いずれ掲載ページが消えてしまう時に備えNumber WEB〈羽生結弦独占インタビュー〉を保存した記事です。
世界選手権の銅メダル。栄光を掴んだ背景には、支えてくれた人々への感謝の気持ちがあった。震災の苦しい体験によって成長した心、そして、完璧なスケーターとなるために下した決断――。フィギュア界の若き至宝が飛躍の今季を振り返った。
気迫に満ちた演技は、時間を経てなお、鮮烈な光を放ち、薄れることはない。
羽生結弦は、初めて出場した世界フィギュアスケート選手権(フランス・ニースで3月に開催)で銅メダルを獲得した。17歳、日本男子最年少での快挙である。中学3年のとき世界ジュニア選手権で金メダルを獲得するなど将来を嘱望されてきたスケーターは、シニア転向2シーズン目に大きな飛躍を遂げた。精度の高い4回転ジャンプ、図抜けた柔軟性、観る者を引き込む情熱、すべてを発揮してみせた。
あれからひと月近くが経とうとしていた。仙台市内の約束の場所に現れた羽生は、半ば照れたような笑顔で言った。
「過大評価かもしれませんが、初めて出場して、あそこまで頑張れたのは、すごかったんじゃないかと思います」
それは過大評価などではなかった。
「あの夜は棄権も考えました」
というアクシデントに見舞われての演技だったことを思えば――。
捻挫のため、一時は棄権も考えたショートプログラム。
3月29日夜。羽生は翌日のショートプログラムに向けて練習していた。シーズン中、ショートでは4回転トゥループが思うように決まらなかった。だからいつもは2、3回で切り上げるところを5回、6回と続けた。
そのときだ。「疲労がたまったからでしょう」。回転不足で着氷すると、右足首に痛みが走った。捻挫だった。
その夜は歩けなかった。翌朝には大きく腫れあがっていた。
「歩けなかったときは、『明日滑れるのかな、棄権しようかな』と考えましたね」
それでも出場を選んだ。
「チームドクターやトレーナー、現地に来てくれていた母、いろいろな方がサポートしてくれていたので、頑張らなきゃな、と」
出場を決めたショートは、トリプルルッツが1回転になるなど、7位にとどまる。
「最初の4回転のコンビネーションジャンプ、4回転のあとが2回転になるのは想定していなかった。その後のトリプルアクセルもきれいに決まらなかった動揺もあって、足のことが思考回路に入った気がします。少しずつ足をかばっていた影響もありました。ルッツは右足を氷について跳ぶジャンプなので、躊躇をしてしまったと思います」
目標のショート6位以内に入れなかったのはもちろんだが、それ以上に悔んだことがあった。
『この野郎!』と口にしながら跳んだフリー。
「何よりも悔しかったのは、怪我したこと。捻挫がこういう結果を導いてしまったのだし、練習のことも反省しました」
ただ、ショートを終えた翌日にはフリーが待っている。どのように立て直したのか。
「自分を取り巻く人たちのことについて真剣に考えたんです。母にも『この状態でよく頑張ったんじゃない』と言われて。そこまでやれたのは早急に跳べるようにしてくれたドクターやトレーナーだったり、声援を送って支えてくださった観客や、仙台にいる人たちがいたからだよね、というような話をしました。応援してくれる人たちを思ったとき、怪我はあっても、それは関係なくフリーは頑張ろう、という気持ちになりました」
そしてフリーを迎える。プログラムは「ロミオとジュリエット」。冒頭、4回転ジャンプに成功。ミスのない滑りが続く。歓声と拍手が大きくなる。場内の熱気が高まっていく。
だが、思わぬところで転倒してしまう。
「左足で滑っているときにこけちゃったんですけれど、右足をかばっていたため左足に負担がかかっていた影響はあったと思います。やっぱり悔しかった。次のジャンプのときなんか、言葉はきれいじゃないですが『この野郎!』って口にしながら跳んだくらいです」
フリーの技術点は、優勝したP・チャンを抑え堂々の1位。
転倒による動揺もなく、羽生は立て直した。そのときの心境を、こう語る。
「転んだ瞬間、大きな拍手をもらって、それが聞こえたんですね。これは頑張らないと、って思いました。世界選手権という舞台だけにプレッシャーはあったと思います。でも世界選手権だからこそ歓声や応援をもらえたと思うし、それを受け止められました」
転倒後はノーミスで演技を終えると、さらに大きな拍手が起こった。羽生は右手で小さくガッツポーズをすると、おじぎをするかのように下を向いた。
「まず右足に触って、『よくもってくれたね』って声をかけてあげたんです。とにかく足に感謝したい、という思いでした」
スコアは173.99、総合で251.06。フリー、総合ともに自己ベストを大幅に更新。しかもフリーの技術点は、優勝したパトリック・チャンを抑え、堂々の1位であった。転倒こそあったものの、アクシデントなど感じさせない会心の演技だった。
