古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

後漢書と魏志倭人伝の相違点

2017-04-23 20:06:24 | 歴史
やはり気になるのが後漢書と魏志倭人伝の相違点です。
作成されたのは、魏志倭人伝が先、
西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれた。
これでも、卑弥呼の死後、半世紀後
後漢書に至っては、編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)で更に100年後
秦の始皇帝の時代に、大船団で倭国へ住み着いた徐福の記事もあります。
後漢書の倭国は
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る。楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。
・魏志倭人伝の対馬から伊都国、奴国、不弥国などは詳しく記載されていません。
倭国全てで百余国、漢と付き合いがある国が三十国、大倭王は邪馬台国
だいぶ、省略してあります。
「桓帝と霊帝の間に倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。高齢だったが、独身で、鬼神道につかえ人々を惑わし操った。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。侍女千人が付き従っている。面会した者はほとんどいないが、ただ男子一人が飲食物を給仕し、言葉を伝える。住まいや宮殿、高層の神を祭る場所は城柵で囲い、みな兵器を持って守っている。法習慣は非常に厳しい。」
卑弥呼と云う名前からして、魏志倭人伝委を流用しています。
「女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。みな倭種であるけれども女王には属していない。女王国より南、四千余里で侏儒国に至る。人の背丈は72cmから96cmである。侏儒国から東南、船で行くこと一年で裸国、黒歯国に至る。交流の可能な国はここで終りになる。」
・女王国の南にあるはずの拘奴国が、東、海を渡って千余里
・出発地点より水行20日かかる投馬(ズマ)国は何処?
・女王国より東、海を渡って千余里には、国名不明の倭種の国は?
范曄が書いた倭国は、漢の時代(1~2世紀)、魏の時代(3世紀)、南朝宋時代(4世紀)を一つにまとめてしまったのです。
魏の時代(親魏倭王の金印が贈られた時代)については、魏志倭人伝の記載が正しいと思います。
漢と交流のあったのは三十国は、4世紀の国々です。
倭国とは、九州全土から山陰、山陽までの国々です。邪馬台国は豊国(台与女王)です。
対馬国、一支国、末盧国は残ったでしょうが、伊都国、奴国、不弥国は一つになり筑紫
女王国の境界に紹介されている国々も纏まったり、無くなったりして、国の数は減っています。
新たに倭国の計算に入った国が豊国、肥国の九州東部、出雲、安芸、吉備など瀬戸内海の国々が集まって30国と表現しました。
・女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。みな倭種であるけれども女王には属していない。
は、山陰の出雲国連合ではないでしょうか。出雲が九州より千里はとは近すぎますが、出雲連合が山口まで広がっていた。
と考えます。

范曄が書いた倭国伝は、長い歴史を魏志倭人伝より短い文書に纏めてしまった為、かなり無理が生じています。


後漢書の「漢委奴国王」と魏志倭人伝の「親魏倭王」

2017-04-23 17:23:35 | 歴史
後漢書東夷伝倭伝 と 魏志の東夷倭人伝の原文、和訳のサイトを紹介しておきます。

後漢書は、後漢朝(西暦25~220年)の歴史書で
成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)
つまり、後漢の時代に書かれたわけではありません。
陳寿の魏志倭人伝より、かなりの後の時代です。
范曄の後漢書は、漢の時代の事実と魏志倭人伝と范曄の時代の情報がミックスしています。

建武中元二年(57年)倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 と記述があり
西暦57年に印綬「漢委奴国王」が贈られていますが、金印の文字が漢委奴国王とは限りませんが、
後に「漢委奴国王」が発見されますので、間違いはないでしょう。

魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」
西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれた。
范曄の後漢書より早いのです。
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 と記述がわり、他にも 親魏倭王卑弥呼 と卑弥呼の事を表現しています。
「親魏倭王」の金印は発見されていませんが、こちらも「親魏倭王」で間違いはないでしょう。

漢委奴国王は、学校で漢の委(ワ)の奴(ナ)国王の金印 と教えられました。
別説では、漢の委奴(イト)国王で 委奴(イト)国=伊都国 の説もありますが、
委 は ワ行の ゐ、伊都国の伊は、母音の イ なので少し違うように思います。
ならば、何故 倭(ワ) を 委(イ、ゆだねる)の文字にしたのでしょうか。
仮にも皇帝が発行する印綬です。省略したとは思えない。
漢は委ねる、奴国王に と受け取る方がスマートですが、倭国の王が表現されていない。
倭、委、奴の読み方について、先の投稿で少し説明しています。

