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古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

春日大社と春日大明神

2017-10-21 13:34:58 | 歴史
春日大社・中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社
 大社ですので、スサノオを祀る出雲大社と同じで、アマテラスの直系ではありません。
春日大明神
実は、春日大明神は1人ではありません。
武甕槌命(タケミカヅチ)      - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
経津主命(ふつぬしのかみ)     - 同上(下総国香取の神)
天児屋根命(あめのこやねのみこと) - 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
比売神(ひめがみ)         - 天児屋根命の妻(同上)
の四人が祀られています。
実は、イザナギとイザナミが産んだ神様がいます。日本神話の神産みです。
イザナギとイザナミとの間に沢山の神々を産みます。
さいごに火の神 火之夜藝速男神(カグツチ)を産みますが
火の神であったために、イザナミの陰部の火傷が原因でイザナミは死んでします。
イザナギが怒ってカグツチを十拳剣で首を切り落として殺してしまします。
その時に、カグツチの血から多くの神々が産まれます。
武甕槌命(タケミカヅチ) は、カグツチの血から産まれた三神の一人
経津主命(ふつぬしのかみ)は
軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたために岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を産んだ。
天児屋根命(あめのこやねのみこと) は
岩戸隠れの際、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。
天孫降臨の際瓊瓊杵尊(ニニギ)に随伴し、古事記には中臣連の祖
比売神(ひめがみ) は、日本神話には登場しませんが、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)の妻という設定になっています。

中臣氏は藤原氏の祖としていますので。権力者の頂点に上り詰めた藤原氏が
勝手に自分の先祖を中臣氏として神代までつなげたのではないでしょうか。
出雲のスサノオと天皇家のアマテラスが兄弟で、春日大明神は、それより先に産まれた神々ですので、恐れ多い所もあります。

中臣氏は、蘇我氏、物部氏の神道、仏教の争いの際に、物部氏側の神道派でした。
時の権力者は、常に自分たちの先祖を神様にしたい様です。
中臣鎌足(藤原鎌足)は、中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に携り、その功績を認められて藤原朝臣姓を与えられます。
その子供(次男)が、藤原 不比等(ふじわら の ふひと)
何と竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人とされています。
710年、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まります。

倭国の最高権力者 一大率

2017-10-08 23:21:21 | 歴史
卑弥呼は、倭国の最高権力者ではない?に続くのですが
魏志倭人伝に紹介される 一大率
 女王国より以北には、特に一大率という役職を置いて諸国を検察させている。諸国はこの一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。伊都(いと)国に常駐している。その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである。
 魏(ぎ)の都・帯方(たいほう)郡・朝鮮半島の諸国などとの外交文書や贈り物は港で検査し、間違いが無い様にする。

と紹介されています。
時代:卑弥呼の時代、魏の時代の記事であるが、既に、その地位が定着している。
権力:諸国の国王を恐れる。大率と呼ばれる役人を諸国に送り込み、その総大将が一大率
駐在地:伊都国
仕事:交易の物品や書面を検査している。
これだけでは、いまいちスッキリしません。
倭国の時代をに分けてみます
1、紀元前から漢と交易を行っていたし時代(漢委奴国王の金印が贈られた時代)
2、倭国大乱の時代(推定 西暦100年~180年)大陸はまだ後漢の時代
3、卑弥呼が女王になった時代(180年~238年)三国志の時代
4、卑弥呼から親魏倭王の金印を受け取り亡くなるまで(魏の初代皇帝から248年まで)
魏志倭人伝を読む限りでは、卑弥呼の時代には、一大率は倭国に広大な権力を持っていた
但し、邪馬台国には、その役人は居なかった。
3 または 4の時代は間違いないです。
3の時代に一大率の制度はあった。
祈祷師卑弥呼が初代 魏の皇帝就任と同時に、貢物を贈っています。
何故か、一大率は、邪馬台国には権力を広げていません。
考えられる理由
・卑弥呼は、一大率の力を借りずに魏へタイミングよく貢物を贈る事は出来ない。
・本当は一大率が魏の皇帝へ貢物を贈りたかった。
・一大率が大陸の民族であるが、魏の民族ではない。
・卑弥呼と一大率は手を組んだ。
とは、考えられないでしょうか。
一大率は 3の時代から既に倭国にいました。
3の時代は、大陸が乱れている時代で朝鮮半島の支配を失っています。
大陸の役人が3の時代に倭国へ配置されることは考えられません。
一大率の時代の始まりは、1 または 2の時代です。
1の時代
奴国、伊都国など玄界灘湾岸の国が大陸と交易を行うために一大率の制度を受け入れた。
漢委奴国王の金印も一大率が裏で手配した。
2の時代
倭国大乱の時代に、漢民族が玄界灘の国へ侵入、伊都国に住み着き、一大率と名乗り権力を付けた。

もうひとつ
大率と云う漢字(率)の謎
魏の時代  渠帥、小帥、長帥、主帥、大帥 と 帥 の漢字を用いている。
百済では  達率、恩率、徳率、杆率、奈率 と 率 の漢字を使った役職があった。
百済は4世紀の時代ですので、卑弥呼より時代が後です。
帥 も 率 も スイ とも読めます。意味も「ひきいる」と云う意味で同じです。
4世紀は、倭国が朝鮮半島を支配していた時代でもあります。