「ジャンプを跳んだり降りたり、痛かったと思うんですね。ただ、いい集中をしていたので痛みは感じなかったというのが正しい表現だと思います」
痛みが戻ってきたのは、ミックスゾーンでの取材対応のときだった。
「ずっと立っているとだんだん痛くなってきました。でも、最後までできたのはいろいろな方々に支えられたという思いがあったから、足が痛いとは言いたくなかった。それにメディアへの対応というのは、多くの方々に自分の声を届ける場だと思うんです。だからしっかりやらないといけないと考えていました。取材後は猛スピードで靴を脱いで、足を冷やしてくださいって言いましたけど(笑)」
捻挫のことを大会中最後まで隠し切った羽生らしさ。
結局、羽生は捻挫のことを大会ではいっさい公けにしなかった。
「言いたくなかったんです、絶対に。一部の関係者やメディアの方にはアイシングやテーピングしているところを見られたのですが、ドクターやトレーナーの方も、聞かれても『最近、捻挫が多いから予防のためにしてました』と言ってくれました」
うれしかったら思い切り笑顔を見せ、ときにおどけたしぐさもする愛嬌の一方で、失敗すれば地団太を踏むかのごとく悔しさを露わにする。そんな飛び抜けた負けん気を持つのが羽生だ。捻挫という弱みを見せたくなかったという心根、最後まで隠し切ったところに、彼らしさが表れている。
大会後、映像で自身の演技を見返して分析すると……。
「ときどき足をかばう動きも見えましたね。ただ、痛かったからこそ、全部ていねいにやったということはあったんじゃないでしょうか。冷静だったのも大きかった。最後のステップ、叫んで始まるところ、歓声や手拍子がすごくて、背中を押されていたんですね。ステップはその力で滑らせてもらって、最後のジャンプは自分で跳ばないといけないから自分の力はためておこうと。まあ、力をうまく温存したというか、冷静な判断ができていました。なによりも、たくさんの人のパワーをもらってここまで出来た。3位という結果は、いろいろな方のおかげだと思いますね」
シーズン開幕前、羽生は「最後までやりきること」を目標に掲げていた。言葉どおりに最後まで滑りきったのがフリーの演技だった。
~追記~
その後、8月発行の雑誌「ワールドフィギュアスケートNo.54」で剥離骨折もあったことが明らかにされた。
世界選手権の銅メダル。栄光を掴んだ背景には、支えてくれた人々への感謝の気持ちがあった。震災の苦しい体験によって成長した心、そして、完璧なスケーターとなるために下した決断――。フィギュア界の若き至宝が飛躍の今季を振り返った。
気迫に満ちた演技は、時間を経てなお、鮮烈な光を放ち、薄れることはない。
羽生結弦は、初めて出場した世界フィギュアスケート選手権(フランス・ニースで3月に開催)で銅メダルを獲得した。17歳、日本男子最年少での快挙である。中学3年のとき世界ジュニア選手権で金メダルを獲得するなど将来を嘱望されてきたスケーターは、シニア転向2シーズン目に大きな飛躍を遂げた。精度の高い4回転ジャンプ、図抜けた柔軟性、観る者を引き込む情熱、すべてを発揮してみせた。
あれからひと月近くが経とうとしていた。仙台市内の約束の場所に現れた羽生は、半ば照れたような笑顔で言った。
「過大評価かもしれませんが、初めて出場して、あそこまで頑張れたのは、すごかったんじゃないかと思います」
それは過大評価などではなかった。
「あの夜は棄権も考えました」
というアクシデントに見舞われての演技だったことを思えば――。
捻挫のため、一時は棄権も考えたショートプログラム。
3月29日夜。羽生は翌日のショートプログラムに向けて練習していた。シーズン中、ショートでは4回転トゥループが思うように決まらなかった。だからいつもは2、3回で切り上げるところを5回、6回と続けた。
そのときだ。「疲労がたまったからでしょう」。回転不足で着氷すると、右足首に痛みが走った。捻挫だった。
その夜は歩けなかった。翌朝には大きく腫れあがっていた。
「歩けなかったときは、『明日滑れるのかな、棄権しようかな』と考えましたね」
それでも出場を選んだ。
「チームドクターやトレーナー、現地に来てくれていた母、いろいろな方がサポートしてくれていたので、頑張らなきゃな、と」
出場を決めたショートは、トリプルルッツが1回転になるなど、7位にとどまる。
「最初の4回転のコンビネーションジャンプ、4回転のあとが2回転になるのは想定していなかった。その後のトリプルアクセルもきれいに決まらなかった動揺もあって、足のことが思考回路に入った気がします。少しずつ足をかばっていた影響もありました。ルッツは右足を氷について跳ぶジャンプなので、躊躇をしてしまったと思います」
