数学のヒント

初等数学の復習と脳の活性化

なぜ黄金比と名付けたか

2013-05-31 00:24:19 | 日記
黄金比という縦と横の比が1:1.618なる矩形。
数学の読み聞かせ本に必ずといっていいほど掲載される。
いわく古代ギリシャ人は黄金比が美しい矩形であることを知っていて芸術作品にはこの比率を多用した、と。
個人差はあるであろうが、ニッポンの国旗のように1:1.5が美しいと感じるのが大方の見方であろう。
実際に1:1.5の比率の国旗は100カ国を超え、圧倒的に多いのだそうな。
それでも数学者は“黄金”比にこだわる。
それで高校生の教科書「数B」を見ていたら、なるほど彼らが大事にして意味を持たせたい比率らしいことがわかった。
カギはフィボナッチ数列。
an = an-1 + an-2 という数列で、a1=1,a2=1の場合をいうのだと。
それで隣り合う2つの項の比が、nが大きくなるにつれてなんと黄金比に近づいてくるのだそうな。
そんなオメデタイ数字だから古代の人々は黄金のようだといって“Golden Ratio”と名付けたに違いない。
黄金だといって強制されるほど迷惑なものはない。
だから黄金比は嫌いだ。

角度がもたらす美しさ

2013-05-30 11:37:47 | 日記

(五箇山 合掌造り)

(遠野 曲がりや)

世の中の建築物は必ず角度があり、建築家はそこに美を求める。
しかし美を求めようとしたのではなく生活に根ざして作られた建築物は、その暮らしを思うとその角度に実に愛着が湧いてくる。
昨年五箇山と白川郷の合掌造り、今年は遠野の南部曲がりやを見た。
屋根裏を利用した養蚕業、土間を隔てた厩、囲炉裏のすすで黒光りした床壁や柱や梁。
閉ざされた空間、そして暗がりの空間を思うとき、日本の家屋の誰にも邪魔されぬ暖かい雰囲気が見えてくる。
そしてなんといっても屋根が作り出す角度にはほれぼれした。
60度ではない微妙なゆるさをもった茅葺き屋根、一方曲がりやではエル字型家屋と屋根の傾斜が織り成す屋根の美しさ。

このあいだの黄金比ではないが美しさは数学では説明できない。
でも建築家はそうと知りつつ数学を駆使した建築設計で私たちを楽しませてくれるのだろう。
なぜこの角度になったのかをテーマにして建築物を見て回るのも楽しいことに気がついた。

原発の時代の終わりが始まっている

2013-05-29 00:26:26 | 日記
原子力を会社の一事業に育てようと小さい組織ながらも原子力設備の設計や工事を受注し安全性や信頼性の向上に身を削って邁進してきた。
定年退職後の余生は多少の思い入れがある数学でも楽しんで過ごそうと思っていた。
そこへ2011年3月11日の悪夢。
今までの長いあいだ生活のためとはいえ原発を推進した死の商人の自民党政府に協力してきた自分を恥じた。
去年の夏にはパブリックコメントに意見を提出した結果、圧倒的多数の原発廃止コメントで民主党政府も動きかけた。
そして自民党への政権交代。
原発廃止はどこ吹く風に変わり、国内原発再稼動や原発輸出を恥じらいもなく始めようとしている。

さて地震国日本の原発は津波で非常用発電機が冠水してしまえば発電所全体が停電し冷却水ポンプを回すこともできなくなり炉心溶融につながることを覚悟しなければならない、とまさに福一事故が起こりうることを1996年に述べていた方がいる。
藤田祐幸氏(1942-)である。
発言の著書は「脱原発のエネルギー計画」高文研。
そして幾つかの理由をあげて「原発の時代の終わりが始まっている」、と述べていた。
日本、そして世界はたったの数十年間ではあるが甘い夢をみてきた。
もう夢から覚めなければならない。
今原発をやめても膨大な未処理の放射性廃棄物が何十万年という気の遠くなるような先々まで残る。
それを子孫は常時監視し続けなければならない。
それでも今原発を廃止すればキズは浅くて済む。
バクチ以外の何者でもない金融政策と財政政策、そして実体の無い成長戦略。
失政を繰り返す自民党が後世の子孫に感謝されるとしたら、自ら引き起こした原子力発電を即刻廃止することしかない。
廃止することで代替エネルギー計画が心配な政権与党各位には是非良識の人藤田祐幸氏の著作を読まれることをお薦めする。