更に疑問が、奴国王は、金印を何に利用したのか?
本来、金印は、奴国から貢物を漢へ運ぶ際に手紙を添え、「金印」を捺印しておけば
途中で他国の妨害時に、手紙を見せれば襲われない。と使ってください。
残念ながら、奴国では漢字がありません。
国内の諸国に向けて、どうだ、我が国(奴国)が倭国連合のトップに認められたと
金印を見せびらかすしか、使わなかったと思います。

対して「親魏倭王」4文字、四角い印のバランスも良い。
魏と親しい倭の王、邪馬台国の女王卑弥呼 の記述はないです。この金印を持つ者が倭国の王ですね。
漢は、奴国の王に委ねる (だいぶ上から目線)と
魏は、倭国の王と親しい (対等な立場)   で、だいぶ印象が違います。
100余国があり、後に大乱となった倭国の時代の奴国
30国から代表として認められた卑弥呼の国邪馬台国
倭国の印象も違っていたと思います。
こちらも、手紙の最後に朱肉でハンコとして使用してないでしょう。
贈られた織物など衣類と銅鏡などは卑弥呼の祈祷、生活で使用されました。
金印は、どこかに飾られていた、或いは、卑弥呼の手元にはなかったのでしょうか。

 

古代日本人の発音と大陸の漢字

2017-04-23 15:17:29 | 歴史
以前にも書いた記憶がありますが、再度です。
魏志倭人伝に登場する
国名と読みを50音に当てはめてみました。
※末盧国(マツロ)など一つの感じで、二文字の読みは対象外にしました。
結果
え母音 は、0個(大きく口を開く発音が苦手?)
あ母音 が 23個 圧倒的に多い、続いて い母音 15個
タ行は と のみ、ナ行は な 、ヤ行は り のみ
カ行、ア行、ナ行が多く登場するが、ナ行 は 奴が7回
き も7回登場するが、鬼、支 の二種類がある。

で、結果20音種類しかありません。
一つの音に、複数の漢字当て字が見受けられるのが
い 已 伊 為 一
お 対 呼
き 鬼 支
さ 姐 蘇
と 都 台
わ 百  倭
邪馬台国は、邪馬壹國、台与(トヨ)が壹與(臺與)の記載がありますので
台は壹で、トィ に近いた行ではないでしょうか。
倭国の古い漢字 委(漢委奴国王の金印の委) 委はわ行のゐ(イ)
いと発音する 已、伊、為、一にも、母音のイ以外に、ティ、ニィ、ヤ行のゐなどの発音に対応している。
お の 対、呼
さ の 姐、蘇 もそれぞれ違う発音ではなかったでしょうか。

文字を持たない古代日本人の発音と漢字との対比表は、漢の時代にきちんと(正しく)出来ていたはずです。
当時、倭国は百余国もありますので、同じ名前が重複していた可能性もあります。
魏の時代の魏志倭人伝で30国(奴国が2回登場します)
音数も奴国が一音で、他は2音以上です。それぞれの国がまとまり、やや複雑な国名が登場したのでしょう。
倭国や卑弥呼など、見下げたような意味の悪い漢字を当てたという意見もありますが
馬、鳥、華、蘇など良いイメージの漢字もあります。
異国の国名ですので、大陸(国名に)では使われていない漢字を当てて違いを表現したのではないでしょうか。

卑弥呼の 弥呼 は、弥奴国 や 不呼国 がありますので、決まった通りです。卑弥呼の卑が、先にあったのかは不明です。
もちろん、後に(平安時代)に登場する古事記やひらがなは、当時の漢字とは全く違った漢字を使っています。
唯一、大陸の史記に出てくる国名で 倭国の倭 を使い ヤマト(邪馬台)と読ませているのです。
それほど、馴染んでいた漢字であり、読みだったのでしょう。
古事記も712年に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上したとされていますが、書き始めは神話であり、多分に天皇記など影響あったでしょう。
書き始めと終わりでは、倭が大和になり日本になります。倭が大陸の呼び名であまり良い漢字でないことに途中で気が付いた可能性もあります。

さて、ここまでを理解した上で、二つの金印
「漢委奴国王」、「親魏倭王」の意味を考えてみます。