大率とは
・奴国などが大陸と交易を行うために漢から送られてきた軍人、官僚である。
・漢委奴国王の金印は、大率が倭国を支配を強くするために奴国へ贈られた。
・漢が滅びて、大率の権力が弱くなり、倭国大乱が始まる。
・大率は、倭人ではないので倭国王にはなれない。
・卑弥呼を両立することで、新しい倭国統一を考えた。
・難升米、牛利らに命令を出して、魏の皇帝・曹叡に貢物を贈り、女王卑弥呼を紹介した。
・難升米、牛利は、一大率の家来であった。(卑弥呼や奴国などとは充てられた漢字が違う)
・伊都国の国王が一大率である、(伊都国の漢字も都と云う漢字を用いている)
・親魏倭王の金印も伊都国にあった。(魏が滅びた後は溶かされた可能性もある)
・卑弥呼の死後、魏も滅び、大率は百済の支配の乗り出す。新羅は出雲が支配する。
・後の筑紫氏は一大率の末裔である。(紫は中国の高位な役人の色である)
かなり古くから、玄界灘湾岸は大陸(漢)に支配されていたようです。
しかし、その一族も祖国を失います。
博多湾を中心に住み着き、倭人として生活をします。
しかし、その活動範囲は、あくまでも玄界灘であり、東方へ侵略する事はなかったようです。
ヤマト朝廷、出雲国、邪馬台国とは異なりますが、ひとつ一族の歴史がここにあったようです。
出雲国は、博多湾が一大率の支配下だった為、九州北部を避けて新羅経由で大陸と交易します。
関門海峡を渡り、大分や宮崎に移住した大陸人もいたようです。
彼らの技術は造船です。瀬戸内海航路で近畿との交易で栄えていきます。
近畿のヤマト朝廷と最も親しかったのは、出雲や筑紫ではなく、大分、宮崎の国(豊国)です。

第3の航路(弥生時代後期・古墳時代)で栄える出雲国

2017-09-24 22:02:00 | 歴史
卑弥呼は、倭国の最高権力者ではない?では、弥生時代の九州地方を説明しましたが。
山陰地方でも大陸との交易が始まります。
志倭人伝に紹介されてる投馬国(ズマ国)で、後の出雲国です。
大陸と交易を行う事で、大陸の史記に日本の記事が残りました。
交易が始まるのは、航路の発見があります。
帯方群(現在のピョンヤン)を出発し、朝鮮半島を半周、狗邪韓国に到着します。
1、狗邪韓国(現在のプサン)から壱岐、対馬を経由して松浦半島まで10日の航海が出来た
  漢の時代で紀元前の事でしょう。西暦57年に「漢委奴国王」の金印が送られています。
  多くの農耕具や青銅製品が玄界灘湾岸の国々に届き、国が発展しますが、同時に、国同士の争いも始まります。
  大陸から派遣された役人、一大率が伊都国にいて、諸国に監視役の役人を配置し権力の座に就きます。
2、狗邪韓国(現在のプサン)から直接博多湾へ沖ノ島、大島経由です。
  漢が滅んで三国志の時代です。
  魏蜀呉の争いて、船は大きくなり、沢山作られるようになります。
  その大きな船は朝鮮半島から博多湾までの航海が可能になります。
  船の上で火を焚いて灯りを作ります。夜も航海できるようになりました。
  伊都国の一大率を通りませんので、今で呼ぶなら密輸です。
  一大率は厳しく取り締まったでしょう。
3、朝鮮半島を更に回り、新羅から直接、山陰地方へ航海できるようになります。
  隠岐の島経由、出雲国です。
  卑弥呼と同じ時代です。230年頃の事です。
  帯方群(現在のピョンヤン)を出発し、商船半島を半周と少し、隠岐の島経由、出雲国に到着
  水路20日の投馬国が後の出雲国です。
  
九州北部は、漢の役人一大率の文化の流れ、倭国大乱で使われた銅矛文化圏
筑紫国が中心になり百済との友好関係になり交易を続けます。
出雲は、魏の時代の文化圏で、銅鐸を使った交易文化、つまり銅鐸文化圏が出来ます。
出雲国は山陰地方を統一したでしょう。更に朝鮮半島の新羅を支配し、鉄や青銅を有利な条件で入手します。
こうして、九州と山陰・近畿の銅鐸文化圏の二つができました。
西都原古墳の船形埴輪がある様に、日本でも船が作られています。
宮崎・大分~瀬戸内海~近畿の航路も発展したのがこの時代でしょう。
この時代に、自らの一族に名前を付ける習慣が出来たのではないでしょうか。
・筑紫(中国では紫は高貴な色、金印は紫の布に包まれていた)
・肥国(ヒは卑弥呼?日巫女)
・豊国(台与 トヨ)
・熊襲国(狗奴国 クナ)
・投馬国(ズマコク=>イズモコク)
ヤマト朝廷が発布したとされる氏姓制度ですが
既に一族が自らの名前を付けていた事になります。
この方法でもよくわからないのが ヤマト王権
古代中国が勝手につけた 倭 いう漢字を ヤマト と呼び
後に 和 の一文字で、やはり ヤマト(後に大和になります)
中国語の発音でも日本語の読み方でも ヤマト にはなりません。
手がかりは、邪馬台国の ヤマト しかないのです。
古代より呼ばれた ヤマト には、何らかの意味があると思いますが。
未だに、その理由には届きません。
同じように日本独特の読みに 天(テン)と書いて アマ と読みます。
天の国 アマノ国=>ヤマト国 はい如何でしょうか。
加えて、邪馬台国のヤマト と 大和朝廷のヤマト 同じ名前の国が九州と近畿の二か所に登場する理由も不可思議です。
古事記などの日本神話では、神武東征 と云う物語を挿入して、一族が九州から近畿へ移住する話になっています。

卑弥呼は、倭国の最高権力者ではない?

