古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

弥生時代のすずりを発見

2018-11-25 16:08:21 | 歴史
私も、ちょっとびっくりと、やっぱりと複雑なニュースでしたが
邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡

え~、これが硯(すずり)??
ちょっと想像しづらいですが、
こんな感じで使っていたようです。
弥生時代、文字使い外交か 福岡で最古級のすずり発見
この時代は、大陸から一大卒が派遣されて
伊都国で交易を管理していたでしょうから
墨を使って文字を書いていたのは、大陸人だったのでしょう。
倭国内の情報が漢字になり、手紙になり大陸へきちんと伝わっていた証です。
この時代を知る手掛かりなっている「魏志倭人伝」
この信ぴょう性は非常に高いと云えるでしょう。

弥生時代のすずりは他にも多数発見されているようで
国宝に指定されている「委奴国王印」以上に重要な発見だと思います。

墨が付着した弥生時代のすずりか 福岡の薬師ノ上遺跡
では、糸島から離れた内陸部でも硯(すずり)が発見されています。
大陸の役人が各所に配置されていた様です。

最後に 卑弥呼の敵 狗奴国(くなこく)の卑弥弓呼、狗古智卑狗は

2018-11-24 15:52:11 | 歴史
邪馬台国の南に位置する狗奴国(くなこく)
唯一、卑弥呼の倭国連合に加わらず、邪馬台国を攻めていたようです。
狗奴国男王の卑弥弓呼(ひみひこ)
その国の官 狗古智卑狗(こくちひこ)
熊本の菊池彦の説が有望です。
卑弥呼が大陸 魏 に応援を依頼しなければならないほどの強敵です。
その卑弥呼も応援に駆け付ける張政らが到着する前に亡くなります。

さて、魏志倭人伝に戻って、対馬国、一支国の官が卑狗(ひこ)と紹介されています。
後に男子の名前に使われる 彦(ひこ)で間違いないでしょう。
狗古智卑狗(こくちひこ)も官です。
王ではありません。卑弥呼も同様で祈祷師であり王ではありません。
王家より官の方が権限を有していたのでしょう。
大陸の国 魏 が交渉したのは、王ではなく官です。
狗奴国は、狗古智卑狗(こくち彦)と彦の前に名前が付きます。
複数の官(彦)がいて、その頂点にいたのが菊池(こくち)の名を持つ官(彦)だったのです。
しかし、男王 卑弥弓呼 も 卑弥彦 です。
卑弥弓呼 と 狗古智卑狗 は同じ一族の家系でしょう。

さて、邪馬台国(やまと国)の卑弥呼 (ひみこ)
と  狗奴国 (くな 国)の卑弥弓呼(ひみ彦)
ひみこの 子 は女性
ひみひこの彦 は男性 が使う呼び名だとすれば
ひみが共通で何かの意味がありそうです。

仮説
卑弥呼は、狗奴(或いは邪馬台)国生まれで 国王 卑弥弓呼 の一族だった。
そのため、ひみ と云う同じ呼び名を持つ。
・倭国動乱は、玄界灘側の奴国、伊都国連合と有明海側の邪馬台国連合の争いだった。
・邪馬台国出身の卑弥呼を倭国の代表とすることで国がまとまった。
・しかし、卑弥呼は魏に貢物を贈るなど旧奴国、伊都国連合と同じ政治を行った。
・卑弥弓呼らが連合から離れて狗奴国を作り独立、卑弥呼と争った。
・卑弥呼は狗奴国との争いを拒み、平和的な解決を図るも亡くなる。

つまり、邪馬台国 VS 狗奴国 の争いは一族の権力争いであった。
狗奴国が敵国であれば、卑弥呼の宮殿が狗奴国と近い地域になる事をさけるでしょう。
元々は同じ一族であった卑弥呼と卑弥弓呼の分裂が原因であった。
隣り合う国どうして争く事になりました。
「古事記」「日本書紀」でも皇族一族で権力争いの説話が多数登場します。
狭い有明海側の南北戦争だったのではないでしょうか。
しかし、「卑弥」ひみ と呼ばれる一族の名前は登場しなくなります。
後に、苗字を持たない一族が天皇です。
数の数え方にも、1,2,3・・・が ひい、ふう、みい・・・
日、ひ は、何事にも一番だった文字ではないでしょうか。
ひみこは、ひいこ
ひみひこは、ひい彦??

