古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

銅鐸は弥生時代の暦

2019-09-29 22:03:12 | 歴史
弥生時代に始まり、弥生時代に終わった物のひとつが
銅矛・銅鐸文化圏です。

銅矛は古代の武器ですので
強さの象徴として、祭事に使われたのでしょうが
弥生時代に後期には、武器は鉄製になっています。
鉄製品の普及によって銅矛の祭事が亡くなった可能性があります。
一方、未だに、使い方さえわかっていないのが
銅鐸
一般的には、上部分の穴に、縄か枝を通してつるす。
下部分をたたいて音を出して
豊作、豊漁を祈る祈祷を行った。

しかし、どうでしょうか?
縄や棒を通してつるしたのであれば
その部分の跡が残りそうです。
たたいて音を出したのあれば、やはり
たたいた跡が残りそうなのですが
きれいなのです。
ネットで検索してみると
銅鐸は古代の天文観測装置
つまり、平らなところに水平に設置して
太陽の影(方向)で季節を知るカレンダーだったのではないでしょうか。
こちらの方がすっきりします。

銅鐸は弥生時代に伝わった農耕に必須の道具だった。
実際に、九州の吉野ヶ里遺跡から銅鐸の鋳型が発見されています。
銅鐸は、農耕文化が広がると一緒に日本全体に広がったのではないでしょうか。
近畿・中部では銅鐸にデザインを加えて祈祷を行う
銅鐸文化圏が出来たのではないでしょうか。

九州の吉野ヶ里の王家の墓には、大きな柱を立てていた跡があります。
御神柱と思いきや、こちらも
古代の日時計で季節を知るカレンダーではないでしょうか。
九州では中央政権が進み、権力が王家など権力者に集中します。
そして、時間と季節は王家など権力者の特権にしました。
九州では意図的に銅鐸を排除したのです。
いつも通り勝手な妄想ですみません。
私たちが学校で教わった
「銅鐸はたたいて音を鳴らして祈祷を行った。」
こちらより信ぴょう性があると思います。

卑弥呼の死後の倭国

2019-09-23 19:56:09 | 歴史
地名と云う曖昧な手掛かりに投稿しましたが
当らずとも遠からず程度でお読みください。

さて
再び「魏志倭人伝」の最後の部分を紹介します。
正始八(247年)
帯方郡の太守王が、魏国の官に以下のことを報告した
・倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼は前々から不和であった。
・倭国の載斯・烏越等が帯方郡に来て、たがいに攻撃する状況を説明した。
その話を聞いて魏国の官は
・帯方郡の曹掾史の張政らをつかわした。
・使者たちは詔書・黄憧を難升米に拝仮し
・檄をつくって攻めあうことのないよう告諭した。
しかし
・張政らが倭国に着くと卑弥呼はすでに死んでいた。
・大きい墓をつくった。径は百余歩
・徇葬者のは百余人であった。
・新しく男王をたてたが、国中は不服であった。
・誅殺しあい当時千余人が亡くなった。
・倭人たちはまた卑弥呼の宗女の壱与なるもの、年十三をたてて王にした。
・張政らは、檄をもって壱与を告諭した。
・台与は倭の大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人をつかわし、張政らの帰還させた。
・倭の使は洛陽の中央官庁に寄った、
・男女生口三十人を献上し、白珠五千枚、勾珠二枚、異文雑錦二十匹を朝貢した。
こんな感じの事が書いてあります。

もう少し説明を加えると247年に
 帯方郡の王が耳にして確認し魏国へ伝えた。
・卑弥呼が魏国へ応援を頼んだわけではない。
 帯方郡の張政らが詔書・黄憧を難升米に渡した。
・この時難升米は帯方郡にいました。
 張政ら一団と難升米が倭国に行った。
・卑弥呼が死んでいる事を難升米も知らなかった。
・墓は径百余歩の円形(前方後円墳ではない)
 新しい男王には不服で争いが起きていた。
・倭人たちが相談して壱与を女王にした。
・ここまでは張政らが倭国に着く前に起きていた。
壱与は率善中郎将掖邪狗と共に張政らの帰還させた。
ついてに貢物を渡した。
・壱与は張政らをすぐに帰国させます。
疑問は
卑弥呼は本当に張政ら移動する期間になくなったのか?
壱与は張政らをなずすぐに帰国させたのか?
どうも、知られたくない秘密があったのでは???
そして、一番の疑問
狗奴国との争いはどうなったのか?
張政らも狗奴国との争いが無くなり
倭国が平和になった事を確認しないで
帰国はできないでしょう。
その事を最初に報告したはずです。
「魏志倭人伝」に記載されていません。
いったい、何があったんでしょうね?
誰か、謎解きしてください。