2017-09-24 14:53:15 | 歴史
魏志倭人伝に中に出てくる身分には
王・大夫・大人・下戸・ が出てきます。
その漢字を見るだけで、上位、下位の位がわかります。
倭国には、身分を呼ぶ名前や制度はまだなかったのでしょう。
大陸との交易を行う中で、中国の国がそれなりに意味のある漢字と呼び方をしています。
倭国大乱の前(西暦57年 親魏倭王の金印の時代)は100余国
卑弥呼の時代(240年位)は、30国ですので、単純に計算しても70ほどの一族が滅んだことになります。
実際は、倭国大乱の以前の大陸が知る倭国とは玄界灘周辺で、有明海側や周防灘方面は含まれていないでしょうから
九州北部で計算すれば2~300の国(民僕)が30へ、十分の一ほどまとまったでしょう。
倭国大乱の80年間ほどの出来事でしょう。
元々、博多湾の島々から内陸部までにも100国(一族)が住んでいて、それが伊都国、奴国、不弥国の三つにまとまったのでしょう。

それぞれの位の意味は
王・  一族の長です。この一族が滅びると国が無くなります。
大夫・ 王の周囲で働く身分でしょう(祈祷師や民に命令と伝える役人、軍人を束ねる役人、外交交渉など)
大人・ 地方で農民など管理して、農作物などを集めて王家へ届ける役目(地方の役人)
下戸・ 一般に水田を耕したい、戦争の時に集められる男たちなど
・ 周囲の国の王家を滅ぼして、その国で働いていた大人・下戸などが奴隷になった。

西暦180年位、大乱を納める為に祈祷師 卑弥呼が女王として両立されます。
邪馬台国には、邪馬台国国王がいます。
卑弥呼は祈祷師集団の長です。中国が呼んだ位では 大夫 でしょう。
その他にも、官に伊支馬、次(官)を弥馬升、その次を弥馬獲支、その次に奴佳の4人の役人もいます。
ここまでが、国単位の上下関係ですが、連合国としては
「女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。」ですので
奴国など玄界灘側の国王の上に、交易の為の役人がいて、その下に複数の役人(大率)諸国に配置されて
監視していました。一大率は、大陸から送り込まれた交易のための役人でしょう。
物々交換の際に、米の量や鉄・青銅の重さを測ったりしたことが始まりです。
実質的には鉄器などの武器欲しさに奴国などが経済的に中国に支配されてた事になります。
一大率は武器商人と云った所ですね。
漢の国が滅び、三国志時代に突入すると、一大率が倭国の一番の権力者になっています。
一大率は、有明海側の国々も含めて倭国統一を考えます。それが、女王卑弥呼の共立です。
卑弥呼を女王に推薦したのは、一大率でしょう。
更に
魏の国へ難升米(なしめ)等を送り、女王卑弥呼を紹介させて、親魏倭王の金印や銅鏡などを受け取ったのも
この一大率です。
難升米・(都市)牛利の位は、大夫ですので倭人ですが、一大率の部下同然です。

卑弥呼の死後は、古墳時代。民族独立の時代です。 
一大率の支配から解放された時代です。(まもなく魏も滅びます)
九州地方は、筑紫(旧奴国連合、一大率支配国)、豊国(旧台与の国)、肥国(旧卑弥呼の国)、熊襲国(旧狗奴国連合)の
4つに分かれた時代です。
大陸との交易は途切れますが、出雲国が朝鮮半島の新羅を支配する等、朝鮮との交易があり
発展したのが、筑紫と出雲です。
そして再度、倭国統一の機運が高まります。
邪馬台国との時と同様に、何故か無名の飛鳥地方のヤマト王権
ここにも、邪馬台国の時と同様に大陸の文化が影響したでしょう。
氏姓制度や漢字がその事を証明しています。

卑弥呼は、邪馬台国の女王なのか、倭国の女王なのか?

2017-09-17 15:45:05 | 歴史
魏志倭人伝に紹介される邪馬台国の女王 卑弥呼
・西暦100年頃から続いた倭国大乱
・諸国は、邪馬台国の女王 卑弥呼を立てる事で大乱が治まる。
・卑弥呼は1000人の侍女(巫女)と共に生活している。
・祈祷を行い、人前には出てこない。この時、既に高齢である。

疑問と謎解き
邪馬台国はいつ出来たのか(卑弥呼が女王となった時につくられたのか?)
どうも、古くからあった国の一つではないか
・魏志倭人伝に紹介される30国(玄界灘、九州北部湾岸の奴国など7国と有明海側の21国、邪馬台国、狗奴国)
・先に発展したのは、伊都国、奴国など大陸と交易を行った玄界灘側の国々
・遺跡は河川沿いの湾岸、盆地にある。川の水は生活に必要で、食料となる魚類は川魚が湾岸の生き物
・山中では人は生活できない。
・吉野ケ里遺跡にみられるような環濠集落であり、環濠内部では王家の館を祈祷師に館がある。
・他に倉があり、環濠の周囲に農耕矢狩猟を行う人が生活、武人が周りを守っている。
・高台に王家の墓があり、周囲に一般の人の墓が集められている。
・魏志倭人伝では、邪馬台国まで帯方群から12000里、水行7日陸行1月とあるが、至るまでの経路の記載がない。
結論 邪馬台国は、奴国(博多湾)から
関門海峡、周防灘と迂回したなら、大分、別府、延岡辺り
鳥栖、佐賀と筑紫川の盆地を南下したなら、佐賀、熊本、水俣辺り
邪馬台国は、吉野ケ里の様な環濠集落の国で、国王がいて、祈祷師 卑弥呼がいた。
倭の国々は、邪馬台国の国王ではなく、祈祷師 卑弥呼を女王とした。

