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古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

邪馬台国 と 狗奴国の関係

2019-01-27 20:11:09 | 歴史
「魏志倭人伝」に二度登場する奴国の謎 に続きます。

邪馬台国まで1万2千里
博多湾の奴国まで合計1万6百里
博多湾から南へ残り1400里で邪馬台国
そのどこかに卑弥呼の宮殿(千人の女性と暮らし、周囲が塀でかこまれ、武人は守衛)
その間(南北間)に21国
邪馬台国の南に狗奴国
と云う位置関係です。

の南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。
その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。
と最初に紹介されています。
最後の方に
倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、まえまえから不和であった。
と王名が
狗奴国  男王卑弥弓呼、官 狗古智卑狗
邪馬台国 女王 卑弥呼、官 伊支馬(イシマ)
副 弥馬升(ミマシ)弥馬獲升(ミマカシ)奴佳鞮(ナカデ)

幾つかの疑問 
1、卑弥呼と卑弥弓呼 名前が似ている。
2、奴国と狗奴国   名前が似ている。
3、狗古智卑狗 の 卑狗 は対馬国 一支国の官の名前
4、30の国がありながら敵対するする国同士が隣り合う。
考えられる事
元々、狗奴国があった。
祈祷師の女性が倭国の代表に選ばれた。
狗奴国の北部が邪馬台国となった、
男王の一族であった卑弥弓呼(彦)は女性の祈祷師卑弥呼を許せない。
対馬国 一支国の官は〇〇卑狗
副に卑奴母離(日守)も多く登場します。
狗古智卑狗の狗古智が名前で卑狗が官の呼び名
邪馬台国と投馬国の官、副の名前が特徴的です。
最初は祈祷して推薦された卑弥呼ですが
権力が増すとともに政治や外交に力を入れます。
ついに、親魏倭王の金印を得るまでに・・・
邪馬台国 VS 狗奴国 の戦争に発展
戦況は、なんと狗奴国優勢
卑弥呼は魏国に応援を依頼する状況まで・・・
30国をまとめる卑弥呼ですが、伊都国、奴国は
狗奴国の卑弥弓呼討伐には加勢しなかったのでしょう。
卑弥呼VS卑弥弓呼は一族の内乱だったからです。
卑弥呼死後は
卑弥弓呼VS伊都国、奴国でもめました。
たまたま、大陸から来ていた張政らが台与を支持する事で
もめ事がおさまった。


「魏志倭人伝」に二度登場する奴国の謎

2019-01-27 19:27:02 | 歴史
「魏志倭人伝」に紹介されている国々ですが

朝鮮半島南端の狗邪韓国から
対馬国、一支国~奴国、不弥国など九州玄界灘湾岸の7国
国名だけの21国
邪馬台国、投馬国を合わせて30国です。
倭国は100余国から30国にまとまっていますので
これでちょうどです。
邪馬台国の南に位置する、女王国に属しない国
狗奴国 をいれると31国
一方、国名だけの21国の最後に
奴国が登場します。
諸説
・国を一周すると奴国に戻った。
 30国は狗奴国を含む?
・同じ名前の国(奴国)がもうひとつあった。
 倭国と呼べるまとまりには狗奴国は含まず。
の2説があります。

しかし
朝鮮半島にある
狗邪韓国(弁韓・辰韓など十二か国の一つ)が倭国なのか?
他の国々の紹介には、官、副官の名前、戸数等が紹介されていますが
狗邪韓国にはその紹介がありません。
倭国には含まれていないのでは・・・・

対馬国、一支国から奴国、不弥国など九州玄界灘湾岸の6国
国名だけの21国(奴国含む)
邪馬台国、投馬国+狗奴国で30国ではないでしょうか。
つまり
邪馬台国の
北にもうひとつの奴国
南に狗奴国 がある事になります。

古代の大陸国家(漢)と倭国

2019-01-26 18:58:42 | 歴史
さて、秦が滅びた後の大陸
前漢(紀元前206年 - 8年)
光武帝が再興した
後漢(25年 - 220年)
時代のお話です。
「前漢書」では
楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。
程度、まだよく知られていません。
「後漢書」では、光武帝より
57年 「漢委奴国王」の金印が贈られ
107年 倭国王 帥升等が請見を願う
漢が楽浪郡、帯方群を朝鮮半島に設置したことで
倭国との交易も盛んに行われますが
この時代の倭国の情報は九州北部です。
後の魏の時代に卑弥呼が登場
70~80年倭国は乱れる
卑弥呼が女王になりまとまる。
百余国の国が30国にまとまる。
九州北部(稜線半島南端から玄界灘湾岸)の7国が詳しく
その他21国の名前と
邪馬台国(南へ水行10日陸行一月)
投馬国(水行20日)の大きな国がある。
卑弥呼の生活、政治、祈祷については詳しく紹介されていて
金印や鏡百枚など贈り物の内容
年代、役人の名前なども詳しくあるのに
その場所となる不鮮明