地名から古代を推測 「古事記」「日本書紀」

2019-09-23 13:53:36 | 歴史
平安時代作成された日本の歴史書
「古事記」「日本書紀」に登場する地名は
自らが名前を付け漢字にした地名です。
平安時代より前
古墳時代から飛鳥時代の始まりです。

九州は
筑紫(現在も筑前、筑後、筑豊など呼び名があります。九州北部で間違いないです)
熊襲(古事記などでは九州南部の国です、九州説では狗奴国)
豊国(トヨ国でしょうか、漢字一文字です。大和朝廷が初めた氏姓制度より以前に
   国名を漢字にしていたのでしょう)
日向、宇佐
安芸、吉備、浪花
熊野(近畿説では狗奴国)
宇陀
出雲
大和朝廷の氏姓制度に従って、それぞれの国が漢字二文字で名前を付けます。
大和朝廷の意思に賛同した国づくりがありました。
多分、熊襲だけが最後まで反発したため大和朝廷が勝手に漢字をあてた可能性があります。
あまり良い意味の漢字ではありません。
後に
・大和尊の熊襲征伐
・仲哀天皇、神功皇后の熊襲征伐 の物語がありますが
筑紫や豊国ではありません。
九州南部の熊襲国の征伐です。

魏志倭人伝」に登場して金印が贈られた 奴国が登場しません。
末盧国 が松浦半島 で
対蘇国(とすこく) 鳥栖
蘇奴国(さがなこく)佐賀
呼邑国(おぎこく) 小城
華奴蘇奴国(かなさきなこく)神崎
鬼国(きこく)   基山
など、福岡、佐賀地方であれば
紹介されている30国のほどんどが
筑紫 になっています。
三世紀の権力者 邪馬台国の卑弥呼
から
筑紫一族に権力が変わっています。
筑紫一族が卑弥呼一族の末裔の可能性は少ないので
卑弥呼の死後、九州の支配が筑紫に変わったのです。
卑弥呼一族の後継者は 台与 ですので
豊国(トヨ国)が邪馬台国の後継となります。
台与の国造りに協力した魏国の役人 張政らが
漢字を使って 豊国 としたのでしょう。
この時から 奴国、邪馬台国などの国名がなくなりました。

諸国の地名を決めて国を統一する大和朝廷ですので
自らの国名 大和(ヤマト)を決めたのもこの時代です。

多分、卑弥呼の死後
最初に地名を漢字にしたのが 豊国
次に、筑紫、日向(共に漢字に漢字に意味があります)
※紫は大陸で高貴な色です。
次に、出雲
そして大和(税所は倭を使ったかもしれません。)
大和朝廷の指導の氏姓制度で漢字を二文字使った国が
宇佐、安芸、吉備、宇田など漢字二文字読みも二音です。
熊野は発音が三音です。
大和と同様に「魏志倭人伝」に登場する
邪馬台国、狗奴国 をイメージした名前ではないでしょうか。

豊国(漢字一文字、読み二音)
筑紫、熊襲、日向、出雲、淡路、大和、熊野(漢字二文字、読み三音)
その他多くは、漢字二文字、読み二音です。
たまたま、魏志倭人伝に九州地方の国名が紹介されていますので
九州の権力の移り変わりが読み取れますが
近畿を含めて、その他地方の状況は殆どわかりません。
特に地名は漢字が無いと難しいです。
末盧国 が松浦半島の様に
紀伊半島や琵琶湖が当時の呼び名のヒントかもしれません。
キイ も ビワ も古代の名前の響きを感じるのですが
如何でしょうか。


