デーヴィット・アイクのこの文章は、
ある意味で、一つの悟りである!!
良く読んでほしい。
良く読んで、得心いけば、怖れなんか無くなる!!
このレターを読んで、溜飲が下がる人は投稿者だけであろうか? そんなことはないはずだ。そうでないことを祈りたい。
豚(いつの間にか新型に変更されたが...笑)インフルエンザに、乱痴気騒ぎをしている多数の人もこれを読めば、きっと、落ち着くはずだ。我々は、アイクの言うように踊らされている。
踊る人にも、理由がある。自分の本性を忘れて、奴隷化しているからに他ならない。
アイク程でなくても、自分に誇りと自信を持とう。生命の偉大さに、永遠性に自信を持とう。誰にも支配されない本質に気づこう。人間は、大いなる意
識に直接繋がった存在なのである。誰かに繋げて貰ったのでもない。始めから繋がった存在なのであり、その関係は誰にも邪魔をされることはない。但し、邪魔をされたい人は別なのだ!!
【転載開始】
デーヴィッド・アイク ニューズレター、2009年5月3日号
「なぜ僕たちはこんな風に生きているの?」…
… 「毎日がその繰り返し」
みなさん、こんにちは
今週は私の誕生日で35歳になった。私はいつも35歳で、35歳が好きだ。他にもっといい何かが出てこない限り35歳のままでよいと思う。[訳注:アイクの誕生日は1952年4月29日]
誰もが私を57歳だと言っていた。新聞の「今日の誕生日」欄にそう書いてあったし、いくつかのラジオ番組でも「陰謀論者デーヴィッド・アイクが57歳です。」とか「元BBCの司会者で、その後おかしくなってしまったデーヴィッド・アイクが今日57歳になりました。」などと言っていた。
私は57歳じゃない。仮に年齢などという数字が必要だとすれば私は35だ。もちろんそんなものは必要ない。でもひとつ数を教えるとしたら、それはプログラムされた慣習ではなく、自分が選んだものだろう。だから私は35歳だ。
「まさか、35歳のわけない。髪は白いし、シワだらけ、それに、昔ビートルズの最初のヒット曲を買ったって言ってたでしょう。少なくとも50に違いない。」
悪 いが、私は永遠に35歳で、それでなじんでいる。あなたが自分のことを”80歳”だと思っているなら、私はあなたの為に抗議するだろう、違いますか。人生 はがっかりするものでもある。年をとることを誇らしく思う人もいれば、不名誉だと思う人もいる。少し年をとることを別にすれば、私の気持ちは後者の人々と同じだ。年をとるのはうんざりで、ただ不名誉なことと思うだろう。ああすっきりした。
35歳にしては悪くないでしょ?
人々がこれほど年齢に取り憑かれているのは面白い。多くの人が最初の21年間は歳より上に見えるように努め、その後は若く見えるように努力する。それからクイズ番組に高齢者のご婦人が登場することがある。
「おいつくですか?」司会者が言う。
「今度の誕生日で88になります。」という答えが返ってくる。
私はいつもそれに続く反応が実に奇妙で困惑するものだと思う。観客は自然と割れるように喝采する。なぜ?彼女が死なないでその歳になったから?それはどういう種類の達成なのだろう?そうなっただけだ。自殺するとか何か犯すことなく何かやったのだろうか?
