古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

「魏志倭人伝」にみる倭国の身分関係

2018-05-27 20:35:30 | 歴史
もう一つ、弥生時代を知る上で重要な事が
当時のあった身分が表記時てある事です。
大別すると 下戸と大人 です。
大人
王家 及び 王家で仕事をしている人
役人 一大卒とその役人、官を兇馬觚(しまこ)、副(官)を卑奴母離(夷守)など
倉に蓄えられた、穀物、織物など管理する人
そして、卑弥呼の様に祈祷を行う人と祈祷の郷具などを作る、管理する人
他にも、国を守る武人もいたでしょう。
でしょう。

縄文時代は、一家、或いは一族で狩猟生活です。
一族の長老が 王 の役割を果たしていたでしょう。
弥生時代に大陸から移住した渡来人
一族の王(長老)は、そのままに
農耕や建築を指導する役人として立場を得たでしょう。
村(国)作りが成功すると、穀物や織物など保管が出来る品々を保管する倉が作られます。
当時の倉には宝がたくさん立ったことになりますので、他国から略奪を受ける。
周囲に環濠を作り、環濠の中で生活する人が出来る。
彼らが、大人 です。
環濠集落を吉野ヶ里遺跡を参考にすると、環濠内では
王家が生活する建物
穀物など保管する倉
祈祷など行う建物、祈祷の道具を保管する建物
織物、酪農、鋳造など工場(?)
当時の先端技術であり、製品が長期保管可能なものが作られていました。

環濠の周囲では
農耕、狩猟、採取など、下戸 と呼ばれる身分の人たちが生活しています。
吉野ヶ里を参考にすると
環濠内で生活する人(大人)1200人
国全体          5400人(下戸=4200人)



もう一つ、 生口 の人々がいます。いわゆる奴隷です。
国同士の争いで廃車となった国の王族など 大人の身分の人たちです。
他にも、掟を守らず生口になった人もいたでしょう。
どこで生活していてのか不明ですが、過酷な労働や人身売買に使われました。
不作などで食料が不足したときには、殺されて山や川に捨てられた可能性もあります。



弥生時代の朝鮮半島

2018-05-27 17:37:55 | 歴史
「魏志倭人伝」に紹介される倭国を知る為の準備として
当時の朝鮮半島も知っておきましょう。
地図に紹介されている。
遼西群、遼東群、楽浪郡、帯方郡
漢の時代より大陸が北東へ支配を広げ朝鮮半島の北部,黄海周辺の地域を収めます。
いわゆる植民地にしてしまいます。漢民族であった公孫一族が長く支配したとされています。
倭国との交易の出発地は帯方郡(現在のソウル辺り)で、交易の貨物もここまで運べば
当時の中国(漢、魏)へ到着したことになります。
その南、朝鮮半島の先端が三韓(馬韓、弁韓、辰韓)に分かれています。
風習や言葉なども違っていたようです。
馬韓・・・後に百済となる地域です。大陸との交易路でもあり、農耕にも優れていたとされています。
弁韓・・・後の新羅となる地域です。農耕には適してなく、鉄が産出されて倭国の穀物と交換していたようです。
辰韓・・・後の加羅となる地域です。倭国の支配を受けたとされています。
そして、朝鮮半島先端に、狗邪韓国があり倭国になっています。
朝鮮半島は、三韓と狗邪韓国以外に国が分かれていて12国があったとされています。

「魏志倭人伝」に紹介される倭国が100国から30国にまとまるとされています。
倭国が九州北部であった仮定して、朝鮮半島南側が12国にまとまり
九州北部であれば、それより広い倭国が30国ですので、ほぼ同じくらい状況だったでしょう。

壱岐対馬を経由して松浦半島で上陸、大陸の役人の国、伊都国が交易に最終地点です。
伊都国には、一大卒と呼ばれる役人がいて、交易の品々を監視しています。
奴国などから出荷される穀物
大陸から運ばれる農耕具や鉄製品との物々交換です。