卑弥呼(ひみこ)の語源は?

2018-11-24 12:57:30 | 歴史
ヤマトの語源 に更に続大和朝廷のヤマト の語源は 邪馬台国(ヤマト国)で間違いないと思います。
では、魏志倭人伝に登場する女王「卑弥呼」は何故 ひみこ??
諸説あります。
日巫女
・朝日、夕日など太陽の意味の 日 と 神社で働く女性 巫女
 祈祷師 卑弥呼が、この呼び方だった可能性は強い思います。
 暖かい日差しをくれる太陽が 日(ひ)
 朝日や夕日も燃えているように見えます。
 炎の方の 火 も ひ です。
 発音一つ ひ は漢字を持つ前にあった言葉でしょう。
 多分、 日 も 火 も同じ ひ で熱いもの、温めるもの、燃えているもの を一括して ひ だと思います
・姫 日女(ひめ)、巫女(或いは 子)
 卑弥呼が女王なので、姫
 しかし、弥生時代に 姫 という言葉があったでしょうか。
 姫は平安時代に大陸から伝わった言葉の様な気がします。
すみませ。やはり、ひみこの語源はわかりませんでした。
多分と思われる内容は次投稿にします。

では、「古事記」や「日本書紀」に、卑弥呼は登場するのでしょうか。
・天照大神
 この名前は平安時代に、神話の女性を太陽神にしています。
 卑弥呼がモデルの可能性は十分にあります。
・宇那比姫
 京都府宮津市の籠(この)神社に伝わる家系図『勘注系図』に登場します。
 天照大神の子供 天火明命(ニニギの兄)から六世代目で
 他の名前で
 ・大倭姫(おおやまとひめ)
 ・天造日女命(あまつくるひめみこと)
 ・大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)
 ・日女命(ひめみこと) などの名前で登場します。
 大倭姫が倭国の女王
 大海靈姫命が祈祷師
 日女命(ひめみこと)が ひみこ をイメージさせています。
更に、別家系ですが一代下に天豊姫命(あまとよひめのみこと)
こちらが、卑弥呼の死後に女王となっだ 台与(とよ)ではないか。
確かに、卑弥呼のイメージを全て含んでいるのですが
これだけ揃えられると、後に作られた人物と疑いたくなります。
命(みこと)という言葉(位、役職)が弥生時代にあったのでしょうか。
命、帝(みかど)は平安時代に出来た言葉だと思います。
日女(ひめ)が弥生時代に王の妻、或いは女性の子など高貴な女性に付けられた名前で
後に 姫 を ひめ と読むようにしたのではないでしょうか。
・大倭姫
 他にも倭姫が登場します。11代垂仁天皇の子供(あの倭建命の一代上)
 天照大神の神体である八咫鏡を京都で受け取り順次奉斎し伊勢の地にり伊勢神宮を創建
こちらも倭の国女王の名前ですが、伊勢神宮創建を考えると卑弥呼の時代と合いません。

倭姫の名前は、当時の女性では最高の名前だっだのですね。

ヤマトの語源

2018-11-16 18:12:34 | 歴史
先の投稿のおまけです。
ヤマトの語源には諸説あります。
・山のふもと 確かに人々が住めないような高い地域を ヤマ と読んだのでしょう。
・天(アマ)のふもと こちらも信ぴょう性があります。ヤマより高いのでアマ
古代からあっても不思議ではない名詞です。
後の古事記などでは、特に説明もなく
普通に国の名前、皇一族の名前に登場します。
ヤマトは、皇族の印として当たり前であり
その成り立ちを知る人もなく、説明する必要もなかったのです。
それだけ古くから使われた名前でした。
申し訳ありません。
ヤマトの語源は不明です。
しかし
そこには重要な意味が含まれているようです。