卑弥呼の生活
・諸国は、卑弥呼の為に新しい館を作る。(山奥、或いは山間部で人の出入りが難しい地域)
・日田方面の盆地へ向かう可能性もある。
・卑弥呼は、邪馬台国の男王の集落を離れて、1人の弟と巫女たちとの集団生活を行う。
・諸国の祈祷を止めさせる。巫女を集める。
・王家に女性が生まれると卑弥呼の巫女にする約束も出来たであろう。
徐々に、倭の諸国が卑弥呼に従うようになる。
巫女が1000人になるまでは、数十年はかかったでしょう。
1000人の祈祷師軍団を支えるために、その何十倍もの人数が必要なら
七万戸の表現もあり得る。


卑弥呼の祈祷
・祈祷の様子、祈祷師卑弥呼は一般の人に見られてはいけない。
 多分、人に見られると、その能力が落ちると信じされていたのではないか。
・卑弥呼の元で過ごす巫女は全て処女である(或いは未婚、出産の経験がない)
・巫女にも位があり、高位の巫女が卑弥呼の祈祷を一緒に行い、次世代に卑弥呼になる。

金印「親魏倭王」贈られた卑弥呼(238年)
・難升米・(都市)牛利を送り込んだのは、卑弥呼ではなく、伊都国、奴国など策略(思い付き)
・難升米・(都市)牛利に倭国の王は、女王 卑弥呼と説明させた。
・卑弥呼は、不老不死の祈祷師と紹介した。
内外共に、倭国の代表が卑弥呼となりました。

狗奴国(卑弓弥呼)と戦う卑弥呼
・邪馬台国連合は南へ侵攻を始まる。狗奴国との対立が激しくなる。
・魏の高官が、お互いに争わない様に詔書と黄憧(黄色い旗)を卑弥呼に贈る。
・卑弥呼が、旗を持って人前に出てきてしまう。
・卑弥呼の祈祷の能力が無くなったと事になり、卑弥呼が亡くなる。

卑弥呼の死後の男王と台与(トヨ)
・卑弥呼の宮殿にいた男性が王となるが、諸国が納得せず。宮殿を攻める。
・卑弥呼の墓を作り、葬儀を行ったのは、この男王です。
・新しい宮殿を作り、邪馬台国の巫女 台与 が新しい祈祷師になる。
この時代に、
奴国、伊都国など玄界灘から有明海までを筑紫国(多分、筑後川が境目)
大分側を、豊(トヨ)国 と呼ぶようになった。
有明海側筑後川南、阿蘇山までが肥国(火の国)で(旧 邪馬台国があった)
阿蘇山より南、鹿児島までが後の熊曽国で(旧 狗奴国があった)ではないでしょうか。
筑紫(九州)の四つの顔
・奴国、伊都国など大陸文化連合
・旧邪馬台国(祈祷師が国王以上の高位)
・旧狗奴国(アンチ大陸文化の民族)
・台与(トヨ)の国(国の象徴としての神道の始まり)
の四つではないでしょうか
古墳時代は民族独立の時代ですが、
邪馬台国=>台与(トヨ)国 の思想に似た(但し男系血統を重視する)民族国家が
奈良の大和に発生します。これが大和朝廷です。
不思議にも、先祖の始まりが天照大神(女性)で
神武東征と云う九州からの移住を国の始まりにしています。
邪馬台国とヤマト朝廷は全く無縁ではないはずです。

卑弥呼の墓の真実

2017-08-27 13:28:54 | 歴史
卑弥呼の死後と狗奴国がベースです。
卑弥呼のお墓と云えば、奈良県桜井市の箸墓古墳が最有力候補ですが。
魏志倭人伝では
・大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)のは百余人であった。
しか情報がありません。
後は、現存する古墳で年代も加えて、該当しそうな古墳を探すことになります。

先の投稿で推測した「卑弥呼の死は突然であった」
大きな古墳を作るには、何年もかかり多くは、生前に横穴式の石室や石棺を準備しておきます。
卑弥呼の場合は、急きょ葬儀を行い、埋葬しお墓を作った事は間違いないでしょう。
当時のお墓は、吉野ケ里の王家の墓の様に
・高台に歴代の王を埋葬する。
・甕棺を使用している。
・王家の墓の手前に、儀式を行う祭壇がある。

卑弥呼の墓と葬儀を推理してみます。
・卑弥呼は多くの巫女(女性)たちと一緒に、内部の生活を秘密にした館の中で生活している。
・周囲は、攻撃から守るための砦の様であった。
・歴史の中では、多くの巫女が亡くなり葬儀を行いお墓群に埋葬されたでしょう。
・初代、2代目の卑弥呼が亡くなって、そのお墓もあるはずです。葬儀の方法も決まっていた。
・247年の卑弥呼の死は、今までとは異なる。
 攻撃による卑弥呼の死亡
 卑弥呼の死亡が公になり、誰もが知る所となる。
・突然であり、石棺の準備は出来ていない、お墓の場所も決められてない。

