堀内徹夫(日本共産党福岡市議)の博多っ子ブログ

福岡市南区から、熱い情報を発信します。

核兵器をなくすには

2014-08-10 12:00:42 | 日記
長崎への今年の核兵器廃絶を願っての一連の行動も、一応、無事に、終わった。

一緒に行動した人の中から、なぜ核兵器がなくならないのか、という素朴な疑問をいただいた。

どうしたら、核兵器をなくしていけるかとの疑問にも答えるために、ブログでの考察をおこなう。

なぜなくならないか。

それは、核兵器にしがみついて、世界をその力で動かそうと考えている大国のエゴが、まだ、人類の圧倒的多数の核兵器をなくして欲しいという思いよりも、残念ながら強いからである。

だいたい、核兵器を一部の国だけが持ち続けることは、各国と民族が平等という世界の秩序に反するものである。

核兵器の廃絶は、平等な世界を築くうえでも欠かせない。

1967年以前に、核兵器を持っていたのは、米英仏露中の5力国。

国連では、この5カ国以外の国が核兵器を持つことを、核兵器の不拡散と言って、禁止した。

実に、核兵器を独占するための身勝手な大国の行動!

しかし、それは、あまりに不平等であると自覚した5カ国は、核兵器をなくすという約束を世界にしたのである。

ところが、40年以上もたったいまも、「誠実に交渉を行う」という約束は、はたされていない。

当然、他の国は、地球上から核兵器がなくならないのだから不満だ。

そうこうしてるうちに、インドも、イスラエルも、パキスタンも、核兵器を持った。そして、とうとう北朝鮮までもが…。

核兵器保有国は、9カ国となったのである。

こうして、核保有国が「なくす」という「約束」をはたさないまま、核兵器の独占を続けることはもはや困難となり、地球を核戦争の危機に直面させる矛盾と破綻がいよいよ明らかとなるなかで、「すべての核兵器を廃絶すべき」という声が国際政治でも広がり始めたのである。

そして、5年ごとに開催される核不拡散条約(NPT)再検討会議は、「核兵器のない世界」をめざす国際政治と反核運動の重要な節目となっている。

来年がその開催年。

ちょうど被爆70年にもあたり、4月からのニューヨークでの再検討会議にむけて、核兵器廃絶の大きなうねりをつくることが求められている。

人類の声が、大国のエゴに勝つ時、核兵器をなくすという人類の理性の旗がひるがえる。(^-^)/


小倉がなぜ米軍の原爆投下目標だったのか

2014-08-08 17:12:53 | 日記
私の原爆に対する思いを、FBや手配りニュースなどに書いたことから、小倉が原子爆弾の投下目標だったことを初めて知った方もいるようだ。

なぜ、小倉だったのか。

それは、「ふ号作戦」の武器である風船爆弾の全国最大の工場が、小倉にあったからである。

第二次世界大戦末期、アメリカが原爆を開発し、ドイツがV2号ロケットを開発しているときに、日本は和紙とコンニャクで風船爆弾を作り、7000キロも離れたアメリカ本土を攻撃しようと計画し、実行した。

これが「ふ号作戦」である。

当時の金にして2億5000万円の巨費をかけた重要作戦だ。

この作戦は、日本本土へのB25爆撃機による空襲が始まり、ミッドウェー海戦に敗れ、ガダルカナル島から撤退した1942年、アメリカ本土攻撃はできないかという大本営の指示で始まった新兵器開発であった。

参謀本部では、北半球に日本からアメリカに向かって吹く偏西風、いわゆるジェット気流を利用して、アメリカ本土を攻撃する事が、真剣に話し合われ始めた。

この作戦には、東大航研、中央気象台、精工舎、藤倉工業、国産科学、中外火工、横河製作所、久保田無線、三田無線所などが協力したという(水素ガスは昭和電工が供給)。

当時の日本の最高の頭脳を集めて、この作戦は進められたのであった。

1944年になると、手漉き和紙の伝統ある産地に増産命令が出される。

参謀本部は2万5000個の生産命令を出した。

このころ、障子、奉書、襖、傘、提灯などの和紙の生産は、中止され、コンニャクも店からなくなった。

原紙張りは、新京(満州)、山形、福島、埼玉、長野、小田原、静岡、岐阜、高岡、福井、鳥取、京都、大阪、島根、岡山、広島、山口、香川、徳島、愛媛、高知、八女、佐賀、大分、熊本などで行われた。

