
前九年の役に続いて、永保3年より寛治元年(1083~1087)に奥羽の清原家衡・武衡とその一族の真衡との間に戦乱が起こり、朝廷は陸奥守八幡太郎源義家に平定させた。これが俗に云う後三年の役である。
後三年の役に義家の家臣、鎌倉権五郎景政は金沢柵の攻防戦で敵に右目を射られながら、その敵を射殺し三浦為嗣が景政の面を踏んで矢を抜こうとすると、その無礼を怒って自ら目玉もろとも引き抜いたという豪の者であった。生没年不詳。
時代は降って南北朝時代に至り、正平17年(1362)7月、南朝方に帰順した細川清氏に対し、管領細川頼之は香川氏らを従え討伐に向かった。白峰合戦で功績のあった香川氏は西讃3郡を賜り、天霧山に牙城を築き多度津の本台山(今の桃陵公園)に居館を構え、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐までこの地方を支配し、祖先鎌倉権五郎景政を氏神としてこの地に祀った。
当時は、鳥居・参道・本殿と鎌倉町一帯の広大な境内であった。因みに市内中村町宮東にも権五郎さんが祀られ、片目の魚が棲んでいると伝えられる。
一部、讃州菴により補筆あり。
細川頼之の家臣で乃木備前次郎が白峰合戦で討ち死にしています。旧陸軍十一師団初代師団長乃木希典大将の先祖です。
関連記事:鎌倉町 その2参照。
関連記事:鷺井神社と戦国大名香川氏【善通寺市吉原町】参照。
平成22年4月撮影。
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分かり易く書かれていて勉強になります。ありがとうございます。
遠い神奈川の地と結ばれている縁を感じます。
これからもよろしくご教示下さい。
讃岐香川氏は、西讃守護代として、細川管領家をよく援け「細川四天王」の一人です。
細川氏没落後は、西讃地区で半ば独立し、阿波三好氏の侵攻を防いだ。その後、毛利・織田・長宗我部と渡り歩いたが、秀吉による四国平定で土佐に追われた。