他に戸数が不明な国 21国
邪馬台国と戦った狗奴国(多分こちらも大国)
が登場します。

当時、大人(偉い人)は4,5人
下戸(一般の人)でも3、4の婦人がいる
と紹介されています。
この部分が不思議なのですが(後程)・・・

一家族が5~10人程度??
邪馬台国連合
対馬国    千 余戸
壱岐国   三千 許家
末廬国   四千 余戸
伊都国    千 余戸
奴国   二万  余戸
不弥国    千 余家
投馬国  五万  余戸
邪馬台国 七万  余
他にも、よくわからない国が21国
合計 15万戸+アルファ(21国分)
更に、邪馬台国対等に戦う狗奴国連合

ざっと30万戸?
1戸が一家族で平均7人なら
210万人(???)

2、吉野ヶ里遺跡など遺跡から推測する。
吉野ヶ里遺跡がピーク時に
外環濠内部に1200人
全体で5400人程
一家族平均7人なら 800戸ほど
邪馬台国7万戸は、吉野ヶ里100個分

3、奈良時代、弥生時代の人口の推移
当時の食料事情から推定されていますが
奈良時代で 500万人
弥生時代で 300万人程度ではなかったかと??
もちろん、弥生時代の農耕と集団作業が人口を増やしました。
弥生文化の流れは
1、九州北部
2、中国山陰、九州南部
3、北陸山陰、瀬戸内海湾岸、近畿(琵琶湖、奈良盆地)
4、東海地方から関東へ
の流れ人口の増加があったはずです。

矛盾だらけですが
それぞれについて次投稿します。

卑弥呼と皆既日食

2019-12-22 21:07:03 | 歴史
2019年も、残りわずかになりました。
弥生時代最大の出来事
卑弥呼の死 について投稿しておきますので
興味のある方は、年末年始のお休み
一度、考えてみて下さい。

魏志倭人伝に紹介される卑弥呼の最後です。
247年
帯方郡の太守が、魏国の官に到着
倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼が不和である
倭の載斯(さし)・烏越(あお)などを帯方郡にの来て
たがいに攻撃する状況を説明した。
郡は曹掾史の張政らを倭国へ送り
詔書・黄憧を難升米に拝仮し、檄をつくって
攻めあうことのないよう告諭した。

しかし、次の文書
「以て、卑弥呼死す。」
事実として
張政ら も 難升米 も卑弥呼の死を知らなかった。
帯方郡の誰も卑弥呼の死を知らなかったので
詔書・黄憧を準備しています。
・突然の死であった。
「径百余歩の墓を作った。は百余人」
「男王をたてたが、国中は不服であった。
 こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺しあった。」
「卑弥呼の宗女の壱与、年十三をたてて王とした。
 国中はついに定まった。
 張政らは、檄を壱与に渡して争わないように告諭した。」
・張政らが壱与と共に新しい国造りの手伝いをしたようです。
・張政らは、卑弥呼の死についても詳しく知っていたはずです。
・魏の国には、詳しく語らなかったのだろうか。
魏国も乱れてしまい、間もなく滅亡します。
倭国にいる張政らの事まで気が回らなかったのでしょう。

もう一つの事実に
九州北部で
・247年3月
・248年9月5日に
皆既日食が起きている事がわかっています。
皆既日食の理由も予測もつかない時代の出来事です。
急に太陽が隠れて、真っ暗になるわけです。
それが、二年連続で発生
祈祷師である卑弥呼の時代です。
もし、卑弥呼が日食を予測したなら、大金星ですが
そんなことはあり得ません。
祈祷師 卑弥呼にとって大きな汚点になったことは間違いないでしょう。
邪馬台国
九州説の場合
・不吉な日食の責任を取らされて卑弥呼は殺された。
近畿説の場合
・九州で卑弥呼の影響力が無くなり
 九州VS近畿で国が乱れて
 卑弥呼が責任をとり、壱与の時代に移った。
しかし、これでは
卑弥呼の死 と 国中が乱れる
の順番が逆になります。

九州説をベースに物語を考えてみます・
・246年秋 狗奴国との不和を伝えるために倭国を出発
・247年3月九州北部で、皆既日食発生
・祈祷し卑弥呼が責任を取らされ殺される。
・政権交代で、男王が王となるが国まとまらず。
・張政らが倭国へ到着するが、卑弥呼の葬儀も終わっていた。
・248年9月 再び、皆既日食が起きる。
・男王が殺される。
・張政らの指導の下、壱与を女王にして新しい国づくりを始める。
・しかし、二度の皆既日食により祈祷による統治力は無くなる。
・九州は筑紫、山陰は出雲と各地の豪族による地域統括の時代
 古墳時代に移行する。
・九州は不吉な地域であるので、祈祷師 壱与は都を移した(遷都)
・数代をかけて、最終地は近畿へ移住した。

日本神話の
・天岩戸は  皆既日食
・天孫降臨は 壱与の後代が筑紫に追われて日向へ
・神武東征は 九州を追われて近畿へ移住する
物語ではないでしょうか。
この時代(古墳時代)近畿はまだ、ヤマト とは名乗っていなかった。
多分、他の呼び名だった。
飛鳥時代に漢字が伝わり、魏志倭人伝など史記を読む事となる。
倭国の代表が 邪馬台国(ヤマト国)であることを知る。
倭 を ヤマト と呼び
後に、漢字を 和に、更に 大和 の二文字に変えた。
九州では、既に 筑紫と漢字を使った国名であった。
山陰では、イズモ と発音する国があり、出雲の漢に文字を使った。

卑弥呼(天照)の死後
弥生時代から古墳時代、飛鳥・奈良時代への空白の4世紀に
起きた出来事ではないでしょうか。