目標のショート6位以内に入れなかったのはもちろんだが、それ以上に悔んだことがあった。
『この野郎!』と口にしながら跳んだフリー。
「何よりも悔しかったのは、怪我したこと。捻挫がこういう結果を導いてしまったのだし、練習のことも反省しました」
ただ、ショートを終えた翌日にはフリーが待っている。どのように立て直したのか。
「自分を取り巻く人たちのことについて真剣に考えたんです。母にも『この状態でよく頑張ったんじゃない』と言われて。そこまでやれたのは早急に跳べるようにしてくれたドクターやトレーナーだったり、声援を送って支えてくださった観客や、仙台にいる人たちがいたからだよね、というような話をしました。応援してくれる人たちを思ったとき、怪我はあっても、それは関係なくフリーは頑張ろう、という気持ちになりました」
そしてフリーを迎える。プログラムは「ロミオとジュリエット」。冒頭、4回転ジャンプに成功。ミスのない滑りが続く。歓声と拍手が大きくなる。場内の熱気が高まっていく。
だが、思わぬところで転倒してしまう。
「左足で滑っているときにこけちゃったんですけれど、右足をかばっていたため左足に負担がかかっていた影響はあったと思います。やっぱり悔しかった。次のジャンプのときなんか、言葉はきれいじゃないですが『この野郎!』って口にしながら跳んだくらいです」
フリーの技術点は、優勝したP・チャンを抑え堂々の1位。
転倒による動揺もなく、羽生は立て直した。そのときの心境を、こう語る。
「転んだ瞬間、大きな拍手をもらって、それが聞こえたんですね。これは頑張らないと、って思いました。世界選手権という舞台だけにプレッシャーはあったと思います。でも世界選手権だからこそ歓声や応援をもらえたと思うし、それを受け止められました」
転倒後はノーミスで演技を終えると、さらに大きな拍手が起こった。羽生は右手で小さくガッツポーズをすると、おじぎをするかのように下を向いた。
「まず右足に触って、『よくもってくれたね』って声をかけてあげたんです。とにかく足に感謝したい、という思いでした」
スコアは173.99、総合で251.06。フリー、総合ともに自己ベストを大幅に更新。しかもフリーの技術点は、優勝したパトリック・チャンを抑え、堂々の1位であった。転倒こそあったものの、アクシデントなど感じさせない会心の演技だった。
「ジャンプを跳んだり降りたり、痛かったと思うんですね。ただ、いい集中をしていたので痛みは感じなかったというのが正しい表現だと思います」
痛みが戻ってきたのは、ミックスゾーンでの取材対応のときだった。
「ずっと立っているとだんだん痛くなってきました。でも、最後までできたのはいろいろな方々に支えられたという思いがあったから、足が痛いとは言いたくなかった。それにメディアへの対応というのは、多くの方々に自分の声を届ける場だと思うんです。だからしっかりやらないといけないと考えていました。取材後は猛スピードで靴を脱いで、足を冷やしてくださいって言いましたけど(笑)」
捻挫のことを大会中最後まで隠し切った羽生らしさ。
結局、羽生は捻挫のことを大会ではいっさい公けにしなかった。
「言いたくなかったんです、絶対に。一部の関係者やメディアの方にはアイシングやテーピングしているところを見られたのですが、ドクターやトレーナーの方も、聞かれても『最近、捻挫が多いから予防のためにしてました』と言ってくれました」
うれしかったら思い切り笑顔を見せ、ときにおどけたしぐさもする愛嬌の一方で、失敗すれば地団太を踏むかのごとく悔しさを露わにする。そんな飛び抜けた負けん気を持つのが羽生だ。捻挫という弱みを見せたくなかったという心根、最後まで隠し切ったところに、彼らしさが表れている。
大会後、映像で自身の演技を見返して分析すると……。
「ときどき足をかばう動きも見えましたね。ただ、痛かったからこそ、全部ていねいにやったということはあったんじゃないでしょうか。冷静だったのも大きかった。最後のステップ、叫んで始まるところ、歓声や手拍子がすごくて、背中を押されていたんですね。ステップはその力で滑らせてもらって、最後のジャンプは自分で跳ばないといけないから自分の力はためておこうと。まあ、力をうまく温存したというか、冷静な判断ができていました。なによりも、たくさんの人のパワーをもらってここまで出来た。3位という結果は、いろいろな方のおかげだと思いますね」
シーズン開幕前、羽生は「最後までやりきること」を目標に掲げていた。言葉どおりに最後まで滑りきったのがフリーの演技だった。
~追記~
その後、8月発行の雑誌「ワールドフィギュアスケートNo.54」で剥離骨折もあったことが明らかにされた。