「生命が奪われることなく88歳にもなったことは素晴らしいことじゃないか、ブラボー…」
彼 女がもし人生でかなりいいことをしたとか、88歳はこうあるべきという決まりに従って生きたり、行動することを拒否しているというなら、手をたたいて「よ くやった」という価値もある。ところが88でただ生きているだけだって?ウ~ありえない?そんなことを言うのは多分私だけだ。私は好きな時に変人になれる。そして常にそうありたい。
他にも例がある。「その歳じゃそれは出来ない」だ。えっ本当?私を見て欲しい。両親が自分の子供に、あれやこれをするのにはまだ幼すぎると言い、後に子供が両親にあれやこれをするには年を取りすぎだと言っているのを耳にする。
年齢は多くの基準にされているプログラムの1つに過ぎない。そしてこのプログラムの異なる地点のソフトウェアを持つ人々は、そのプログラム上のステージではどのように生き、ふるまうべきか言われることで別のプログラム上にとどまるのだ。そのように回っている。
もう60だ。人生はおしまい。マニュアルにそう書いてある。
冷静になり、一歩下がって我々が「人生」呼ぶものを観察すればするほど、我々はコンピュータプログラムと同等のものの中で生きていることがより明白になる。
我々は自分の独自性を諦めてそれに譲り渡す必要はない。しかし悲しいことに、ほとんどの人がそうしている。今週私のウェブサイトにひとつの歌が投稿されていたが、そのことを切実に言い尽くしている。聞いてみて欲しい。(Brett Dennen-Ain’t No Reason)
我々はどうしてこんな風に生きているのだろう?毎日そうしているのだろう?我々が囚われる必要のないプログラムに囚われていているからだ。歌は次のように始まる。
物事がこんな風なのに理由なんかない。
物事はそうやってずっと変わらない。そしてこの先もそのままだろう。
なぜ僕たちがこんな風に生きているか、僕には説明できない。毎日がその繰り返しだ。
実 は説明できるのだ。本当の、永遠の”自分”である我々の「大いなる意識」は、我々が「マインド」と呼ぶ、あるいは私が「知的マインド」と呼ぶ経路や橋渡し 役(インターフェイス)を通してこの現実を経験する。なぜなら我々はみな同じ1つのものに繋がっているからだ。我々はその異なる表現にすぎない。それは同じインターネットに接続された複数のコンピュータが、別のウェブサイトを開いているようなものだ。
このことを次のように考えて欲しい。インターネットに接続したいのにできないとしたら、ワールド・ワイド・ウェブ(www)を体験することが可能なルートやインターフェイスが必要になる。このインターフェイスをコンピュータと呼んでいる。そして「知的マインド」は同じことを限りなくより高度な規模で行っている。
身体と「知的マインド」は本質的に1つのユニットであり、これらがこのわずかな周波数の範囲であるこの「世界」を経験するための乗り物を提供することで「大いなる意識」に仕えるなら、すべては良好だ。しかし我々が自分を「知的マインド」だと考えるようになると奴隷状態が始まる。
そしてもちろん、ほとんどの人々がそう”考えて”いる。「考える」の一語に尽きる。なぜなら我々は自分自身を自分の思考と同一化し、思考が自己を支配することを許すからだ。フランスの哲学者ルネ・デカルトは自己をこう定義している。「我思う、ゆえに我あり」。
し かしデカルトは我々がマインド、あるいは「知的マインド」であるという幻想をもたらした。そうではない。我々は「大いなる意識」だ。それは思考しない。そ れは知っている。そして我々に直感を通して話しかける(我々は独り言をいう)。「我知る、ゆえに我あり」がより正確な言い方であり、「我あり、ゆえに我あり」だと尚いい。
頭の中で際限なくおしゃべりをして考えるのが「知的マインド」だ。そして自分が「知的マインド」だと考えているなら、我々にそう言っているのは「知的マインド」だ。あまりに多くの知覚レベルでこの現実が操作されたおかげで、「知的マインド」は、その中で独り言をいう閉じた回路になってしまった。それは自分の尾を飲み込んでいる蛇のようにグルグル回り続ける。
一 旦この状態に陥ると、我々のすべての観点、注意力は「知的マインド」の世界だけを知覚するようになる。そして我々は「大いなる意識」の欠落したマインドで できた世界に住む、マインドでできた人間になる。世界規模の陰謀の中核と基盤はすべて、人々を「知的マインド」に留め、よってより広い意味での無意識状態に留めるように設計されている。
→2に続く