北羽歴史研究会

出羽国北端より奥羽地方と北の歴史を展望し
北羽地方の風土文化作りに寄与する。

秋田県公文書館歴史講座

2006-11-28 21:30:47 | 催事情報

時、12月2日(土)、13:30~15:00  場所・県立図書館3階

テーマ、幕末秋田藩の情報収集......平田門人手帳を手掛かりとして,,,,,,      講師、菊地保夫副館長

受講の期待・・・ 平田鉄胤が京都へ駐在、新政府の神祗事務局の役職にもついた。どんな貢献をしたのかを知ることができますでしょうか?    


「相馬大作・逃亡と顛末」を講演

2006-11-28 17:35:49 | 催事情報

大館市文化財保護協会の11月28日の研修会で、「相馬大作・逃亡と顛末」と題して講演しました。

鹿角市毛馬内の史跡案内に、津軽侯襲撃に失敗した相馬大作が、かくれ潜伏した屋敷があったということについて、また小坂町に町史跡として「相馬大作が潜んだ土蔵」という標柱があることについて、大作のその後の経過からして信憑性はないということ。小豆沢大日堂に書かれたという決意書についての信憑性についても論じた。事件関係人物について、南部藩の指名手配者の隠匿、逮捕裁判後の判決内容について、そして処刑後の美談の発生を考察する。

「一介の浪人らが権力を象徴する十万石の藩主を攻撃した相馬大作事件は、江戸庶民にとってはうってつけの鬱憤ばらしの話題であったと思われる(本当は浪人ではなく自藩の策謀ではあるのだが、それは見えていない)。当時百軒余の寄席があり、想像たくましい美談が広がっても不思議でない。時の青山下野守忠裕が武士道の上から同情を寄せたということも影響している。水戸学藤田幽谷の子東湖は当時15~16歳で江戸にあり大作事件の刺激から、後に士道振起として 『下斗米将真伝』を著す。これはまた儒学者芳野金陵の『相馬大作伝』著を生むのである。藤田東湖の「将真伝」は、また大作事件30年後の吉田松陰へとつながっている。」

矢立峠歴史の道、「歴史の道は文化財、皆であるき護り伝えよう」・・・・歴史の道に相馬大作の誤節は不可。

講談の隆盛    江戸時代の講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本とか刊行物は残っているかもしれないが、現在は手にすることができない。当時は各藩とも秘密を厳守した時代のこと、「当て推量」をたくましくした牽強付会の憶説が巷に伝わり講釈師によってさらに誤伝が拡大したことは推察できる。   明治十七年の改新新聞連載『檜垣山名誉碑文』が明治十八年に刊行本となった。 明治二十一年には講談「檜山麒麟の一声」が講釈師柴田南玉によって演じられ、相馬大作の義烈勇武を持ち上げ人気を博す。 「檜山実記・相馬大作」などの演題も、田辺南竜・邑井一・邑井貞吉などの講釈師が演じたという。   津軽藩を一方的に悪者に仕立てた講談に対して、津軽旧臣が騒ぎだし訴訟になっている。警視庁では公演や芝居は差し止め、刊行本は発売禁止としたが、押さえきれず、表の看板をはずしたなかで興行はつづいたという。

軽藩と南部藩の反目を基とするこれらの講談は、題目の如く、檜山の領地争いを発端としているのであるが、これはとってつけた如くの話であった。檜山とは南部領馬門村と黒石領平内村烏帽子岳の堀差山の境界をめぐる争いなのだが、大作事件の百七年前の正徳年のことで、平内側の勝となっている。  南部藩主利敬が心気病みで死亡したことに始まった事件であることを避ける講談物語の構成だったと推測され、また相馬大作の描写も史実から離れたの当然といえる。   このような状況をへて南部縁故者による「実伝・史伝」などが書かれるようになった。これは縁故者の筆なるが故に、実伝・史伝に限界があるのも必然でやむを得まい。