この原紙の組み立て工場は、造兵厰以外に、国際劇場、東宝劇場、宝塚劇場、有楽座、日劇、国技館などでも行われた。

完成品は千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の3基地からアメリカに発射された。

9300個を打ち上げ、約1000個が、アメリカ大陸に到着した。

アメリカでは、1944年11月4日に海軍パトロール機がカリフォルニア州で発見したのをきっかけに、次々と発見されたが、歴史上初の敵空襲であり、知らされると国民の不安も大きいと、徹底した報道管制を引いたらしい。(1945年の牧師一家の爆死事故が、オレゴンの悲劇として報道され、管制は破れた)

そして、気象学者をはじめ、徹底研究がされ、日本のどこから放球されたかなど調べあげた。

1945年2月に、製造は中止され、アメリカへの攻撃は3月に2500個、4月に400個で中止となった。

もともと、偏西風の吹く3月までが計画だったと考えられるが、八女では終戦の前日の8月14日まで原紙張り作業が行われているところから、45年の秋には、再開するつもりでいたようである。

しかし、アメリカの報道管制もあり、日本には到着確認情報が1件しか入ってきていないことは、参謀本部の意欲を失なわさせていたようだ。

この風船爆弾が、一貫して大量に製造されていたのが、小倉の軍事工場であった。【写真の小倉城は、軍事工場の北側にあった】

西日本最大の軍事工場が、街の中心にデーンとあり、軍都であった。

この街に原爆が落とされ死の街になっていたら、今日、つれあいの親族は、ほとんどこの世にはいない。

当然、つれあいも、そして、わが子たちも。

戦争とはなにか、平和な世界をつくるために人類はなにをしなければならないのか、私たち大人には、子どもたちの世代に伝えていく責任がある。

広島、長崎、ビキニ、福島。

私たちがしなければならないことは、核兵器をなくし、放射能の危険から、子どもたちとわが星・地球を守る事である。(^-^)/

アサガオと福岡市長

2014-08-07 15:21:39 | 日記
夏の花と言えば、アサガオ。

子どもの頃、夏休みに、理科の宿題だったこともあり、朝から起こされて「水をかけなさい」と言いつけられた対象なので、私の中では、「夏の花=アサガオ」なのである。

「アサガオ」という名は、朝、パッと美しく咲くから、朝の顔なのであるが、調べると、英名も、モーニング・グローリー(morning glory)であり、朝の輝き。

実は、日本では、奈良時代まで、キキョウがアサガオと呼ばれていたそうな。

それが、奈良時代末期に、遣唐使が唐から種を持ち帰って、キキョウがアサガオの座から滑り落ちた。

ところが、この「アサガオ」、私的には夏の花なのに、歳時記では、秋の季語となっているから驚きである。

朝顔や濁り初めたる市の空 

これは、小倉の生んだ俳人・杉田久女の有名な一句で、秋の句。

同じく小倉出身の松本清張は、久女を、『菊枕-ぬい女略歴-』で書いている。

ところで、アサガオの花言葉は「貴方に私は絡みつく」。

市役所9階の市長のイスに絡みついてでも手放したくないのか、高島宗一郎福岡市長さん。

市長当選直後から、国政にも意欲を見せてると報道されてはいたが、本心はわからない。

市民からは、「市長さん、なんばしよんしゃあとか、よう、わからん」との声が多く聞かれ始めて、福岡市長選の報道からも目が離せなくなってきた。

そんな政治状況がヒートアップ始めた福岡市役所では、写真のように市庁舎には「朝顔のカーテン」が今年も各窓にされており、ふれあい広場での遊園地「天神涼園地」もオープンしている。