狗邪韓国、対馬国、一支国は、朝鮮半島との重要な航路です。
倭国としても(多分、伊都国の一大卒)この三国を韓国に支配されてしまうと大陸航路が途絶えてしまいます。
また、朝鮮半島の三韓などから新たな渡来人は倭国へ移住してくるでしょう。

元々、弥生人は大陸、朝鮮半島から移住民損族です。
倭国で農耕や建築の技術を使って新しい国づくりを行って出来たのが、伊都国、奴国など
その上下関係に上位についたのですから、新たな移住者を拒否したのです。

対馬国、一支国には、共に
大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)と呼ばれる役人がいます。

しかし、三国志時代の魏が滅んで大陸が乱れると北部の高句麗が半島支配を広げます。
朝鮮半島も、百済、新羅、加羅の三国時代に大きく変わります。
日本では弥生時代末期、古墳時代の出来事になります。
必死に確保した対馬国、一支国航路ですが、新たに
朝鮮半島~>沖ノ島=>宗像(北九州)
朝鮮半島~>隠岐の島=>出雲(山陰)が出来てしまいます。
新たな渡来人は朝鮮人でした。
また、倭国でも西都原(宮崎)や瀬戸内海の国々では和船も作られています。
瀬戸内海航路、関門海峡から大分、宮崎との航路も出来ています。


秦の始皇帝の時代に始まった玉璽、伝国璽

2018-05-26 23:10:41 | 歴史
秦の始皇帝が初めて大陸を統一、初めての皇帝となります。
始皇帝がとった行動
伝国璽(でんこくじ)と呼ばれる玉(石)で作られた印章 玉璽(皇帝用の印)を作成
漢の時代まで存在したとされていますので、秦と云う文字は無かったのでしょう。
皇帝の証 と意味と文字が彫られていたはずです。

前漢末期、王莽が帝位を簒奪しようと、当時太皇太后としてこの玉璽を保管していた伯母の王政君(孝元太皇太后)に玉璽を自分に引き渡すように求めるべく使者を送った。
これに激怒した王政君は王莽を「(漢の皇帝の引き立てで今の自分達があるのを忘れた)恩知らず」と散々に罵り
使者に向けて伝国璽を投げつけた。
故に伝国璽はつまみの部分にあたる龍の角の部分が欠けてしまい、後に金でその部分を補修したといわれる。

晋から、異民族の建てた後趙、冉魏を経由して、東晋を始めとする南朝六国に代々伝えられ、その後は、隋、唐と受け継がれるが
五代十国時代の946年に後晋の出帝が遼の太宗に捕らえられた時に紛失した。

後に、レプリカが作成されとされています。
国の王である皇帝の証として玉璽、伝国璽は必須だったようです。
この事実は倭国でも知りえたはずです。
印章ではなく、勾玉(八尺瓊勾玉)が天皇家継承の証として使われたのでしょう。

八尺瓊勾玉が正当な天皇家の証である事として必須
草薙剣は、出雲国が大和に服従した証として必須
八咫鏡は、天皇には自然界をコントロールする力を有している証です。

3・5.7の数字も縁起が良かったので、神器 は玉・鏡・剣の三つにしたのではないでしょうか。
弥生時代の祖となる徐福が秦の始皇帝の玉璽の歴史を倭国へ持ち込み勾玉にその意味を伝えた可能性もあります。
一族の証に勾玉を利用したのは、縄文時代からあったと思いますが。


天皇家の三種の神器(玉・鏡・剣)