作話のようになった「相馬大作事件」講談人気は続く。大正十二年東京八丁堀では講釈師神田魯山の興行、昭和二年には東京神田での宝井琴慶、浅草での西尾麟慶の興行などが有名になっている。宝井琴慶の「檜山」は、相馬大作が江戸両国橋上で津軽家の御乗物に発砲し、仕損じて木更津に逃げるという筋書きであるという。   相馬大作を扱った映画は大正3年に始まり、戦前は十三回、戦後昭和30年「檜山大騒動」が、その後はテレビにも登場している。  もはや「桜吹雪の遠山の金さん」『暴れん坊将軍の吉宗」並の偶像であり、史実ではなくなったのである。

馬大作伝記の考察   蒲生聚亭「下斗米将真伝」、亀井栄「忠孝節義相馬大作」、田中館愛橘「相馬大作の史実」、千葉亀雄「檜山騒動の実説」、等について問題を問う。 大正十五年秀之進の姉の子下斗米與八郎が「下斗米大作実伝」を書く。これは待伏せ場所を岩抜山としている。その他の内容には錯誤事例が多い。  実に迫る・歴史小説『相馬大作と津軽頼母』長谷川伸著・時事通信社刊。  『津軽史』第20巻「相馬大作事件」は、同時代史料であり、正史をさぐり得る翻刻出版であった。青森県文化財保護協会、平成2年刊。

森と岩手に矢立峠説はなし。知らぬはどこかの人ばかり。     考書、「岩手の先人100人」「岩手の歴史なぜどうして」・「相馬大作真相ー棟方黙斉著」「新釈青森県史後編」。  軽藩探索方文書からの証明?大作らが白澤まで事前調査に行ったこと。?白澤橋桁方面行きを住民に察知されている事。?警戒態勢の矢立峠は不審者が入る余地なしのこと。    部藩方の古文書の事・・・・下斗米惣蔵文書を例とすれば真実は見出すはむずかしい。 

大館戊辰戦史付沿革史』笹島定治編著の相馬大作事件記述を考察する。  田中館愛橘著作の引用の誤りを糾す。吉田松陰『東北遊日記』引用、川田甕江『随鑾紀程』からの引用文について考察する。川田著は「白沢宿」を記す。また吉田松陰への白沢宿山内儀兵衛の誤説明が指摘されること。 「白沢宿」との文献にかかわらず、矢立峠での発砲説を主説にとりあげ、「一説には岩抜山」とした笹島定治著の、問題点を指摘した。  下斗米秀之進こと相馬大作と関良助に対する幕府判決文に明確に「白沢宿まで罷越」とある原点に立脚すれば、矢立峠発砲説の誤りを悟り得たのではなかったのか。きわめて残念なことであった。      以上   


鳥海柵(とりみのさく)・古代安倍宗任(鳥海三郎)の館址

2006-11-07 09:17:24 | 活動情報

所在地・岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字鳥海

胆沢川の北岸、遠く胆沢城を南に望む金ヶ崎段丘上に位置する。標高は60メートルほどの平坦地で、東西約300メートル、南北約150メートルほどで、周辺には小谷がいくつかあり、一部に空堀が認められる。  康平5年(1062)9月10日、源頼義・清原軍にせめられ、安倍宗任軍は安倍貞任(厨川次郎)の厨川柵に撤退する。  厨川柵(盛岡市)の攻防、9月15日から17日、ついに安倍氏一族はほろぶ。  しかし安倍貞任の子高星丸や安倍宗任子孫の物語は現在の後裔へと続いている。


鳥海柵(とりみのき)・古代安倍市宗任(鳥海三郎)の館址

2006-11-06 20:45:04 | 活動情報

鳥海柵址で解説板を見ている北羽歴史研究会会員。

平成18年5月16日第41回実地研修会は「古代東北の戦いの地と伊達藩北部の要衝を探る」を学習テーマに、金ヶ崎町、旧江刺市、旧水沢市の関連史跡を探訪した。その一番最初に金ヶ崎役場を経てから、探訪したのが鳥海柵址でした。   前九年の役・衣川の戦いに勝って一気に北に進んだ総大将源頼義が、「頃年鳥海柵の名を聞き、その体を見ること能わず、今日初めてこれに入るを得」とあり、戦略上の重要拠点であったことを表しています。天喜五年に安倍頼時が、奥地の安倍富忠との戦いで負傷し衣川柵への帰途、この鳥海柵で死去している。  従来の発掘調査で掘立柱建物跡・竪穴式住居址・ 焼土遺構などが発見されている。なお発掘調査が行われその成果が出てくる事を期待したい。