以上より
1、卑弥呼の遺体を探して、いったんは甕棺に入れられた。
2、急いで、墓を作る場所探しがはじまる。高台で平らな場所で樹木が生えていない。
3、高台の中央に穴を掘って、周囲を石で固めて石室を作る。
4、石室に遺体を伸ばして寝かせる、平らで大きな石で蓋をする。
5、周囲(中央から50歩の円形)に土を持って古墳の形(円錐形)に仕上げる。
6、手前に祭壇を作り葬儀の儀式を行った。ここまで二週間ほど
私たちが想像している大きな前方後円墳とは、だいぶ違っているはずです。
葬儀も、敵国の男王の時代ですので、ひそかに行われたでしょう。
千人もの犠牲者を出す争いの後に、台与が女王となり祈祷文化を再度行います。
この時代に、葬儀の後に時間を掛けて、周囲を前方後円墳の形に掘り下げ、濠を作り
祭壇に仕上げた可能性はあります。
周囲の王族が祈祷の帰りにでも寄ってお墓を見たでしょうから、後の豪族が作る古墳の模範となったでしょう。

・徇葬者(じゅんそう)のは百余人であった。の記述ですが
実際は、既に亡くなっていた巫女たちの近くに墓を作った。
或いは
狗奴国の攻撃で、卑弥呼以外にも多くの巫女が亡くなったので、卑弥呼の墓の近くに巫女たちを埋葬した。
の事実が「徇葬」という表現になったのではないでしょうか。

難升米はその後、どういたのでしょうか
卑弥呼一族の歴史でわかるのは、二代目の台与までです。
台与は若い女性ですので、どこかの豪族の元へ結婚してしまったかもしれません。
卑弥呼の墓も墓守を失い荒れていった出のでしょうか。
中国地方、近畿地方で大きな古墳が作られます。


箸墓古墳は年代的には近いですが、突貫工事で作った古墳としては大きすぎる様です。
最初の古墳となった卑弥呼の墓ですが
地面に穴を掘って遺体を納める竪穴式で周囲に土を盛った円錐状
他にも方形墳が多数並んでいる。
少し離れたところに四角い形に土を盛って祭壇の場所を作る。
墓守がいなくなった卑弥呼の墓は堀も埋まってしまい、樹木が生い茂り周囲の山々の景色の中に溶け込んでいる。
卑弥呼の墓を探すのは至難の業ですが、近くに卑弥呼が生活した集落があります。
女性1000人と周囲をまもる武人たちがいます。こちらがかなり大きな集落跡の遺跡です。
大きな集落跡、小さな円形墳、周囲にも墳が並んでいる。
こちらが手がかりです。

卑弥呼の死後と狗奴国

2017-08-27 11:05:05 | 歴史
魏志倭人伝を時代別に分けてみる。
魏志倭人伝は、
魏の時代は、かなり詳しく書かれていても
後漢末期 と 魏が滅びて西晋の時代の情報がかなり少ないです。

後漢末期は、朝鮮半島北部を公孫氏が支配し、国が大陸と交易が出来ない。
大陸も三国志の時代ですので、無理と云えばその通りです。

卑弥呼の末期の時代は
・邪馬台国の南側にある狗奴国(男王 卑弓弥呼)とは、もともと不和であった。
・245年、難升米に黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)をたまわり、(帯方)郡に付して(ことづけして)仮授せしめた。
・247年、難升米に拝仮し、檄(召集の文書、諭告する文書)をつくって、(攻めあうことのないよう)告諭した。
・247年(或いは248年)難升米の帰りを待つことなく卑弥呼は死んだ。
・あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。
・卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(年十三)をたてて王とした。国中はついに定まった。(張)政らは、檄をもって壱与を告諭した。
これだけでも良しとしなければならないのでしょうか、どうしても知りたい所
・卑弥呼の死の原因
・狗奴国とのその後の関係
この部分は想像で補います。
卑弥呼が一代であるなら、その年齢は100歳を超えているはず、いつなくなっても不思議ではありません。
自然死でしょうか?
・卑弥呼は、自分が無くなった後の後継者を決めていない。
・難升米も卑弥呼の死を想像することなく魏の国へ出発している。
・卑弥呼の死後に国が乱れる。
・多分に卑弥呼の墓(古墳)も死後に作られた。
卑弥呼の死が突然であったことを想像します。

そもそも
卑弥呼の館(邪馬台国)は九州北部の南側にあり、その南側に、敵国 狗奴国がある。
卑弥呼の館は、吉野ケ里の環濠集落の様に、防備の濠や壁の内側に祈祷の建物があり、周囲を大勢の武人で防御
難升米が応援を依頼する目的へ魏へ出発している。
卑弥呼も、一人ではない、180年頃、弟と一緒に女王になった卑弥呼と難升米を贈り、親魏倭王の金印を貰った卑弥呼は異なる人物である。
247年の亡くなった卑弥呼は、さほど老婆ではなかった。

卑弥呼の死の原因
狗奴国から攻撃を受けた。ではないでしょうか。
難升米はたびたび魏へ行き魏と友好関係である。
その難升米が再び、魏へ行っている。次は武器等を持って帰ってくる可能性がある。
狗奴国の男王(卑弓弥呼)は、卑弥呼の館の攻撃を決断した。
卑弥呼の館の攻撃で、秘密裏に行われていた卑弥呼の祈祷が多くの人に知られることとなった。
次の男王は、狗奴国の一族から選ばれた。
諸国は納得せず、九州北部 VS 九州南部(狗奴国)戦争となった。
勝利したのは球種北部(邪馬台国)であった、再度、祈祷の巫女 台与(13歳)を女王とすることとした。
九州全体がまとまった。

