横手市史叢書9・羽後新報復刻版(明治41年)三、 が刊行されました。
編集は、明治41年の9月から同年12月まで。冒頭の9月1日に、大石良雄の末裔についての記事、先八月廿日岡山市で末裔が死去した内容が感慨深い。鹿角だより・花輪町の奮発という記事は、繭糸共進会行事への花輪の熱の入れ方の紹介で面白い。この9月は秋田県へ東宮殿下(大正天皇)行啓があり、この関係記事がつづく。
9月16日記事、「東宮殿下行啓 度々詳しく報せる如く愈々来る十九日午後二時二十九分を以って、横手駅御通過相成るに付き、奉迎者は必ず一時間以前にプラットホームに罷り出で係員の指揮を仰ぎ、かねて掲載の注意事項に違わぬ様最も謹慎に整列し充分に誠意を表すべきなり」 9月20日記事、「鶴賀奉迎 東宮殿下の御車には、御巡啓御日割の通り昨日午後二時二十九分横手駅到着、五分間御停車にて直に秋田市に向はせられたり・・・」 以下行啓記事は、十月十二日記事「東宮殿下還啓 東北地方巡啓中なりし皇太子殿下十日午後四時五十五分無事御帰京ありたり」 まで続いている。この間の行啓彙報・行啓余聞の記事では、郡部から人々が秋田市に集まり、この際の中小旅館の儲けぶり(9月27日記事)など裏話も伝える。 「金澤柵へ御使」「古戦場(戊辰戦刈和野)へ御使」とかという記事(9月23日)もあり、当生には印象深い。
9月8日の冒頭記事は、「能代の気質」という寄書だが、「七夕理屈」というのが褒められていて面白い。「船舶の出入り頻繁にして、市中の賑わい・・今や戸数三千五百を称し、人口ほとんど弐万を算し、下三郡の中心たり、方に秋田市を凌がんとする勢あるもの蓋し誇張の言にあらざるべし。之れ一に能代人士の奮励努力の結果なり・・・」などと、能代の方々が読んだらさぞ心地よいでしょう文がありました。能代の方必読です。
10月27日に「里見村の耕地整理」という記事、11月8日と20日に「世の地主諸君に告ぐ」という耕地整理推進の論調、12月16日には「小学校教師に一言を呈す」という時代を感ずる論調などもある。 経済の動き社会の動き、地域の事件などを「羽後新報復刻板」は伝えている。紙面に様々な広告がある。これも一つの歴史考察になるでしょう。 「毛はえ薬」の広告に、「十日間に請合」「用て無効には返金すべし」とか宣伝文句あって、これは明治もいまも相変らずと感じいる次第、お笑いですね。
以上、
横手市史編纂室の資料提供に感謝いたします。北羽歴研鷲谷