2018-05-26 22:31:17 | 歴史
現代も伝わっている天皇家の三種の神器(玉・鏡・剣)
八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣です。
実際は、源平合戦で関門海峡に沈んだとされていますので、現在のはレプリカと云うことになります。
・八咫鏡・・・・天照大神が天岩戸に隠れた際に、石凝姥命が作った。
        天照大神が岩戸を細めに開けた時
        この鏡で天照大神自身を映して、興味を持たせ、外に引き出した
・八尺瓊勾玉・・こちらも岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り
        八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。
・草薙剣・・・・素戔嗚が八俣大蛇を退治した際に、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、尾の中から鋭い大刀が出てきた。
        素戔嗚が天照大神に献上したとされています。
        後に日本武尊が火にかもまれて窮地に陥った際に周囲の草を切り倒して逆転勝利して事で草薙の剣と呼ばれる。
三種の神器とも、天孫降臨する際にニニギに渡されます。神武天皇に引き継がれ、倭姫が京都から伊勢へもっていき
伊勢神宮に祀られたとされています。
正当な天皇が継承する証です。

剣は、武力、権力の証です。素戔嗚が持っていた剣は「天十握剣」(あめのとつかのつるぎ)と呼ばれています。
崇神天皇の代に石上神宮に移されたとされています。多分、青銅製の矛から鉄製の剣に変わった時代の事ではないでしょうか。
出雲と大和の二大勢力の時代があり、出雲が大和に服従した証でもあります。
草薙剣を大和が保管することで出雲はヤマトに手出しできない環境を作り出したともいえます。

鏡は、「魏志倭人伝」で卑弥呼に「百枚の鏡を贈った」とされています。黄泉の国のご先祖様と会話したり
未来を見ることが出来るなど神秘的な儀式の象徴です。
平安時代には、女性の道具としてかなり普及していたはずですの
古代に鏡を使った儀式があった。
「魏志倭人伝」を読んで実際に参考にした。
古墳時代には、故人の装飾品として古墳に埋められた。
この辺りの事実が影響していると思います。
王族や男性が使用するものではないので、祈祷師が政治に強く影響していたことが伺えます。

一方、勾玉は縄文時代、弥生時代より男性が装飾品として身に着けています。
古墳時代の装飾品としても使われています。
勾玉が一族の王の証であることに使われていたのでしょう。
もう一つに見方に、大陸の玉璽、伝国璽の存在です。
次に紹介したいと思います。

日本の古代史はおもしろいでしょう。

2018-05-26 19:50:44 | 歴史
愛読ありがとうございます。
弥生時代から平安時代までを
「魏志倭人伝」と遺跡を元に想像してみました。

逆に、弥生時代の「古事記」「日本書紀」を元に
弥生時代まで戻ってみました。

事実のほどはわかりませんが
・伊勢神宮、出雲大社な神社の成り立ち
・「古事記」「日本書紀」について
・筑紫磐井、物部氏VS蘇我氏
・聖徳太子
・大化の改新
・倭の五王と広開土王碑
・卑弥呼の墓と古墳
・「魏志倭人伝」に紹介される国々
・始皇帝の時代の徐福
知っていると身の回りにある神社やお祭りなど
ちょっと違った目線で楽しめると思います。
ぜひ、お友達にも紹介していただき
日本の古代史のファンを増やしてください。


「古事記」日本神話の主人公 天照大神

2018-05-26 19:11:19 | 歴史
準備事項
三つの世界観
 天上にあり神様が住む高天原
 地上(葦原中国)
 地底にある死者が住む黄泉の国

概略
イザナギ、イザナミ夫婦であり兄弟でもある神様が国産み(日本列島の島々を作ってくれます)
イザナミは死んでしまい黄泉の国へ、イザナギが黄泉の国を訪れて、その世界が怖い場所として紹介
イザナギが禊を行うと、天照大神、素戔嗚、月夜見の三人の神様が産まれる。
イザナギの命令で天照が高天原、素戔嗚が葦原中国、月夜見が黄泉の国 を治めることに。
素戔嗚が嫌がり天照と兄弟喧嘩、天岩戸に隠れる。
周囲の神様達が集まり、宴会を行って、天照をおびき出すことに成功
素戔嗚は出雲へ追放される。