地名から古代を推測 「魏志倭人伝」

2019-09-23 12:42:14 | 歴史
三世紀の日本の国々は
魏志倭人伝」に紹介されている通りでしょう。
当時、漢字が使えませんので
多くの国名は、発音から大陸が勝手に当て字したものです。
・奴国(漢委奴国王の金印がある博多湾の国で ナ と発音したのでしょう)
・末盧国(松浦半島)
・伊都国(糸島半島)
 ※伊都国だけが、とても意味ある良い漢字が使われています。
  当時の漢の役人 一大卒 が名付けた国でしょう。
・不弥国(不明 地理的には宗像)
・投馬国(不明、トマ 或いは ズマ)
・邪馬台国(ヤマト で現代の山門、飛鳥時代の大和 ?不明です)
漢字の当て字は 一文字一音のルールですので
ヤマタイ ではなく ヤマト が正しいです。
他にも
・対蘇国(とすこく) 鳥栖
・蘇奴国(さがなこく)佐賀
・呼邑国(おぎこく) 小城
・華奴蘇奴国(かなさきなこく)神崎
・鬼国(きこく)   基山
など現在の地名の読みと対照できる国名が福岡、佐賀地方に沢山あります。
山門 も その一つで 邪馬台国 だと考えています。
漢字二文字の地名は、後の氏姓制度で
その国の一族の名前を地名にして漢字二文字が使われます。


一方、近畿にも 大和を始め
九州と同じような地名が多数あります。
これは、後に大和朝廷が「魏志倭人伝」を参考に
地名を決めたのではないでしょうか。
大和 と ヤマト と発音するのも、その一つです。
近畿の地名は大和朝廷の時代(五世紀頃)に
「魏志倭人伝」に合わせて意図的に改名されたと思います。


地名から古代を推測 倭国

2019-09-23 10:37:30 | 歴史
先の投稿の続きみたいなものです。
魏志倭人伝や古事記などに登場する
地名、国名はいつの時代が始まりなのでしょうか。

最初は 倭国の倭の始まり
実はけっこう古い文献に登場しています。
「山海経」
「蓋(ケイ)国は鉅燕(きょエン)の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」
鉅燕は中国の北部(紀元前11世紀頃~紀元前220年)
蓋国は後の韓(朝鮮半島)
北から順に 燕、蓋国、倭国 です。

ほぼ同じ時代の『論衡』(ろんこう)では
・周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
・成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
・周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。
 白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
成王は、周朝の第2代の王で前1042年 - 前1021年
紀元前10世紀ごろに、東方の見知らぬ国の薬売りが
最初に、自分たちの国を 倭国と名乗ったようです。
この国が日本海を超えた日本列島だったのかも不明です。
多分、違うと思っています。

一世紀になると漢との交易があり
「漢委奴国王印」が贈られています。
この時、日本はまだ100余国に分かれていて
倭国と呼べる大きな国ではありません。
大陸が勝手に昔からのうわさされていた大海の向こうにある倭国伝説を元に
名付けたのでしょう。
しかし、107年『後漢書』では
倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。
初めて大陸の史記に登場する日本の国王の名前が帥升で
自分の事を 倭国王 と名乗ったのでしょう。
帥升は「漢委奴国王」の金印を持っていた奴国の王です。

魏志倭人伝に登場する国名は30国
大陸は、玄界灘の向こうの人々を倭人と呼び
その地域を倭国と呼びます。
邪馬台国が 倭国 でもありません。
倭国と呼べる統一国家はまだ存在していません。

時代が流れて平安時代に作成された「古事記」「日本書紀」で
古代の自国の名前を 倭 と記載しています。
日本には、縄文時代、弥生時代の出来事を伝える文字はありませんので
「魏志倭人伝」などの大陸史記を参考にして
自国の名前を 倭にしたのでしょう。
その漢字も
倭=>大倭=>和=>大和 と時代と共に変わります。
大和という漢字を使ったのは、当時の日本人側である事は間違いありません。
読み方も倭を ヤマト と呼んでいます。
もちろん、大陸は ワ と呼んだでしょう。
邪馬台国の女王 卑弥呼の死後
奈良の大和朝廷が
倭の文字を大和に変え
呼び名もヤマトに変えた事は間違いありません。
邪馬台国の読み方も ヤマト国ですので
何故、国名は 倭 を使い
読み方は 邪馬台(ヤマト)を使ったのか。
やはり、「魏志倭人伝」に登場する倭国代表の女王
邪馬台国の卑弥呼の記載が影響していると思われます。
まとめると
古代より大陸の東方大海の向こうにある島国を倭(ワ)と呼んでいた。
弥生時代末期(卑弥呼の時代)まで続いた。
古墳時代から飛鳥時代までに
日本人が自国の名前を 大和 に変えて
読み方も ヤマト に変更した。
その名前の始めたのは、奈良の大和朝廷である。
自国の国の漢字、読み方 を自ら決めたことは
後の連合国家体制を作り上げるの大きな力になったでしょう。

地名を漢字にした人は?