猛暑の中で涼しさは求めたいが、市政をめぐる政治の駆け引きは、ヒートアップし始めているのは間違いない。

8月は平和をとことん考える月

2014-08-06 00:00:11 | 日記
私は、8月を世界の平和をとことん考える月としている。

それは、6日、9日、15日と、大事な節目が暦の上でやってくるからである。

69年前の8月6日。

人類最初の核兵器を積んだ米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、第一目標広島、第二目標小倉と定めて出撃し、晴れていた広島に落とされた。

※その「エノラ・ゲイ」の最後の乗員が、7月28日に93歳で死去した。

9日の第一目標は小倉、第二目標は長崎。

曇っていた小倉には投下できず、結果、長崎に落とされた。

もしも、69年前の広島の空が曇ってたら…

もしも、69年前の小倉の空が晴れてたら…

私の子どもたちは、この世に存在しない。

それは、彼らの祖母(つれあいの母)が、当時、小倉の原爆投下目標点から、1.5kmのところに住んでいたからである。

だから、私の家族は、広島の日と、長崎の日と、終戦記念日を、とりわけ大切な日として毎年、迎えている。

とりわけ、安倍暴走政治を止めるためにも、集団的自衛権行使容認の「閣議決定」を受けてのこの8月は、日本中の家庭で、そして社会全体が、平和を語りあうことが大切であると考える。

核兵器は地球上からなくす道しかないと、私は訴え続ける。

そして、人類が、戦争という行為を手放すまで、私はたたかい続ける。(^-^)/

水の週間に当たって

2014-08-01 00:00:44 | 日記
8月になり、暑い、暑い季節がやってきて、ここ福岡は、外に出ると融けそうな感じ。

水資源機構は、8月1日を「水の日」と定め、それからの一週間を「水の週間」としている。

「わが国の水需要は、生活水準の向上、経済の進展等に伴って近年著しく増大してきましたが、一方、水資源の開発は次第に困難になっており、渇水時には水不足が生じることが予想される状況になっています。」

と、その制定の意義を述べているが、年間を通じて水の使用量が多く、水について関心が高まっている8月上旬が適当であるとの判断なのであろう。

「この週間において、水資源の有限性、水の貴重さ及び水資源開発の重要性に対する関心を高め、理解を深めるための諸行事を行うことによってわが国の水問題の解決を図り、国民経済の成長と国民生活の向上に寄与することとしたいと考えています」と、水の週間の意義を明言している。

確かに国民が水を大切にすることはとても大事なこと。

でも、「水資源開発の重要性」というのがちょっと引っかかる。

結局ダムを作りますよということなのか。

福岡でも、巨額な予算で各地にダムが作られている。

私も、高校1年の1978年に、「福岡砂漠」と言われた渇水を体験した。

当時の学校では、水洗便所は使えず、当時まだ使用していた木造校舎にあった汲み取り便所のみ使用できた。

プールは禁止され、食堂では客一人当りの飲み水が制限された。

家庭でも大変だった。

トイレは、毎回、風呂の残り湯をバケツで入れ、水槽にはビール瓶を沈めて節水した。

風呂は2日に1回。

汗をかけば体を拭いた。

油のついた皿は、不要な紙でふき取ってから洗った。

歯磨き、顔洗いは、流しっぱなしは厳禁とされ、コップでするようになった。

トイレや手洗い場の自動洗浄も不必要な水を一括して止めれることからあみ出されたと聞いている。

あのような思いはしたくはないが、だからといって、気象的には50年に1度の渇水のために、ムダなダムをいくつも建設する必要性は感じない。

水の問題は、ゼネコンの仕事と利益確保のために、ダム建設などで供給量を保障すればいいというものではない。

「福岡砂漠」も、若干の気候条件はあったものの、「福岡一極集中」という無計画的な都市計画からおこった問題である。

水を大切にすることを考える週間にあたり、そのために自然を壊してダムを建設し、人口の一極集中を図るべく、福岡の街を財界言いなりにすすめてきたきた福岡の行政のあり方も考えてみたい。(^-^)/