J-PARCの被ばく事故と、安全防護のロジック

2013-05-28 00:48:14 | 日記
J-PARCは原子力科学研究所(旧原研)の敷地にあって数年前にこけら落としがあった施設で、とてつもなくデカい加速器などがある。
今回の該当施設はハドロン実験施設といってビームラインを有するらしい。
似たような施設が関西のほうにもあったような気がする。(SPring-8だったかな)
加速させるために強烈な電磁石を使い、その発熱を冷すために冷却系が存在する。もちろん被ばく低減のために分厚い鉄の遮へい体で囲まれている。
研究するための施設であるが大半が安全性を確保することが条件の実験研究設備である。
だから安全防護のためのロジックは微に入り細に入りで、いわゆる数学でいう論理学の世界がしっかりと構築されている。
よって一般には彼らは安全第一で研究していると思われがちだ。
しかし科学に対して広い知識を有する集団であるから、これなら安全とか、ここまでなら安全という個人の判断があって、本来なら運転を中止して異常事象を解明してから再運転するところを、警報を無視したり、インターロックを解除して運転したりということが行われかねない。
最近の原子力施設は自動運転を多く採用するが、研究施設でこれを採用すると研究ができなくなるケースもでてくる。
だからホールドポイントを設けて運転継続の可否を人為的に判断することで運転継続の自由度を高めている。
彼らを弁護すれば、そんななかで今回は悪い方向に事が進んでしまったということであろう。
数十年前とは異なり研究施設も巨大化していて、安全に運転するためにはチームワークが大事であり所員がもっとナーバスになって慎重に運転してくれないと困る。
せっかくの安全防護ロジックが泣いている。
たまたま加速器であり閉空間での事象だったので比較的小さな事故ですんだが、人為ミスの程度はチェルノブイリ事故に匹敵するくらいの劣悪なミスだったような気がする。
一方で国がどのような安全審査をして規制していたのか、一般人としては興味がある。
報道は緒についたばかりでまだ要領を得ない表現が多い。
“装置の誤作動が原因”で片付けられては国民はたまらない。
原子力報道ではいつも頼りになる朝日新聞社には是非今回の事故を掘り下げて、事実や原因を国民に知らしめてほしいと願う。

放射性廃棄物の半減期について思う

2013-05-27 11:46:56 | 日記
放射性物質の放射能は壊変を繰り返していくことで徐々に減っていくという。
半減期という期間が過ぎてまた半減期がくると、残る放射能は半分の半分に減るという。
そうやって徐々に放射能は少なくなる。
放射能を1/1000程度にしようと思うと、半減期の2倍で1/4、3倍で1/8・・・といって半減期の10倍の期間を経て約1/1000となる。
でも放射性廃棄物の放射能が1/1000になったからといって人体に対して安全とはならない。
だから人間世界から遠く離れたところに持って行き、遮へい体で囲んだりして保管する。
でも地震や地殻変動が起きればそれらの苦労は水の泡になり安全が損なわれる可能性がある。
つまり現実の放射性廃棄物の保管の方式に絶対安全という言葉は存在しない。
放射性廃棄物は絶対に安全な保管がなされなければならないのに現実には不可能なのである。

可能であれば首相官邸や国会議事堂周辺に穴でも掘って貯蔵されてもよいはずだ。
それなのに貯蔵されないのは安全ではないことを首相も国会議員も知っていて、我が身が被ばくすることに耐えられないからだ。
そのように放射性廃棄物の行く末を考えもせずに原発を導入した人々の顔ってどんな顔なのだろう。
日本の将来を考えたにしては浅薄な考え方だった。
人間としての世界観や倫理観などかけらも無い政治家が主導して原発を導入してしまったわけだ。

一度時計の針を60年前に戻して、世界のエネルギー供給はいかにあるべきかを、心無い政治家を抜きにして議論をしてほしいものだ。
(参考図書:原発はなぜこわいか,天笠啓祐(1947-),1980年,高校生文化研究会)

数学の考える力アップは可能か

2013-05-26 00:37:25 | 日記
中学校数学の教科書に「考える力アップ」というコーナーがある。
受験の数学から離れて、いろいろな角度から考えることの面白さを植えつけようとしているようだ。
何故こんなコーナーが淘汰されずに残っているのかと考えるに、数学の力をつけるには考える力を備えることが重要であると文部科学省が考えているに違いあるまい。
なんだかご隠居の脳みその活性化の極意と似たところがある。
つまり考える力を日々アップさせるようたゆまず努力することで学力がアップするし、一方で脳みその活性化も促進できるわけだ。

考える力とは兎に角「頭をひねって考えること」、それが力をつけることになる。
例えば会話で何を話すのか考える。
ドラマや物語を見聞きして、今後の展開を考える。
将棋で2手先、3手先を考える。
数学でいえば難問を解くために考えて、ありとあらゆるヒラメキを大切にする。
現役の社会人はそこそこ考える鍛錬はしていると思うが、学生や還暦を過ぎたご隠居はその鍛錬に目をそむけているのが偽らざるところではないだろうか。
とすると「数学を楽しむ」というのは所詮無理があるように思う。
数学の考える力アップとは頭をいじめ頭をひねることで結局はヒラメキ力の鍛錬、ということになるだろうか。
今から考える力アップは難しいかもしれないが、せめて退化させることなく現状維持くらいにはしたいものだ。

