古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

九州の地形から倭国を考える。

2016-10-09 13:09:16 | 歴史
地形ですので、1300年前もほとんど変わっていないでしょう。
違うところと云えば
・埋め立て地はなかった
・有明海はもっと広かった。(吉野ケ里遺跡より)
位でしょうか。
下の地図と倭人伝の国々を考えてみましょう。

仮定として
末盧国、伊都国、奴国、不弥国は玄界灘湾岸とします
地形から、倭国の30の国は
1、博多湾から盆地(左右に山を見ながら)を南へ(久留米)から有明海湾岸
  魏志倭人伝に紹介されている国で
  つぎに姐奴国(さなこく)がある。・・・佐賀
  つぎに対蘇国(とすこく)がある。・・・鳥栖
  つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。・・佐賀
  つぎに呼邑国(おぎこく)がある。・・・小城
  さらに
  つぎに烏奴国(あなこく)がある。・・・鳥栖?
  吉野ケ里辺りが呼邑国かな~
2、いやいや、阿蘇山周辺も含む
  確かに、阿蘇山の蘇を含む国名が三つあります。
  しかし、その三つが上記の佐賀県内ですが。
  もちろん、熊本にも、カルデラ周辺にも人々は住んでいたでしょう。
3、東に進んで、日田、別府、大分も含む
  地形でみて、日田まで楽に行けそうですが、陸路で大分はどうでしょうか。
  海路の場合、山陰方面、出雲、若狭湾方面になりそうな気がします。
私の考えでは、当時はまだ、1の範囲が倭国だったのではないでしょうか。
卑弥呼の宮殿もこの範囲だと思います。
敵国である狗奴国の候補地ですが
熊本、阿蘇カルデラ周辺、日田辺りではないでしょうか。
そもそも倭国と武力で争えるほどの大国ではなかったと思います。
倭国も卑弥呼も朝鮮半島へは派兵しているでしょうが、国内へは常に和平を望んでいます。

地形で気になるのが、福岡=鳥栖(久留米)に繋がる盆地の左右に位置する山々

西側に背振山があり、奥には天山と云う山があります。
東側に朝倉の東に山々がつながり、奥には英彦山があります。
卑弥呼は、朝日を使って祈祷をしたと思いますので、背振山の西側の稜線に宮殿を
卑弥弓呼は、反対側の英彦山のふもとにいたと考える事と不思議と納得してしまうのですが

仮に、これが250年位(親魏倭王の金印が送られた時代)の倭国だとして
そこから、九重連山を超えて、宮崎の日向の地へ移住した人々(天孫降臨) と
近畿へ移住した人々(神武東征)がいるのですが、そこに何の理由、意味があるのか
まだ、不思議な部分が多数ありますね。


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