この推理が最もスッキリするのです。

魏志倭人伝を時代別に分けてみる。

2017-08-26 11:21:42 | 歴史
魏志倭人伝を魏の時代に絞り込んで読んでみる。についてもう少し詳しくしてみます。
魏志倭人伝の内容を時代別に分けてみます。
1、漢の時代
  秦の時代は、始皇帝の一代で終了します。漢の時代時代になります。
  57年に、倭国が後漢の初代皇帝 武皇帝に朝貢して、「漢委奴国王」金印が贈られます。
  大陸と倭国との交易が盛んにおこなわれ、青銅の農耕具などが日本に伝わります。
  魏志倭人伝に紹介される対馬国から末盧国、伊都国、奴国、不弥国が栄えたのがこの時代です。
  交易の中心は、玄界灘です。
  博多湾の奴国までは、帯方郡から水行十日陸行七日、10700里位でしょう。
  有明海側にも21国があった事実も漢の国に伝わっています。
  農耕や織物などの産業が発展した一方、下戸、大人と云う身分の差が出来ます。
  武力と権力が支配しる形は漢から伝わったのでしょう。
  実は、一時的にも漢字が使われた時代でもあったと思います。

2、倭国大乱と後漢の衰退(100年位から220年)
  西暦100年位から倭国大乱の時代となります。漢との交易も少なくなったでしょう。
  更に、後漢も末期には力を失い朝鮮半島北部を公孫氏が支配します(帯方郡が独立)
  倭国が大陸と交易が出来なくなります。
  238年 魏の曹操、公孫一族を倒して再び、倭国が大陸と交易が始まります。
  実は、100年以上間、大陸に日本の情報が伝わりません。
  魏志倭人伝にも、この時代の事が詳しく記載されていないのです。
  100年頃から80年程続いた倭国大乱、卑弥呼が推薦されて女王に倭国がまとまると表現されていますが
  その後、卑弥呼が親魏倭王の金印を受け取るまで詳しく記載されていないのです。
  この時代に卑弥呼独特の祈祷や占いの儀式が浸透したのでしょう。

3、238年、邪馬台国の卑弥呼が初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚等を与えられる。
  再び、大陸(魏)との交易が再開します。この時代の事実はかなり詳しく記載されています。
  魏志倭人伝と魏の時代に事実を記載していますので当たり前ですね。
  邪馬台国が帯方郡から12000里(水行10日陸行一月)が正しい邪馬台国の位置です。
  邪馬台国の人口も博多湾の奴国中心に2万戸、佐賀、福岡、熊本の有明海側で2万戸、大分(周防灘湾岸で2万戸)+少しです。
  既に、伊都国、奴国など名前はなく、邪馬台国ではないでしょうか。
  唯一、登場するのが狗奴国です。邪馬台国の南にあります。
  邪馬台国の東の海を1日(千里)渡ると島があり同じ人種が住んでいる。
  千里は、対馬と壱岐の間程です。九州で東が海で千里ほどで陸地にたどり着くと云えば大分(国東半島)になります。
  周囲5千里は、歩いて回ると50日程と考えます。やはり九州北部の領域でしょう。
  しかし、卑弥呼が祈祷を行った館、卑弥呼の墓の場所が特定できません。
  実は、249年に司馬懿はクーデターを起こし、曹爽一派を誅滅し(高平陵の変)、魏の国から西晋の時代に変わります。
  247年に、狗奴国の争いで苦戦する卑弥呼が紹介されていて、魏へ応援を依頼しています。
  残念ながら、魏の国自体が乱れていて、それ所ではありませんでした。
  まもなく、卑弥呼が亡くなり、男王がたつが国がまとまらず、女性15歳の台与(トヨ)女王となる。
  台与が後に晋や宋に朝貢していますので、台与の国がしばらく続いたようです。
  (15歳で女王ですので、2~30年位は続いたのではないでしょうか)

4、魏が滅亡、西晋(247年)~280年(呉の滅亡)、297年(陳寿の没年)の間)に書かれ分かった事実
  陳寿が完成させたのですから、本人が知りえた事実が必ず書き加えてあるはずです。
  台与の時代ですが、その事には一切触れていません。
  気になるのが、投馬国(ズマ国)、水行20日かかる場所にあります。
  奴国まで水行10日で末盧国(松浦半)陸行6日、不弥国なら陸行7日になります。
  卑弥呼の邪馬台国(卑弥呼の都)まで水行10日(末盧国)、陸行一月(約27日)ですので
  末盧国が陸路の始まりだったのが、水行20日で行ける国の登場です。
  全く新しい航路で新しい国が大陸と交易を始めています。
  投馬国(ズマ国)は出雲(イズモ)ではないでしょうか。
  卑弥呼の死後、台与は何度か贈り物を大陸に贈っていますが、なしのつぶてです。
  出雲は何もしていません。(新羅を征服していたでしょう)
  大陸から見て、九州と出雲のどちらが大きいのか判断が出来なかった時代ではないでしょうか。