その南に、敵国 狗奴国があり戦争状態となる。
卑弥呼が亡くなり大きな墓が造られるなど紹介していますが
その場所は不明
・魏が滅び乱れます。
・朝鮮半島の支配を失い、倭国と交易が出来なくなる。
大陸も倭国に対して興味が無くなると同時に自分の国の事で手一杯
後に宗女の台与が女王となり、266年まで朝貢が行われる。
その後は、大陸との交易が途絶える。
再び倭国は神秘の国となります。
魏志倭人伝」の情報がMAXです。
卑弥呼の死を境に日本は古墳時代と呼ばれ
各地の王が競って大きな古墳を造ります。
九州では金銀の宝飾品などが出土して地方ごとに異なる文化となります。
吉野ヶ里の様な大型環濠集落から忽然と人が消えます。
卑弥呼の様な祈祷師が環濠集落内で信仰を得ていた時代の終焉です。
縄文時代の自然崇拝の信仰に
大陸渡来人が自然の神様と人間をつなぐ祈祷師を造り新しい信仰を始めます。
1000年位は続いたでしょうか
その祈祷信仰が卑弥呼の時代に頂点に・・
卑弥呼の死により祈祷信仰が力を失い崩壊します。
それぞれの国王が政治を行い
古墳と云う形で先祖崇拝が信仰の力を得ました。

古代の大陸国家(秦)と倭国

2019-01-26 15:11:09 | 歴史
以前にも同じような投稿をいたしましたが
秦の始皇帝の時代です。

・紀元前700年以前よりある国です。
・黄河、揚子江など上流で大陸内陸部(西方)の国でした。
・始皇帝(当時は政)の時(紀元前230年頃から)東方の国々(海側の6国)を攻めます。
・最後に斉を滅ぼして(紀元前221年)大陸を統一、最初の皇帝 始皇帝 と名乗ります。
・始皇帝も年をとり不老不死になりたいと思うようになります。
・斉の方士 徐福が「当方の東海に仙人が住み不老不死の薬がある」と申し出て
・若い男女3000人を含む大群を準備してもらい出航させます。
・徐福はそのまま、戻らず、後の歴史書では東国で王になったと・・・
・そん武力国家秦ですが始皇帝が亡くなると紀元前207年に滅びます。
北方には、万里の長城を作るなど周囲の地域には詳しかったはずですが
海の向こう側(東方)については無知でした。
大陸古代から信仰されている仙人思想「山海経」
東方三神山(日が昇る東の海に不老不死の仙人が住む島がある)
と信じていたようです。

この時代倭国は弥生時代(紀元前1000年位~)
九州北部で農耕が始まり、大陸の青銅製の武器などが出土しています。
大陸でも、倭国の存在が紹介されています。
大陸人が日本に移住を始めている事はまちがいありませんが
倭国の情報が大陸へ伝わる事は無かったようです。
移住した大陸人も新しい国づくりで手一杯
ましてや始皇帝の元へ戻るものはいません。

始皇帝も倭国は朝鮮半島の南部と考えていたのでしょう。
その東にある国々は、仙人が住む島と信じられています。
倭国は実際に存在する国
東方三神山は幻の島です
ので異なります。
漢の時代に「徐福は王となった・・・」も
武力の始皇帝を欺いた徐福をヒーローにした伝説でしょう。
徐福が移住した場所は
・絶対に始皇帝らに見つからない
・朝鮮半島より遠い
・大陸と陸続きではない
日本列島(倭国)で間違いないでしょう。
この時代(紀元前200年頃)倭国では
吉野ヶ里遺跡の様な環濠集落も始まります。
弥生文化が九州北部から近畿、関東まで広がっています。
吉野ヶ里(弥生時代中期)からは
・船形木製品等
・青銅製の耳飾り(もしくは指輪)
・朝鮮系無文土器
朝鮮半島や西日本の各地と交易があり
数百年の歴史の中で徐々に大きく成長した証が見れます。
しかし、この時代の倭国の発展は大陸には知られていない様です。

もう一つの銅鏡「方格規矩四神鏡」

2019-01-21 23:44:54 | 歴史
作者名と思われる名前が刻まれたもうひとつの銅鏡
「方格規矩四神鏡」
古代丹後地方から出土した鏡と
大阪府高槻市の「安満宮山古墳」から出土したものと同型鏡
年号は 青龍三年(235年)
作者は 顔氏作鏡成文章 
銘文は 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宜侯王
中央に十二支と方角を四角の中に
周囲に「玄武」「青龍」「朱雀」「白虎」の4神と神仙人