中々、凝った神話だと思います。さらに続きが
天照大神の子孫、ニニギが天孫降臨し日向で国づくり
既にできていた出雲の国は、天照大神と主張、天照大神の子孫に気に譲り
出雲の国を天照大神に譲る条件として、
天照の宮殿と同じくらい立派な建物を作ることを約束
出雲大社が出来る。
神武東征より以前ですので、伊勢神宮はまだありません。
天照大神が住む宮殿は 高天原 にありました。
登場する地名が
・高千穂から日向までの(天孫降臨後)宮崎
・出雲
・高天原(この場所が不明、架空の場所なのか?)
実際にあったとすれば、宮崎の反対側、玄界灘、有明海側になります。
「魏志倭人伝」に紹介される奴国などの玄界灘の国々
邪馬台国があった可能性がある有明海の国々 を合わせて高天原
高千穂から日向へ宮崎へ移住
筑紫・肥国(宮崎)・豊国(大分)、熊襲国(魏志倭人伝の狗奴国)が九州で
四つの顔をもつと表現した。
神話の世界ですが、わずかに。弥生時代の国々が紹介されているようです。
もしこれが事実であれば、神武東征は
・卑弥呼の死後、邪馬台国の子孫が阿蘇、高千穂を超えて宮崎 日向(肥国)へ移住、後に東征
近畿 奈良で ヤマト(邪馬台)と名乗った。
こちらの可能性が高いと信じています。




「古事記」神武東征は古墳時代?

2018-05-26 18:36:38 | 歴史
「古事記」に紹介されている歴史をもう少し遡ると
上巻(殆どに瀕神話の部分)の最後が神武東征(かなり紙面を割いて詳しく書かれている)
概略
・天祖ニニギが天降って179万2470余年、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)の兄弟が
 東に美しい国があると云うので統制に出発(カムヤマトイワレビコ 45歳)
・日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。
・岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
・浪速国の白肩津に停泊すると、ナガスネヒコ(ナガスネヒコ)の軍勢が待ち構えていた。
・その軍勢との戦いの中で、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たり亡くなる。
・南へ回り熊野から上陸、熊野の神々を服従させ、土蜘蛛(豪族)を破り奈良柏原の地へ着く。
・最後に、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
・白檮原宮で神武天皇として即位した。(紀元前660年)
確かに、地上での出来事で生々しく書かれています。
しかし、年代や年齢も人間業ではありません。
八咫烏の道案内など神業もたくさん登場します。
必要だったことをまとめると
・天皇家の祖先は九州から移住してきた。
・筑紫から安芸・吉備など瀬戸内海国々を味方にして近畿へ
・近畿の豪族たちと戦いになる。
・和歌山から上陸、勝利を続けながら奈良 橿原へ到着
・近畿最大の豪族、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦いに勝利し近畿を統一
岡田宮などでは大きな高倉式建物
武器も矛ではなく鉄製の剣と思われる。
弥生時代中期以降、古墳時代です(紀元前660年はありえません)
この時代の九州を知る手掛かりと云えば「魏志倭人伝」になります。
九州を離れて近畿へ移住した一族
・卑弥呼の死後、邪馬台国の一族が阿蘇、高千穂を超えて宮崎 日向(肥国)へ移住、後に東征
・卑弥呼の死後、女王となった台与(トヨ)の国が大分(豊国)、大陸から役人を呼び新しい国づくり始める。
 宮崎日向(肥国)、筑紫、安芸、吉備を周囲の国々まとめた。
 ※地理的に大分は、筑紫、日向、瀬戸内海の国々との交易の中心になります。
  邪馬台国の後継者であれば、近畿の国名にヤマトを使用しても不思議ではありません。
・卑弥呼の死後、男王になったのが宮崎日向(肥国)の王、結果、倭王にはなれなかったが
 後に、台与(豊国)、筑紫と手を組み、瀬戸内海から近畿征伐を行った。
・倭国大乱の際に、邪馬台国と狗奴国の争いに巻き込まれた日向地方の一族
 (魏志倭人伝」紹介される水行二十日の国 投馬国)
 日向の地をあきらめて、近畿へ移住、東征は後に作り上げたフィクションの物語
・いやいや、元々、奈良盆地の一族が朝鮮半島の文化を取り入れ西日本を統一
 九州、瀬戸内海の国々を納得させるために先祖を九州出身とした、こちらも創作小説
選択肢は多数あります。
但し、年代は弥生時代から古墳時代で間違いないでしょう。