その他
姫、皇、王、国などは渡来人が持ち込んだ言葉です。
他にも植物や動物の名前
仏教と共に伝えられた龍や鬼などの漢字も
多分、神様も平安時代の言葉です。

大陸が付けた当て字では
倭人 最も古い、最初の漢字
魏志倭人伝に登場する玄界灘の国々
・対馬、一支国 島の形状から(二つ、一つの島)
・末盧国、伊都国 渡来弥生人が付けた名前
・奴国、不弥国 大陸人が倭人の発音を元に付けた当て字
邪馬台国も同様で、ヤマトの発音に対して当て字です。
狗奴国も後の熊曽国の発音を当て字
その他女王国へ至る国々ですが、漢字二文字が多いです。
蘇奴国と華奴蘇奴国もその関連性があるようです。
卑弥呼と魏の交易が活発になった時代に付けられた名前(漢字)ではないでしょうか

普段私たちが使っている日本語ですが
ひょっとしたら、弥生時代など古代を知る手掛かりが残っているかもしれません。
特に地名などの中には潜んでいると思います。

魏志倭人伝に登場する「邪馬台国」と大和(ヤマト)朝廷

2018-11-16 18:05:31 | 歴史
先の大陸の史記に登場する倭 と日本のヤマトと合わせて読んでください。

魏志倭人伝に登場する 邪馬台国
誰もが違和感なく ヤマタイコク と読みますが、実はこれが間違いです。
当時、倭人の発音をもとに漢字を当てはめますが、漢字一文字 一音です。
(何らかの意味を込めた場合は別です)
後の女王 台与は、トヨ と読んでいます。
台 は ト の発音の当て字です。
邪馬台国は、ヤマト国(もちろん国の文字はありません)の当て字です。
卑弥呼が活躍する2~3世紀の弥生時代以前より
ヤマトと呼ぶ国或いは一族がいました。
卑弥呼は女性の祈祷師ですので、ヤマト国にはヤマト王家があったはずです。
国は一族の王を大切にしますが、政治は周囲の権力者に任せていたようです。
その一人が祈祷師 卑弥呼でしょう。
もちろん、卑弥呼が王家の血を継ぐ女性であった可能性はあります。
彼女の祈祷は、王家の為にあったはずです。
魏志倭人伝でも国ごとに複数の役人が登場します。
後の蘇我氏の様に、王家一族と役人たちの関係は弥生時代には既にあったようです。
さて、弥生時代の邪馬台国(ヤマト一族)=邪馬台国 と
飛鳥時代に登場する ヤマト国(ヤマト一族)= 大和朝廷(夜麻登族)
この呼び名の一致は偶々でしょうか?
・邪馬台国=ヤマト国=夜麻登国=倭国(ヤマト)=大和朝廷
・邪馬台国と大和朝廷は無関係、後に魏志倭人伝に邪馬台国が登場する事を知り
 その呼び名を使った。(ちょっとずるい)
・いやいや、ヤマトとは日本で高貴で神秘的な意味があり多くの王らが使っていた。
ヤマトと云う発音の言葉は、弥生時代(縄文時代から?)に使われていた現存ずる
最も古い日本語ではないでしょうか。

ヤマトと云う言葉(地名、一族の名前)は卑弥呼の時代よりはるか昔から使われていました。
これが一族の名前で卑弥呼の死後も伝承されていたのです。
奈良の一族が勝手に使うわけにもいかなかったはずです。
邪馬台国=倭国=大和朝廷は間違いないと思います。
いやいや
奈良の一族は全く別だったが、神武東征と云う神話を作り上げヤマトを名乗った。
無理やりですが考えられなくもないです。
しかし、それだけヤマトの名前が重要で知られていたのであれば
ヤマト(邪馬台)の一族を攻撃する、勝手に名乗る事は出来ないです。

神武東征の物語の解釈を少し変えて
卑弥呼の死後、筑紫が力をつける
邪馬台国は九州で居場所を失い瀬戸内海を渡る。
奈良の一族の力を借りて邪馬台国が復興
ヤマト国と名乗る。
古墳時代の出来事になります。
こちらの解釈の方がすっきりするのですが如何でしょうか。