イメージでは、こちらの方が幾何学的で進歩的に感じますが
歴史は、三角縁神獣鏡より古く漢の時代から三国時代と幅広く中国でも出土しています。
年号の無い鏡は九州など西日本各地で出土しています。
もし、こちらが卑弥呼に贈られた鏡であれば
既に大陸にあった鏡を魏の皇帝が集めて倭国へ贈った(複数の種類の可能性)
後に、三角縁神獣鏡を提案した陳氏は落選し、国を追われる結果となった。
陳氏とその仲間は、既に作成していた三角縁神獣鏡(年号入り)を持って倭国へ
そして、新しく三角縁神獣鏡(年号無し)を多数、作成した。
大陸では、金銀などの金属や織物など着物の方が価値があり
青銅製の鏡の価値が無くなっていった。
鏡に興味を持っていたのは、祈祷師の卑弥呼ぐらいでした。
陳氏ら鏡師の一行が倭国に着いたのは台与の時代でしょう。
九州北部は筑紫一族らが大陸と同様に金銀の冠、指輪などに価値観を持っていました。

更に東へ移住して近畿へ、大和朝廷が銅鏡の制作を援助
三角縁神獣鏡(複製版)を諸国に配り祈祷を一本化した。
こちらでも、実につじつまが合います。
「魏志倭人伝」に紹介される情報も銅鏡100枚としか記載されていません。
他の織物などは模様や色などもう少し詳しく記載されています。
大陸で呼ばれていた鏡の種類や大きさなどの記載されていればと・・・
記載できない理由は、大きさなども含めてばらばらだった可能性もあります。
確かに、銅鏡が沢山出土するので、邪馬台国の手掛かりと思いがちですが
出土した銅鏡から邪馬台国を特定する事は難しいかもしれません。
金印はひとつです。発見するのは難しいですが
「親魏倭王」の金印が出土すれば一発で解決する邪馬台国の否定地です。

古代大陸の鏡師 陳氏

2019-01-21 23:02:22 | 歴史
銅鏡は数百も出土しています。
周囲に銘文があり、作成されたときに状況が伺えますが
銘文中に中国大陸の年号が含まれる鏡はわずか、10数面です。
その他に、作者と思われる名前が含まれる鏡もわずかにあります。
作者と思われる名前 陳氏
陳是作鏡 自有經迷 で始まる銘文(景初三年~正始元年 年号あり)
陳氏作竟 甚大好  で始まる銘文(年号無し、多数出土)
陳氏とその仲間たちが作る鏡工房(?)がありました。
彼らが作った鏡は全て三角縁神獣鏡
そして、三角縁神獣鏡は、日本のみで出土しており、大陸では出土していない。

この状況を頭に入れて貴重な鏡の出土
松岳山古墳群(大阪府柏原市国分市場)
九つの古墳が密集しており、その中の一つ 
向井山茶臼塚古墳から銅鏡3面が出土
全てに銘文が刻まれていて

盤龍鏡
青盖作鏡四夷服多賀国家人民息胡虜殆滅天下復風雨時節五穀敦長保二親得天力伝吉后世楽母極
???うまく訳せず。


三角縁四神二獣鏡
吾作明竟【君】真大好 浮由【官】天下 ■四海【高】 用青同 至海東【宜】
「私は明鏡を作る。まことに良い品である。天下を浮遊し四海に遊ぶ。青銅を用いる。海東に至る。」
陳氏とその工房の人たちが作る鏡は優秀で天下の至る所で使われています。
そして、この鏡(三角縁神獣鏡)は海の東(倭国 或いは邪馬台国)へ送ります。
※海東は、不老不死仙人が住む三神山、この時代は倭国のことでしょう。