放送大学「初歩からの数学」を見た

2013-05-25 00:07:36 | 日記
テレビをカチャカチャしてたらいきなり数学の高校講座みたいなのが飛び込んできた。
放送大学、数学基礎、初歩からの数学、となっていて、おっ初学者にも親しめるかなと思い、しばらくチャンネルをそのままにした。
教科書を開かずとも目の前に集合に関する言葉の定義が現れ、丁寧に解説してくれる。
だから時間が余っているご隠居にとっては目で追うだけで苦労いらずなので心地よい。
けれどもせっかくのテレビ番組なのに視覚的に理解度が進むような工夫がなされていないのは残念。
大学生という大人向けの講義なのだから視覚的な工夫は無用という考え方があるのかもしれない。
しかし、とかく教育テレビはひとりよがりの一方通行になりやすい。
放送関係者の方々はそこを重々承知で日々わかりやすい番組になるよう努力されていると思うのだが。
男性講師らしき方(姿は見えない)がパワーポイントみたいな画面に書き込みながら説明し、女性講師らしき方がコメントしていたけれど、もう少し楽しく進めてくれればいいのにと思う。
放送大学の学生が単位を得るのに必要な最小限の親切さしかない講義という感じがした。
本講の講師は数学界の権威ある方でふさわしい方なのかもしれないが、人間味を感じさせない講義は学生から見ればいつの世でも零点である。
単位を得るだけの講義ではなく、日本の技術力の底上げができるような番組にしてほしいものだ。
せっかく電波を使って崇高な教育をされるのだから、もっと血の通った内容にしていただければ100点だ、と僭越ながら感じた次第。
放送大学文京学習センター(茗荷谷)の素晴らしさを知っているだけに、今後の改善を切に願うものである。

五角形の対角線の数に公式があった

2013-05-24 00:08:04 | 日記
五角形の対角線の数って幾つかと急に聞かれてしどろもどろになった。
隣り合う点に対角線は引けないから点Aからの対角線はn-3本、同様にしてすべての点A,B,C,D,Eから引ける対角線は同様に(n-3)*n本。
ただしダブルでカウントすることになるから2で割る。
そうすると公式は
 (n-3)*n/2
とまあ順序だてて考えると以外に早く式ができた。
ためしに四角形だと対角線の数は2、五角形だと5、六角形だと9、七角形だと14、八角形だと20、九角形だと27、十角形だと35。
これって隣り合う数が1ずつ増えていく数列になる。
なんか発見した気分。
ちなみに三角形の対角線は0。

さて、対角線の数を聞いてきた人は組合せで5C2ですよねと念押ししてきたのである。
なので混乱した。
5個の中からペアの数を求める組合せは
 5!/(5-2)!/2!=5・4・3・2・1/((3・2・1)(2・1))
=10
先の式だと5にしかならない。
あそうか、五角形の辺の数5を引けばいいんだ。
と冷静になるとひらめきも早く一件落着。

さてどちらが説得力があって人間味があるかというと小学生にも理解できる前者の(n-3)*n/2になることは明らか。
5C2なんて世の中ではいろんな場面で現れるけれど、多角形の線の数を求めるのにも使われるんだ。
これって数学が楽しいものってことになるのか、くだらないものってことになるのか、さてどっち。

十六分音符で2の倍数を知った

2013-05-23 00:23:06 | 日記
音楽のしくみを数学で説明できることは今更説明するまでもない。
小学校の頃楽譜を見てこの音符は何、あの音符は何、と覚えていった。
全音符が1の長さだとすると、付点ニ分音符が0.5*1.5、二分音符が0.5、付点四分音符が0.25*1.5、四分音符が0.25、そして十六分音符が0.0625 となる。
こうして2の倍数を覚えた。
その延長線上に256KBとか2048MBとかいった電子計算機の世界があった。
身近なところに数に慣れ親しむ素材は転がっているものである。

それにしても音符の記号はあれがベストなのだろうか。
おたまじゃくしに旗を1本2本と立てたり点を付けたりするあのやりかた。
一見合理的のような気もするが、あの複雑さに音を上げ挫折していった音楽少年少女は多い。
しかし身近に感じられないあの不思議な楽譜の存在が音楽に威厳を与えているのかもしれない。
数学もいろんな記号を使っているところが音楽に似ている。
どちらももっと簡単に表せるといいのだけれど。

一筆書きも数学で解明できるのか

2013-05-22 00:32:59 | 日記
小さい頃、兄が一筆書きの問題を出してきてさんざん手こずったことが思い出される。
とにかく試行錯誤、ああでもないこうでもないと、一筆でなぞっては失敗し結局根負けして放り出してしまった。
一筆書きができるのかできないのかなんて重要じゃない、ガキの遊びには付き合っていられないと、根負けしてから50有余年が経った。
ところが最近になって、ふとしたことからあるルールに基づけば簡単に一筆書きの可否がわかることを知った。
こんな一筆書きなんてトンチを試すクイズみたいなものだとバカにしていたが、立派に数学の分野に取り込まれているらしい。
なんでも位相幾何学とかいう学問の分野にはいるらしい。

これで老後の楽しみが増えた。
難しい一筆書きの問題を作って、皆にギャフンと言わせてやるのだ。
人のあれこれ悩むのを見るのは精神衛生上すこぶるよいこと。
でも皆がこの簡単なルールを知ってしまうとその楽しみもなくなってしまう。
だからここではそのルールは紹介しない。

ともあれ数学者が一筆書きのルールを見つけてしまった。
そして位相幾何学を発展させてしまうのだから本当に数学者は凄い。