大陸の史記に登場する倭 と日本のヤマト

2018-11-16 16:09:48 | 歴史
私が気にするところは、倭 の漢字を何故 ヤマト と読むのか?
後の平安時代の書物「古事記」に古代の事が書かれています。
自国の名前は 「倭」 という漢字を使っています。
倭の漢字を使った、皇子、姫はたくさん登場します。
中国の史記に書かれた「倭国」と云うフレーズを読んでいますし
元々は、「漢書」に
「・・・楽浪の海中に倭人有り。 分かれて百余国を為し、歳時を以って来たりて献見すという。」
と、朝鮮半島から海を渡ったところに国々があり、倭人が住んでした。
民族の呼び名が国名に変化したようです。
他にも匈奴、鮮卑、突厥、夫余などが紹介されていて
いずれも漢字を持たない民族に漢民族が漢字を充てています。
かれらが自らの国を発音(倭=我のワ)して漢字に当てはめた可能性と
民族の身なり、体系、文化などから宛てた漢字に可能性の二通りがあります。
倭国も自らが ワ と発音していたのでしょうか。(我々の国のワ)
倭人から倭国になったとすれば、小柄な背が丸まった人種から 倭 の漢字が始まったと思われます。
間違いなく 倭 = ヤマト の読みではありません、

時代が過ぎて、漢字が使えるようになった大和朝廷の歴史書
「古事記」「日本書紀」では 倭 の漢字を ヤマトと読んでいたようです。
全てが漢字なので、フリガナはありませんが
「夜麻登」という漢字が見受けられます。
例えば、倭姫
   古事記       日本書紀
夜麻登登母々曽毗売命  倭迩迩日百襲姫命
後の万葉集でも「夜麻登」の漢字で登場しています。
平安時代、倭 はヤマトと読んで、国の名前だったのです。
ヤマトタケル
古事記 倭建命、日本書紀 日本武尊 と記されています。
ヤマトは国の呼び名であり一族が継承する名前でした。
国内向けに作成された古事記では、発音を漢字に充てた夜麻登(ヤマト)
海外向け(中国向け)に作成された日本書紀では 倭に置き換えたわけです。
漢字が伝わる以前より ヤマトと発音する地域、或いは一族がいました。
飛鳥時代には、仏教が伝来して蘇我氏VS物部氏の時代よりはるか前です。
ヤマトと自称するヤマト国(一族)の始まりは、古墳時代、弥生時代、縄文時代へ遡るのです。
そして、現代に至り、大和朝廷(王権)を誰もが ヤマト朝廷と読みます。

歴史は「ナショナリズム」と「グローバリズム」の繰り返し?

2018-11-16 12:04:04 | 歴史
本来の意味と違うかもしれないので最初に説明
・ナショナリズム
 民族主義、国家主義、閉鎖的、鎖国・・・
・グローバリズム
 共同体、全体主義、開放的、交易・・・
こんな感じの意味として使って古代日本歴史を覗いてみます。
旧石器~縄文時代
日本列島は大陸より分かれて周囲の国との国境がありません。
日本海があるので、韓国や中国の様に周囲の国々(民族)との
争いがない国でした。
一方、他国の文化は伝わらず、独自の文化が形成されます。
・縄文式土器は、世界的にも最古の土器です。
・火焔土器、土偶は、現代人が観ても芸術性が高いです。
・竪穴式住居などが出来て集落での生活が始まります。
・物々交換ですが、集落ごとの交易が始まります。
・ヒスイの勾玉など装飾品は幾度も交換されたのでしょう、広範囲です。
同じ民族ですので、信じあえることが出来たのでしょう。
ナショナリズムの世界で発展します。
弥生時代
大陸から異民族が移住します。
九州から日本海側の山陰地方です。
・高倉式建物、織物技術、稲作など生活が豊かになったでしょう。
・先住縄文人と渡来弥生人の共同生活が始まったようです。
グローバリズムの世界に変わります。
・集落の格差が始まり、殺人の武器が作られ、環濠集落が出来ていきます。
・小さい、弱い集落が滅んで大きな集落になっていきます。
魏志倭人伝に紹介される奴国、伊都国、邪馬台国などです。
古墳時代
大陸が乱れて交易が衰退します。
国内では地域ごとに大きな集落(豪族)の国が出来ています。
もちろん、大陸、朝鮮半島から渡来する移住民族も後をたちませんが
既に力関係が違っていたようです。
先住の豪族>新しい渡来人 の関係です。
・朝鮮半島からの移住民族を従えて朝鮮半島支配へ出兵する豪族
・移住民族から新たな文化を吸収して力をつける豪族がいたようです。
・国内で力をつけた豪族は大きな古墳を造ります。
国同士の力関係がはっきりしてくる100年間でした。
朝鮮半島のナショナリズムが日本を戦争に巻き込みます。
飛鳥時代、大和朝廷
・九州(筑紫)、山陰(出雲)より遅れて朝鮮半島より移住民族を受け入れる。
大陸、朝鮮半島の文化を積極的に取り入れます。(飛鳥文化)
大和朝廷が実行したのは漢字、仏教など文化交流です。
まさにグローバル化ですね。
平城京時代から平安時代へ
奈良の盆地で力を付けた大和王権(大和朝廷)
遣隋使、遣唐使などを派遣して大陸中国の国づくりを日本で実行
新しい都を作り常に進化していきます。
近畿を統一した大和朝廷は西日本(出雲、筑紫)を連合体にする。
平安京中心の長い平和な時代が続きます。
グローバルの集大成の結果は大和朝廷による中央集権でした。
ここからはナショナリズムで倭国が団結した時代です。
鎌倉時代
しかし、皇族、貴族中心に政治から武力をもった武士の時代に
江戸時代は鎖国の時代になります。
編案時代以後、1000年以上日本独特の文化が伝承されます。
島国で陸続きの国境を持たない日本だから出来た事です。
大陸の支配を受けない時代です。ナショナリズムを維持できたのです。
そのため、日本の文化、神道、仏教、和食、言葉など