三角縁四神四獣鏡
■始元年 陳是作鏡 自有経述 本自州師 杜地命出 寿如金石 保子■■
「(正)始元年、陳是が鏡を作った。私自身の経歴があるので述べる。元、私は楊州(又は徐州)の鏡師であったが、地を閉ざされ、出ずるを命ぜられた。……」
■作明竟 幽煉三剛 銅出徐州 師出洛陽 彫文刻鏤 皆作文章 配徳君子 清而旦明
 左竜右虎 転生有名 師子辟邪 集会並 王父王母 游■聞■ ■■子孫
「(私は)明鏡を作る。三種の堅い金属を精妙に錬りあげた。銅は徐州に出で、(鏡)師は洛陽に出ずる。模様を彫り、刻んで散りばめ、皆、文章を作る。徳を君子に配り、清くして明るい。左に竜、右に虎。転生して獅子、辟邪の名がある。集まって会し並ぶ。王父王母は■に遊び、■を聞く。子孫に■■。」
正始元年は、240年です。
卑弥呼に金印と鏡100枚などが贈られたのが景初3年(239年)です。
鏡の材料には、三種類の金属を用いる。
銅は徐州、(鏡)師は洛陽から来てもらった。
洛陽は魏の都、徐州も魏に属し黄河下流、金属が豊富だったとされています。
左竜右虎を配置したり模様や文書を考えたりした。
国王、女王も喜んだ。しかし
陳氏と工房の技術者達は、国(本自州)から追放された。


この3枚の鏡は、いずれも中国製の様です。
陳氏とその仲間たちが、中国で作った鏡で間違いないようです。
かれらは、魏の時代人々で
天下を浮遊し四海に遊ぶ鏡を作成しています。
四海が方角
西は黄河を上流へ洛陽
北は黄海北部(朝鮮半島根本)
南は徐州、更に南の上海?
東は海の向こう倭国になります。
海東専用に作られたのが「三角縁神獣鏡」
そのため、中国国内では「三角縁神獣鏡」は出土しないのです。
卑弥呼に贈られた銅鏡100枚を作製したのも彼らでしょう。
しかし、240年に向井山茶臼塚古墳の鏡を作成した後に追放されています。
理由は不明ですが
正始元年 皇帝が変わった後ですの新皇帝の命令だったのでしょう。
彼らは、鏡造りの為に倭国へ移住します。
倭国とは既に交易がありますので、一年足らずでたどり着けたはずです。

銅鏡に描かれた四神四獣

2019-01-21 17:34:03 | 歴史
銅鏡の裏側(手に持つ側)には、大陸の仙人思想の神様が描かれています。
四神四獣は
天の四方を司る神。
青龍(せいりゅう。東)
白虎(びゃっこ。西)
朱雀(すざく。南)
玄武(げんぶ。北)
あのキトラ古墳の壁画で有名です。

西王母など仙人(神仙)
半神半獣の神様も描かれているようです。
描かれている神様の数で
四神四獣
四神三獣
四神二獣と表現されていますが、こちらも近代識者付けた名前です。

中国4000年の歴史で仙人思想はかなり古くからあり
秦の始皇帝も東の大海の向こうに不老不死の仙人が住み
不老不死になれる薬草があると信じて
徐福に船団を与えます。
もちろん、老子孔子、道教、儒教、陰陽道などもあったでしょう。
大陸が倭国へ贈った鏡には
儒教や陰陽の説明を描くのは無理ですし
祈祷を行う道具としての鏡ですので
古代大陸の世界観と神仙人を描いた渡したのでしょう。
大陸では、護国や子孫繁栄などの意味があったようですが
卑弥呼は、先祖との会話、未来予想、気象を変えるなど
別の使い方をしたのでしょうか。
後の大和朝廷は、服従(服属)の証として各地方に贈った事は間違いないようです。
各地ばらばらの神様では国がまとまらない時代だったのです。
そして、この鏡を使った神技が日本独特の神道(神社)になります。
・銅鏡
・卑弥呼の祈祷
・大和朝廷
・日本神話、神道
※日本独特の神道と思われがちですが
 大陸の仙人思想(不老不死に仙人が住む三神山)
 天照大神など不老不死の神様が住む高天原
 ひょっとしたら繋がりがあるかもしれません。
※古代日本の神道は、八百万の神様で山の神、海の神など自然崇拝の神様でした
 この時代に、人の形をした神様やご先祖様に変わっていきます。
 祈祷師
 その神様達の言葉を民衆に伝える能力を有した人の存在ができました。