四つの時代を一つの史記にまとめたのが魏志倭人伝です。
絶対に正しい記載
・帯方郡の太守劉夏に難升米(なしめ)牛利(ごり)を贈り、男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じた。
・親魏倭王の帰任と絳地の織物五匹・絳地の粟十張・絳50匹・紺青十匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹おのおの五十斤
 つまり沢山もらった。
・集会・坐起(立ち居ふるまい)には、父子や男女による区別がない。
・酒をたしなむ。大人の敬をするところをみると、ただ手をうって、ひざまずいて礼拝する。
・その法を犯すや、軽いものはその妻子を没し、重いものはその家、家柄を滅ぼし、親族におよぼす。 
身分の制度があり、主従関係が成立している。大陸から統治する為の方法を学んだのでしょうか。
意外と漢字も使っていたのではないでしょうか。
後には、古墳時代になります。部族の長が多数存在します。
時代が戻ってしまう感じですね。
・弥弥(耳)副(官)を弥弥那利等の他に(耳成伊支馬(いきま)、弥馬升(みまと)など国ごとの役人
・難升米(なしめ)・都市牛利(としごり)は、役人なのか武人なのか
・祈祷を行う女王 卑弥呼 と 世話をする弟
・一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。
奴国、伊都国の時代には、それぞれの国王がいて官(役人)に仕事を任せます。
誰が始めたのかは不明ですが
王を女王 卑弥呼 1人にします。(大王ですね)
それぞれの国に役人を派遣します、これが大率で、地方の役人をまとめるのが一大率だったのではないでしょうか。
中央政権の始まりです。朝鮮半島や大陸を参考にしています。大率と云う役人の呼名も大陸から伝わっています。
西暦0年から250年(卑弥呼の時代が終わるまで)の250年、文字がありませんし、寿命も今よりかなり短いです。
世代の数(御先祖様)は多いです。祈祷師 卑弥呼は諸国の王の先祖などの歴史を記憶したのでしょう。
その記憶の伝承が祈祷師 卑弥呼の強みでした。
当時の巫女の役割は、先祖の歴史を覚えて、現在の歴史を加えて、次世代の巫女に伝承する役割があったのではないか。
漢委奴国王の金印の時代 奴国連合で中央政権化
倭国大乱        部族対立で、政権分散化
卑弥呼の登場      邪馬台国と名乗り、再度、中央政権となる。
古墳時代        大きな国ごとに分かれた、民族主義(?)分散国家
ヤマト朝廷       西日本を一つにまとめる中央政権国家造り
と中央政権つくりと、分断の繰り返しをしながら、その領域が広くなりました。

魏志倭人伝を魏の時代に絞り込んで読んでみる。

2017-08-20 21:16:52 | 歴史
倭国と邪馬台国の続きです。
魏志倭人伝は、三世紀末に西晋の陳寿によって完成しています。

第一章 倭の国々
第二章 倭の風俗
第三章 政治と外交
で構成されています。
実は、後漢書の内容を引用した部分と
実際に、魏の国と交易した時代と
陳寿の時代に知りえた情報が重なり合っています。

魏志倭人伝を3世紀中ごろの魏の時代に絞り込んで読んでみましょう。
・後漢書から引用した部分
 帯方郡から末盧国を経由した奴国、不弥国まで国々と内陸側にあった21国
・鎮守の時代に情報
 帯方郡から水行二十日かかる投馬国
です。多くは、第一章の部分です。その部分を削除すると
第三章 政治と外交 は魏の時代と思われます。

ヤマト(邪馬台)国は
・帯方郡から水行十日、陸行一月である。博多湾まで水行十日、陸行七日である。
・帯方郡から一万二千里である。博多湾まで一万700里である。
・ヤマト国の周囲は五千里である。
・伊支馬(いきま)、弥馬升(みまと)、弥馬獲支(みまわき)、奴佳(なかて)の交易の役人がいる。
・人口は七万戸ばかりである。
・東に千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。

三世紀中ごろ卑弥呼の時代の日本は
・魏の皇帝へ貢物を贈り、自らの国の名前を ヤマト と伝えた。(日本が始めて自国の名前を主張しました)
・ヤマトの国土は、九州北部全域(東は国東半島の大分辺りまで)
・外交は4人の役人が実権を握っていた。
・卑弥呼の宮殿の場所は、魏の国にも明かさなかった。
・国内のいても、知る者は少ない。
・ヒミコは、ヤマト国の権力者ではなく、国内統一のシンボルであった。
・ヤマトには、女性が行う祈祷(占い)で重要な判断を決めていた。(その方が多くの賛成が得られた)

魏の国への朝貢は、
いきま、みまと、みまわき、なかて の役人が考え付いた。
難升米(なしめ)・都市牛利(としごり)も博多湾の交易の役人
「親魏倭王」の金印は卑弥呼の元へは届いていない。(やはり博多湾にある)

日本史神話に出てくる九州
4.筑紫島(つくしのしま):九州 胴体が1つで、顔が4つある。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国

博多湾の交易部門が後の筑紫国
ヒミコ、トヨの国が後の豊国、肥国
ヤマトの敵国 狗奴国は、後の熊曽国(阿蘇山を境に南側、鹿児島まで)

ヤマトは九州北部全域の国の名前である。
ヒミコの宮殿は、玄界灘から離れた、福岡と大分の境(日田辺り)或いは 国東半島ではないでしょうか。

倭国と邪馬台国

2017-08-20 18:47:43 | 歴史
弥生時代を勘違いしない為にも、基本的な事で
倭国 と 邪馬台国 について考えてみます。
当時、日本に漢字がありません(文字もないです)
いずれも大陸の国(中国)が勝手につけた名前と漢字です。