その多くは
・平安時代の文化
 神道、天皇制度、和食、大和言葉など
・鎌倉時代の文化
 鎌倉仏教
・江戸時代の文化
 お寿司などの和食などと大衆文化
明治維新
皆さんご存知の西洋文化の導入です。
再び、グローバル化を実施
食文化でも肉食などは始まり、新しい日本食が出来ます。
和服文化から洋服へ、教育などの制度も変わります。

日本の歴史で、グローバリズムは
・弥生時代に大陸からの移住民族による文化の伝承
・飛鳥時代~平安時代に行われた大陸文化の導入
・明治維新に行われた西洋文化の導入
大きく3回行われた様です。

今となっては、縄文時代、弥生時代の文化は
・日本神話などの神道
・勾玉などの一部の宝飾品
・遺跡
でしか見ることが出来なくなりました。

数千年と云う長い時代続いた縄文時代、弥生時代ですが
繰り返されたグローバル化の中で
その文化伝承は消えていったわけです。
漢字が使われた平安時代以降は、多くの手掛かりがあります。
古墳時代以前になると
・古墳などの遺跡
・魏志倭人伝など大陸の史記
・日本神話などに残るわずかな歴史
・地名などに残るわずかな歴史



お祝い事の代名詞 松竹梅

2018-11-13 21:29:07 | 歴史
日本の祝い事の景物で、その順番に松竹梅
松が一番、竹が二番、次が梅??
諸説あるようです、共通点は???
松・・・間違いなく日本人より古くから日本に
    冬でも枯れないので一番縁起が良い?
竹・・・木ではありません。イネ科の植物、縄文時代の遺跡から竹製の道具が出土
    かなり古くから身近にあったようです。
    分布は日本を含むアジア島南部とアフリカ、南アメリカ
    竹文化は日本独自の物が多いですよね。
梅・・・東アジアだけに育生する樹木、弥生時代(?)大陸から薬用として持ち込まれた。
    平安時代には、梅干しがあったようです。
    鑑賞用となったのは後の事です。
田舎の古いお宅を見せてもらうと
・玄関口に、松の木が枝を広げている。
・縁側から庭を覗けば大きな枝を伸ばした松と梅の木
 想像ですが、冬の季節、雪がつもった松の枝もきれいなのでしょう。
・そして、囲いには竹林、裏山も竹林
松竹梅の三種類を植える事は日本人の美意識の中に根付いていたのでしょか。
多分、平安時代以降だと思います。
平安時代には、梅の花から桜へ移った時代でもあります。
桜が天皇など公家の花ならば
松竹梅は一般の庶民になじみの樹木として
わびさびの世界を伝えたような気がします。
さすがに杉、ヒノキを植える事はありませんでした。
寺院、神社など大きな建物仏閣のご神木には、良く見受けますね。