出土した古代の銅鏡

2019-01-21 17:30:38 | 歴史
銅鏡の種類は 3種類
三角縁神獣鏡
 卑弥呼がもらった鏡の一番の候補ですが、九州説の厳しい反論を受けています。
邪馬台国
近畿説の主張
 ・卑弥呼の時代の中国(魏)の年号か刻まれている鏡がある
 景初三年(239年 卑弥呼朝献の年
 正始元年(240年)
 ・近畿を中心に多数出土(奈良、京都、福岡、兵庫、大阪、岡山で殆ど、半数以上が近畿)
卑弥呼がもらった鏡が鏡神事の始まりで、近畿である。
この鏡を使った神事が近畿から瀬戸内海~九州へ広がった。
大和朝廷の広がりと同じである。
九州説の反論
 ・卑弥呼が貰ったのは100枚、出土数が多すぎる。
 ・出土した古墳が4世紀のものと卑弥呼の時代と100年ほど時代がずれる。
 ・そもそも三角縁神獣鏡は中国から出土していない。
 ・黒塚古墳から出土した鏡の同笵鏡が各地で出土
 ・景初四年とあり得ない年号がある(景初は三年まで)
 ・三角縁神獣鏡は全てが和製ではないか。
近畿説の反論
 ・三角縁神獣鏡は卑弥呼の為のみ作成した特注品(中国にはない)
 ・年号が景初から変わる前に景初四年で鋳型を作成した。
 ・頂いた鏡は代々祈祷に使った。100年後に古墳に埋葬した。
 ・もちろん、大和朝廷は和製の鏡を作って諸国へ贈った。

方格規矩四神鏡

こちらには、青龍三年(235年)の年号が記載されています。
卑弥呼の朝献以前です。
既に大陸にあった鏡の一部を卑弥呼に送ったことになります。
出土数が少なく、卑弥呼の鏡であれば、未発見の鏡がまだある事になります。

・平縁神獣鏡
赤鳥元年、赤鳥七年と呉の年号が記載されています。
赤烏(せきう)元年は238年です。
魏が卑弥呼に鏡を贈った年に(或いはその年作成後に)
敵国 呉も倭国へ鏡を贈っているようです。

銅鐸・銅矛文化から銅鏡の時代へ

2019-01-21 15:45:31 | 歴史
卑弥呼が魏から貰った銅鏡100枚については
邪馬台国
・九州説
・近畿説
を含めて現在も結論が出ていない状況です。
その話題を少し前の時代から考えてみます。
大陸から青銅の道具か伝わったのは
弥生時代の始まりと云われていて、かなり古いですが
鉄製品もすぐに使われだしますので道具としては長くなかったようです。
しかし、祈祷の道具として西日本に
・銅矛文化圏(九州北部、四国)
・銅鐸文化圏(近畿・東海)
と二分した時代が弥生時代後期まで続きます。
古代の遺跡から銅鐸の炉や鋳型が出土していますので
材料となる青銅や使わなくなった青銅製品を溶かして
国内で製造していた様です。

そして、ここまで一致するのか!と
驚く時代の一致
・238年(或いは239年)卑弥呼が「親魏倭王」金印と共にもらった銅鏡100枚
・247年(或いは258年)卑弥呼の死
・銅矛、銅鐸を使った儀式が行われなくなる。
・この時代と思われる銅鏡が多数出土する。
・古墳が各地で造られる。
・弥生時代から古墳時代へ(こちらは近代歴史学者が決めた)
権力は、各地方の王族にあり古墳の作成力を入れる。
一方、祈祷は鏡を使った祈祷で西日本から関東まで広がっている。
3世紀中ごろに日本で起きた神事の世界観の移り変わりについて
各地で出土した銅鏡を手掛かりにまとめてみます。

佐賀県伊万里市の古代史(香橘神社)

2019-01-13 23:00:28 | 歴史
まだまだ続く、佐賀県伊万里市のお話です。
現在の伊万里神社についてです。
・元々は 香橘(こうきつ)神社
・戸渡嶋(ととしま)神社と合祀
・更に、岩栗神社(いわくり)
・その後に、伊萬里神社に改名
最初の香橘(こうきつ)神社の
橘は 非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)
えっ、何? ではないでしょうか。
常世の国にある不老長寿の妙薬の実をつける木(橘)
第11代垂仁天皇の命で田道間守命が持ち帰り
この地に非時香菓を一株植えたとの事
タチバナは日本固有の樹木です。

徐福が探していたのは、この橘の木(非時香菓)だったのでしょうか。
伊万里市にも徐福上陸の伝説があります。
※この徐福伝説のルートも面白いです。
 伊万里湾に上陸=>黒神山を超えて武雄温泉へ=>更に南下、金立山で見つけた不老不死の薬草は
 フロフキ
 更に不思議なのが、大陸人である徐福を祀る金立神社???
 神社は日本の神様を祀るものと思っていましたが。
 九州玄界灘側は、神道でも古代の大陸思想の影響があるようです。

更に、橘の話は
日本神話でイザナギの神様が黄泉の国から戻られて禊(みそぎ)を行われたのが
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐が原ですので
橘の木は、神道では生死を司る重要な果実の様です。
その伊万里神社の住所も 立花町
元々は 橘 一文字だったのでしょう。
橘(立花)の地名や氏名は各地にありますが、
実は、不老不死の木の意味が隠されているようです。