「古事記」から見る古墳時代

2018-05-26 17:37:18 | 歴史
飛鳥に文字が伝わる前、100~200年ほど前の時代になります。
全てが言い伝えで伝わりますが、諸国での言い伝えには、かなり盛りがあったでしょう。
「古事記」では、更に天皇家に都合よく作り直したでしょう。

倭の五王
『宋書』倭国伝に紹介される 倭の五王(讃、珍、済、興、武)

400年代のことで、該当する天皇では
15代応神天皇以下
仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇、清寧天皇、顕宗天皇、武烈天皇らが
該当するとされています。
仁徳天皇と云えば、大阪府堺市にある最大の古墳 大仙陵古墳ですが、代々堺地方に大きな古墳があります。
部略天皇においては、結婚することなく、子孫がいません。女性と馬を交尾させたとか
朝鮮半島支配に軍人を送り込み、結果失敗に終わっていますので
天皇家集権からも民からも嫌われていたことは事実でしょう。

天皇家継続を一変させたのが、26代 継体天皇(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)
武烈天皇が後継者を指名せずになくなり、周囲が次期天皇について相談した結果
近江に住んでいて、応神天皇の6代目になる袁本杼命(をほどのみこと)に即位を依頼して
新しい国づくりが始まります。
琵琶湖を使った交易ルートなど、武力政治から交易の発展など政治になります。
古墳も北摂(高槻市)の三島藍野陵(宮内庁設定)
※近くにある今城塚古墳が正しくは継体天皇の古墳ではないかと云われています)
歴代の天皇の古墳は大阪湾側の堺市中心から離れた北摂に移動します。
部略天皇らから距離を置いたのは間違いないでしょう。

応神天皇の前が 仲哀天皇 と 神功皇后 で三韓征伐 なのお話があります。
その父親が、 あのスーパーヒーロー 日本武尊
九州の熊襲タケルを女性にふんして成敗、タケルと云う名前をもらう。
奈良へ帰ると次は関東征伐に出される。叔母の倭姫から三種の神器である天叢雲剣と小袋を与えらる。
関東征伐に成功するが途中でなくなり、白鳥となって奈良へ戻ってくる。

倭姫命と云えば、近畿が不安定になり、三種の神器 があぶないと判断
各地を移動して、最後に天皇家にゆかりの伊勢地方で伊勢神宮を作り、天照大神様に鎮座していただくこととした。

時代的には古墳時代の出来事でしょうか、ぞの内容が人間業ではないですね。
倭姫命の父親 11代垂仁天皇即位が西暦99年になっていますが、弥生時代中期になってしまいます。
既に年代のずれも著しいです。倭の五王も天皇家の王ではなく、近畿の豪族ではないでしょうか。
年代を調整するため、宋書に王と紹介されていたので取り入れたのではないでしょうか。
初代神武天皇以下
綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、 孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇 は
欠史八代で実際には存在していない人物とされています。
全ては、神武天皇即位を紀元前660年(日本では縄文時代に該当)に設定したことが原因です。
ここまでが「古事記」の中巻に書かれている事ですが、残念ながら、かなり信ぴょう性が薄くなっています。