2019-09-08 22:00:10 | 歴史
筑紫 と 大和 の時代に続きます。
誰が、地名を漢字にしたのか??
古来より多くの大陸人が倭国へ来ています。
漢字が倭国へ伝わっても不思議ではありませんが
倭人は、農耕や建物の技術は取り入れますが
漢字は取り入れなかったようです。
「魏志倭人伝」に登場する地名は、全て倭人の発音を
大陸人が漢字にあてはめたものです。
倭国の王が幾度も大陸へ朝貢していますので
ある程度の会話は出来ていたはずです。
倭人の言葉と大陸の言葉を通訳する出来る人物がいたのでしょう。
しかし、倭国では
地名、氏名、位などは呼び名のままで、文字にはなっていません。

最初に、これらを漢字にしたのは
大陸から派遣された 張政たち です。

最初に名前を漢字にしたのは 豊国 です。
魏・蜀・呉の様に大陸では漢字一文字を国の名前にしています。
倭国 と云う名前を 豊国に変更したはずです。
一方、玄界灘側、有明海側にいた 漢の時代の役人 一大卒
かれらは、筑紫 と名前を付けて新しい国づくりを始めます。
筑紫が付けた地名のは
魏志倭人伝に紹介されている対馬など30国に新しい漢字を使います。
その他にも、宗像など新しい呼び名も付けます。
共通する事は 漢字二文字 です。
大宰府など3文字の地名は後の地名です。

遅れて近畿の大和連合も地名を漢字にしたでしょう。
参考にしたのは、筑紫でした。
九州の地で優劣は決定的だったのでしょう。
最初に国名に使ったのは 倭 という漢字です。
ワ と読んだのか、ヤマトと読んだのかは不明です。
親の時代より古くから大陸は呼んでいた国名です。
大陸から離れた近畿では この国名を大切にしていたのです。
国名を 大和 に変更したのは後の事です。

そして、倭、大和 を ヤマト と呼んだのかは不明です。
魏志倭人伝や古事記などに 倭、大和の文字は登場しますが
読み仮名はありません。
邪馬台国の ヤマト と同じように
ヤマトと云う響きは古代から大切な何かの意味があったのでしょう。

筑紫 と 大和 の時代

2019-09-08 15:00:58 | 歴史
前の投稿の続きですが
筑紫と大和の強い関係の時代があったようです。

筑紫と大和が対立していたのか
お互いに有効な関係だったのかはわかりません。
同じような国づくりを行った形跡があるのです。
この時代とは
1、弥生時代の卑弥呼の時代より前
  まだ倭国が100国に分かれていました。
  邪馬台(ヤマト)国もその中の一つです。
  筑紫や大和の様な国づくりはまだできていません。
2、卑弥呼の時代
  卑弥呼は30国をまとまて連合国を作り上げます。
  後の筑紫の領土が邪馬台国連合の地域です。
  この時代に、近畿が同じような国を真似した可能性があります。
  卑弥呼の時代は70年ほどありますので
  邪馬台国連合の成功を模範にして近畿でヤマト国を作り上げるの
  難しくはなかったのです。
  九州に大型連合国が出来た事を知れば
  近畿でも対抗する様に、連合国家の準備が急務と感じたのでしょう。
  一方、九州の邪馬台国は隣接する南の国 狗奴国との争いで苦戦します。
  卑弥呼が応援を求めたのが大陸の魏国
  ヤマト国とは、応援を求める関係でもなく、武力で強い国でもありませんでした。
  鉄製の武器など戦争の後ろ盾には魏との友好関係が必要だったのです。
3、卑弥呼の死後、古墳時代
  卑弥呼が亡くなると国が乱れます。
  大陸から派遣された張政らは、卑弥呼一族の台与を女王として邪馬台国の再建を
  行います。
  残念ながら、九州が一つにまとまる事は無く
  筑紫、豊(トヨ)、日向、熊襲 の4国に分かれた時代が長く続きます。
  ・玄界灘側の筑紫は朝鮮半島
  。東側の豊国、日向国は瀬戸内海を利用して近畿との友好関係
  が進みます。
※この時代の出来事を抽象化して物語にしたのが
 「神武東征」です。

  この時代に筑紫と大和の二大国家時代に出来たはずです。
  その国づくりが似ている部分一部にあります。
遅れて連合国づくりを開始したのは近畿の大和ではないでしょうか。
大陸の国づくりを参考にしたかったのですが
直接大陸との交易が出来る状態ではありません。
筑紫を参考に更に大きな倭国連合を作り始めました。