日本の木材 杉、ヒノキ、松

2018-11-13 20:33:16 | 歴史
昔話の次に、日本の植物について調べてみました。
最初は、大木、建築材料の 杉、ヒノキ、松など
元々日本列島は、ユーラシア大陸から徐々に分かれてき出来ました。
大陸に生えていた樹木がそのまま残って当然ですね。
日本全土の森林と云えば、杉、ひのき、松ですよね。
杉類では樹齢千年以上の大木もあります。
大木を切り倒す道具を持たない旧石器時代では
枯れ木、倒れた木の枝から火をおこす材料程度だったでしょう。
縄文時代の遺跡からは大木を使った建物もあります。
石斧などで切り倒したり、倒れた大木を使ったりしたのでしょうか。
特に松の木の分布が面白いです。

松は北半球だけに分布、南半球には分布していない。
ユーラシア大陸でもヨーロッパからシベリア、日本列島
日本列島は北海道が大陸につながっていた時代が長いのではないでしょうか。
弥生時代、大陸から伝わった鉄製品
高床式の大きな倉を作るにはこれらの樹木が使われます。
日本が木造住宅、木製の家具などで発展したのかこれらの樹木が昔から豊富にあったからです。
大陸から分かれた日本列島
大陸から植物が移住する事はありませんので、日本独特の森林が出来たのでしょう。
火山活動も日本列島の特徴です。
山が出来ます。そして周囲が海なので台風など大雨が谷を作り川が流れます。
大陸内部に見られるような乾燥地帯、砂漠はありません。
大陸からの季節風と太平洋など海からの季節風で多種の植物が生息できたのでしょう。



二人の女流作家「清少納言」と「紫式部」

2018-11-12 19:04:42 | 歴史
平安時代に文学を書いたら、この二人を省略するわけにはいきませんね
二人とも同じ時代に都で生活した二人の女性です。
清少納言「枕草子」の作者
春はあけぼの・・・での始まり春夏秋冬の表現が有名です。
966年頃、あまり身分の高くない受領階級の娘として生まれました。
16歳頃、清少納言は橘則光と結婚
993年(30歳くらい)一条天皇の妃である藤原道隆の娘、中宮定子に仕える。
枕草子は、清少納言が宮仕えをしていた7年間の出来事や考えたことを日記に書いた随筆です。
定子とのやり取りや宮中での恋愛ごとなど書かれています。
日記なので、短編の連続で 「〇〇きもの」で始まります。
最後は
ただ過ぎに過ぐるもの。
帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。

ただもう過ぎていってしまうもの。
帆を上げた舟。人の年齢。春、夏、秋、冬。

ちょっと遅れて
紫式部が仕えたのが藤原道長の娘である彰子
何と、藤原道長は彰子を一条天皇に嫁がせる
定子と彰子 どちらが正室になるか、どちらが先に子供を産むか?
スポーツに例えるなら、定子と彰子の二人の選手を育てるコーチみたいな立場です
他にも補佐役がいたでしょうから
チーム定子(清少納言)とチーム彰子(紫式部)の争いですね。
別に戦争ではありませんので、時は平和だと言う事ですね。
戦況は、接待上手、男扱い上手の清少納言有利です。
一方、紫式部は高飛車で男ウケが悪かったのです。
藤原道長が編み出した対抗策
紫式部がかねてより執筆していた「源氏物語」の執筆活動を支援
紙や筆記用具は藤原道長から無限に与え
墨をする要員など紫式部の執筆活動を手伝うアシスタントまでを雇用
その数20名

戦況の結果は??
残念柄、定子が亡くなり清少納言の負けとなります。
紫式部は彰子の出産を見届け、子育てのやり方を教えながら
源氏物語をどんどん終結の方向へ進めてる。
12歳の娘に自分の後を継がせて隠居
こんなこともあり、源氏物語は長編作品となります。
「枕草子」と「源氏物語」の背景には、かなりドロドロとしたものがありました。
定子と彰子の正室争に生まれた二人の女流作家
二人が同じ時代に登場した理由があったようです。