「古事記」から見る飛鳥時代

2018-05-26 16:35:16 | 歴史
既に漢字が伝わっていますので、かなり信ぴょう性が高い事が記述されています。
筑紫磐井の乱(527年)
・ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。
・この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
・磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
・継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
・528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、一年以上続く激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。


仏教派 蘇我氏VS神道派 物部氏 の対立

587年 丁未の乱(ていびのらん)
蘇我馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍します。
物部守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。雨のように矢を射かけた。
皇子らの軍兵は恐怖し、一度退却しますが、
厩戸皇子は仏法の加護を得て、戦勝を祈願して、蘇我馬子は軍を立て直して進軍させた。
大木に登っている守屋を射落として殺した。物部守屋の一族らを殺した。
物部守屋の軍は敗北して離散した。

聖徳太子、蘇我馬子らによる 「十七条憲法」と「冠位十二階」
603年に制定のお話です。しかし
645年 中臣鎌子らによる蘇我氏の暗殺(乙巳の変)
622年 聖徳太子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなる。
626年 蘇我馬子が死に、子の蘇我蝦夷がかわって大臣になる。
628年 推古天皇が後嗣を指名することなく崩御する。
有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王がいた。
山背大兄王は聖徳太子の子で優秀だった。蝦夷はそれを嫌った。
629年 蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子(舒明天皇)を即位させる。
豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となった。
641年 舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した(皇極天皇)
643年 蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣する。
入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望む。
有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考えた。
入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。
山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺、聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡

その様な中
中臣鎌子は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。
645年 中大兄皇子と中臣鎌子が三韓から進貢の使者が来日した儀式に出席した入鹿を暗殺
6月12日 暗殺が実行され、入鹿死亡(乙巳の変)
6月13日 蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』を焼いて自殺し、蘇我本宗家は滅びた。
6月14日、皇極天皇は軽皇子へ譲位し、孝徳天皇が即位。中大兄皇子は皇太子に立つ
後に、大化の改新 が実行される。

物部氏、蘇我氏、聖徳太子、中大兄皇子と中臣鎌子と大和王権内部でのもめ事が詳しく記載されています。


神社の鳥居

2018-05-26 16:11:58 | 歴史
もう少し神社について、それは 鳥居 です。
鳥居にも二種類あります。
神明系鳥居 と 明神系鳥居(漢字が入れ替わっているだけですけどね)

神明系鳥居がシンプルで古い?、明神系鳥居で複雑に進化して艶やかになった。?
こんな印象を受けます。
伊勢神宮にも多数の鳥居があり、神明系、明神系鳥居の両方があります。
鳥居の目的は、神社(神様の領域)への入り口、門の意味です。
結界の意味もあるはずです。
鳥居は朝鮮半島にもあるので、朝鮮文化が伝わっとともされますが
逆に日本の文化が朝鮮半島へ伝わっとも時間が得られています。
神明系の鳥居に似ているのが、環濠集落の入り口の門です。
吉野ヶ里遺跡なども縄文時代から弥生時代後期まで歴史がありますが
全盛期であたあと弥生時代を参考に建て直されています。その一口の門は

環濠集落の中では王家が生活し、祈祷場所、祈祷の道具を収めた倉などがあり、一般の人々は入れない集落です。
この時代の造りが神社の元となり、入り口に使われた門が鳥居に進化したのではないでしょうか。
門の横向きの梁の部分には、鳥が止まっていたものを再現している場合もあります。
鳥居と云う名前も、鳥のやどり木からではないでしょうか。
神社制度が出来たのは平安時代、伊勢神宮の始まりも1400年前になりますが、
伊勢神宮の歴史では2000年の歴史となっています。
2000年前と言えば弥生時代です。
弥生時代の祈祷や宗教的な文化が平安時代まで続いてあった。
天候家の歴史を深くするために古い儀式も取り入れたので弥生時代の環濠集落の門が鳥居に発展
内部に、高倉式の倉や社殿があり、内部を神の世界にした部分も弥生時代の集落に似ています。