伊能忠敬測量隊記念標の補修、矢立峠古羽州街道

2006-11-06 15:49:48 | 活動情報
             平成11年5月に伊能ウオークに際して、矢立峠古街道に、伊能忠敬測量隊記念標柱を北羽歴史研究会名で立てております。それが昨年に根腐れで倒れてしまっていました。支えをつけて立ててはいましたが、根腐れのところが目について気になっていました。  来年補修しようと思っていましたが、まだ11月中に矢立峠探訪グループがあるように、聞こえてきましたので、根腐れ部分を板で囲いペンキ塗装しておきました。アワテ作業で出来具合は悪いのですがやむなしです。  作業中に二人の峠道探訪者がありました。  もっとしっかりした記念標柱や史跡標柱などが欲しいものですが、今後に期待します。 

羽州街道交流会秋田大会に参加しました

2006-11-05 14:04:24 | 催事情報

11月4日能代市二ツ井町のきみまち坂ヘルスセンターで開催された。羽州街道交流会秋田大会の北羽歴研から、会長鷲谷豊・幹事田中實の二名が参加しました。交流会の前段には、羽州街道現地探訪会があり、これには高橋ヨシ会員も参加しました。   現地探訪では、大堤一里塚より綴子本陣あとまでの徒歩、きみまち坂の裏街道コース山路を一部歩き、また明治天皇行幸路を確認、米代川切石の渡し跡見分など。

交流会のパネルデスカッションでは、「羽州街道を活かした地域づくり」テーマに藤原優太郎氏をコーデネーターに、各県地区の5人のパネラーからそれぞれに活動状況などが報告された。  あるパネラー曰く「地元の人間が地元を知らないと町づくりにならず」と、地元の街道の歴史を知る事より始めよと、これはポイントだと感心して聞いた次第。  桑折では街の中の奥州羽州街道追分地点に公園を設置、青森市油川では街道合流点の碑の建立と歴史案内標柱の設置、七ケ宿街道追分・最上街道・米沢街道追分の広域連携など、様々な各地の試みにも大いに啓発された次第です。

北羽歴史研究会・矢立峠歴史の道を守る会としては、「歴史の道は文化財、皆で歩き守り伝えよう」との呼びかけでの、矢立峠の古街道・旧街道明治新道の保全と活用の取り組みに限られています。歴史研究会ですからこれてやむなしなのですが、しかし今回の羽州街道交流会で伝えられた各地のお話を知るにつけ、街区のなかでの街道の歴史活用にも、目を向けるべきと触発さられたように感じます。   たとえば大館市街地では、常盤木町御坂通りや川原町独鈷町通町の羽州街道ルートの保存のこと、あるいは城下の町筋としてその面影を残すべき地域として上町金坂・部垂町やまた長倉町・大町などの都市景観も考えて見るべきと思うわけです。  「街づくり○○会」のような分野の方々に「歴史」を意識して頂けると重畳だと感じた次第です。大館からその分野の方が参加できておれば良いのになーと、次回交流会への参加を期待したい。 

羽州街道交流会秋田大会については、新聞報道もありましたので、ご参考ください。    (わ) 

 

 

 


古代秋田城の発掘調査、現地説明会

2006-11-03 22:00:22 | 催事情報

11月3日、古代秋田城の発掘調査現地説明会が開催された。秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所の実施。第89次調査平成18年8月2日からこれまでの調査について現地で説明した。

今回の調査は政庁から西に伸びているであろうと推定される道路跡の検索が主であったが、道路跡は発見されなかった。奈良時代平安時代に相応する時代差のある大建物跡が発見されている。


北羽歴研第47回研究発表会を開催します

2006-11-02 22:21:04 | 研究発表

日時・11月19日(日)午前10時30分より午後3時30分まで、 場所・大館市中央公民館

発表テーマ・発表者

1、浅利史余聞・浅利館の事など---   鷲谷豊   2、石井氏由緒---   武田政二郎

3、合川・川井の延慶の碑について---  板碑に関する一考察---    千葉克一          以上