倭国と呼ばれるようになった時代
・秦の始皇帝の時代
 徐福が東に島国があり、「不老不死の仙人が住み、不老不死の薬がある」と始皇帝に話をもちかけ
 3000人の若い男女と複数の船団を準備してもらい、済州島を経由して、日本に渡来しています。
 まだ、日本については、あまり知られていない、倭国と呼び名もありません。
 徐福が戻ってこなかった事より、東の大海は大蛇が住み渡って行く事は難しいと信じられています。
・漢の時代(西暦57年)
 「後漢書」に光武帝(後漢王朝の初代皇帝)が奴国からの朝賀使へ賜った金印が紹介されている。
 実際に、博多湾の志賀島で、「漢委奴国王」と刻印された純金の印が発見された。
 この時代には、既に大陸と交易を行っていたようです。
 都の洛陽へ奴国の使いが行くのは、この時が初めてではないか。
  朝鮮半島の南側(玄界灘湾岸)の国を「倭国」と名付けた。
 倭国には、魏志倭人伝に紹介される対馬国、一支国から奴国、不弥国の地域であった。
 奴国まで道程、国名が詳しく紹介されている。
 国名は、倭人の発音に応じて漢が漢字をあてた。もともと国と云う言葉は無かった。

 海路(帯方郡から末盧国まで)1万里、陸路(奴国まで600里、不弥国まで+100里)水行10日陸行7日と思われる。
 伊都国が交易の窓口であった。漢の窓口が帯方郡である様に、お互いの交易は帯方郡<=>伊都国で行われた。
 大陸の役人が伊都国より南東(奴国など)に実際には来ていない。
 交易を通じて知りえた情報、新たに21の国が詳記されている。
 場所は不明ですが、対蘇国(とすこく)、蘇奴国(さがなこく)、呼邑国(おぎこく)華奴蘇奴国(かなさきなこく)等の地名から
 長崎から有明海湾岸の佐賀、熊本などが倭国に含まれるようになっています。
 金印を手にした奴国が、西方(長崎)、南方(佐賀、熊本)東方(北九州市)へ領土拡大をはかった。

・倭国大乱の時代(西暦100年から180年位)
 大乱がどの国との争いであったかは不明ですが、遺跡などから矢が刺さった遺体、首がない遺体が発見されている。
 九州北部(玄界灘湾岸から有明海湾岸)の地域で起きたとされています。
 金印を手にした奴国が、西方(長崎)、南方(佐賀、熊本)東方(北九州市)へ領土拡大をはかった。
 吉野ケ里など環濠集落の環濠が大きくなり、武装を強化しています。
 但し、2世紀後半ごろから大陸との交易が途絶える。大陸が知る倭国の情報はここまでとなる。
 後漢の皇帝は、邪馬台国を知らない。

邪馬台国が紹介された魏志倭人伝
・後漢が滅亡して、魏蜀呉の三国志の時代になります。
 魏志公孫淵伝では、238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、
 大陸の東北部の魏が楽浪郡(現在の平壌)と帯方郡(現在のソウル)を設置して占拠する。
・魏の初代皇帝にいち早く貢物を贈った、邪馬台国の女王 卑弥呼
 238年(公孫氏政権が崩壊の年)に、卑弥呼が、魏の初代皇帝曹叡に男女奴隷(男4人、女6人)と班布二匹二丈を贈る。
 その見返りに、鏡百枚などの他「親魏倭王」の金印が渡されています。
 邪馬台国の女王 卑弥呼が倭国の代表となります。
・邪馬台国を紹介した二人の役人(或いは武人)難升米(なしめ)・都市牛利(としごり)
二人が紹介した邪馬台国の情報
 国名 ヤマト 或いは アマト と発音(邪馬台 と漢字が充てられる)
 女王 ヒミコ と発音 (卑弥呼と漢字が充てられる)
 倭国が卑弥呼を女王とすることで大乱がおさまった。(多分、大袈裟です)
 人口 7万戸(漢の時代に奴国が2万戸、邪馬台国は九州北部全体であり、人口も増えていた)
 邪馬台国までの距離(帯方郡から)12千里、水行10日陸行一月
・卑弥呼について
 卑弥呼を見たものは少ない(まだ争いは続いていた。卑弥呼の宮殿の場所は明らかに出来ない)
 女性千人が身の回りの世話をしている。(多分、これも大げさ)
その後に邪馬台国と交易して知りえた事実
・南側の国 狗奴国(卑弓弥呼)との対立
・247年 卑弥呼の死
・男王、台与(トヨ)について
・邪馬台国の周囲の国
 東に千余里(船で1日)を渡海すると、また国がある。みな倭種である。(山口、或いは愛媛、高知など四国)
 女王(国)を去ること南へ四千余里に侏儒国(小人の国)がある。(陸路であれば鹿児島、海路であれば沖縄辺り?)


邪馬台国の情報は疑わしい箇所
・180年に80年間続いた大乱が、卑弥呼が女王となり収まる。卑弥呼は既に高齢(長大)
 247年に卑弥呼死亡なので、女王在籍67年になる。当時では考えられない。

魏志倭人伝の事実
魏志倭人伝は、魏が滅亡し西晋の陳寿によって3世紀末に完成しています。
実は、三つの時代情報が重なってしまっています。
1、後漢書の記述
  2世紀前半までの事実が後漢書にあり、後漢書をベースに新しく知りえた情報を書き加えています。
2、238年、卑弥呼が、魏の初代皇帝曹叡に貢物を贈り「親魏倭王」の金印を贈られる
  247年、卑弥呼が亡くなり、男王が立つが、国まとまらず、台与(トヨ)が女王となる。
3、魏が滅びた後、陳寿の時代、台与(トヨ)が貢物を贈る
  帯方郡から水行20日の場所に投馬国があった。

三世紀前半、大陸との交流が再開して、突如登場する 邪馬台国 と 女王 卑弥呼
魏志倭人伝の後漢書の記述の部分を省いて読み解くと事実が浮かび上がってきます。