北羽歴史研究会

出羽国北端より奥羽地方と北の歴史を展望し
北羽地方の風土文化作りに寄与する。

資料・中世浅利氏と大館の浅利館...講演レジメ

2007-02-25 10:04:04 | 雑録

中世浅利氏の盛衰と大館の浅利館

1、浅利姓について、1)浅利姓全国分布表、2)秋田県内、津軽、北海道の浅利姓分布、市町村別、 2、浅利氏の元祖、1)甲斐源氏系譜、2)初代浅利義成について、3)菩提寺と法名、3)浅利地名考察と浅利庄について。3、浅利系図、1)山梨県白根町浅利藤正氏系図、2)武田信繁から、武田虎在から等系図、3)長岐久蔵氏による浅利系図の操作について、

4、中世浅利氏の記録、(年代・史資料名)       1)浅利義遠1189吾妻鏡、2)浅利太郎知義1221承久軍記1227吾妻鏡、3)浅利遠江守1272浅瀬石文書、4)浅利六郎四郎清連1334津軽降人交名注進状1338浅利清連注進状(岩手県中世文書)、

5)浅利尾張守・南朝方降参1353和賀常陸権守義綱軍中(鬼柳文書)、 6)沙弥浄光11354甲斐国青島庄浅利郷・惣領彦四郎・五郎次郎1354(沙弥浄光譲状・岩手県中世文書)、註・沙弥浄光は、浅利尾張守である要素が高い。

7)浅利・願阿弥陀仏あ1380時衆過去帳、8)松峰山修復の浅利氏1405応永12年比内庄司浅利家代々修復(松峰神社伝承)、 註・比内地方の統治者として代々続いていたことを示す。 9)浅利但州(覚阿弥陀仏)1417時衆過去帳、10)浅利遠江入道但阿弥1441那智山願文・徳子之源遠江入道但阿弥子息二位殿隆慶(米良文書) 11)円福書状の浅利氏1441-1457岩手県中世文書、

12)浅利勘兵衛則章1468応仁二年扇田住、浅利勘兵衛則章十八歳(黒甜瑣語) 註・則章の存在は、鎌倉時代に源流をもつ浅利氏が、室町時代には、比内地方を大方において掌握し続けていたことの確実な証明です。  

13)浅利貞義1525男鹿本山古来棟札写、領主大旦那安倍朝臣沙弥洪廓大願主浅利朝臣貞義(湊文書)、註・湊安東氏に属していた比内浅利氏が、安東堯李(洪廓)亡きあと、湊安東が檜山安東氏に合一されていく過程の中で隔たりを深めていったこと。また世代後においては、檜山安東氏と敵対関係に発展していくことなどが、事後の情勢として推察もされてくるように思います。

5、中世末から浅利氏四代  系図・朝頼ー則頼ー、浅利則頼の勢力圏図 、各世代の勢力時期の図表表示、1)則頼から則祐、2)長岡城主浅利勝頼。  註・各世代は、『秋田の中世・浅利氏』鷲谷豊著より引用説明。

6、浅利則頼分限帳(長崎家文書) 則頼の勢力分布図と照合して見る。鹿角郡扱人、鹿角郡目付に注意。給人住所の大館城廻り百五十人などに注意。この時代での石高表示は考察に留意を要すること等。

7、大館城主浅利則平  比内浅利氏の終末段階、1)天正18年秋田実李が浅利頼平を比内還住とす。 2)文禄二年浅利賦課未納、秋田離脱を策す、 3)文禄4年浅利おとな衆秋田氏に走る。頼平は津軽の支援をうけ秋田氏にそむく。米代川合戦8~11月。 4)慶長元年2月山田合戦、大阪より矢止め命令くる。 5)慶長2年浅利頼平上洛、慶長3年1月浅利頼平が大阪で急死。大館浅利氏は断絶。

8、大館の浅利館  1)各地の浅利城館・元祖義成の館址、ほか3城館。  2)大館の浅利館位置図 3)当該城館後の従来の説明。A大舘市広報 B鷲谷豊箸『大館地方の歴史散歩』記述の茂内館については訂正とす、 3)浅利館と記した古文書資料、『戊辰秋軍功取調書』狩野徳蔵・西家文書。 4)鬼ケ城は山であって城館跡ではない。史料・戊辰戦争絵図参照。 5)鬼ケ城と鍋越は同じ山の山名、古文書『御膳番日誌』西家文書の記述コピーを参照。 6)大館・鷹巣の中世城館名一覧。

ーーーーー以上、2月17日・大館市民カレッジ、講座テキストのレジメ項目、

以上、


奥羽越列藩同盟の断面、講演レジメ抜粋2

2007-02-04 19:13:31 | 活動情報

奥羽越列藩同盟の断面

四、『仙台戊辰史』著者・藤原相之助について

星亮一著『奥羽越列藩同盟』より抜粋、「『仙台戊辰史』は明治44年の刊行で、著者藤原相之助は秋田の人である。慶応3年、秋田領仙北郡生保内村にうまれた。相之助が生れた年、南部藩が仙石峠を越えて生保内村に攻め入り、村人は家財道具を谷間や村の奥に隠して逃げた。長じて角館町の静修塾に学び、明治十六年、盛岡の岩手医学校に入った。その後、仙台の宮城医学校に統合され、仙台に移ったが出費もかさみ、途中で退学、東北新聞社に入り、記者となった。 この新聞社は国民協会の機関紙で、持ち前のねばりで主筆、編集長を務め、『秋田魁』の内籐湖南と並んで藤原相之助(悲想)が、東北の二大健筆ともてはやされた。『仙台戊辰史』は仙台藩玉虫左太夫の師、大槻磐渓を父にもつ文学者大槻文彦の協力で資料を集め、明治41年から一年間にわたり『東北新聞』に連載したものである。  戊辰戦争が終わって40年、なまなましい資料が行李一つに集まった。相之助が得た結論は、原敬と同じように東北は賊軍にあらずということだった。これに対して長州が『防長回天史』を編纂、『仙台戊辰史』に反論する一幕もあり、大きな話題を呼んだ。大正二年、46歳の相之助は河北新報社主筆に迎えられ、十五年間にわたって健筆を振るっている。」

秋田県出自とはいえ、秋田藩人士の史観を心としていないこの方は、老いてまともに故郷の地を踏みえたものであろうか。「三つ子の魂、百まで」という。私は新政府側に立った秋田藩を是とする。反政府側はいかように言いつくろっても、官の対称としては賊であることをまぬかれない。「政見の異同」のみではありません。あきらかな反乱であり、賊徒なのです。 

秋田市・土崎第一小学校校歌 「勤王秋田の血を享けて末変らじと雄物川 清き流れに棹さして御国の為に尽くさばや、 北荒海の日本海、吹雪に鍛えし大和魂 逆巻く浪に帆を揚げて七つの海へ漕ぎいでむ。」  私の勤王秋田の確信感情は、この校歌で染みついているのです。

 

五、仙台藩戊辰戦争の責任をどうみるか

1、藩主慶邦の責任   「すなわち藩内の大勢は佐幕開国であったが、これは観念的なもので、西国の形勢を掌握しての立論ではなく・・・ただ東北の大藩たる面目と、鎮撫総督府の無為無策のため、ずるずると同盟結成、連合抗戦というはめに・・・・・つまりとんだことに発展して、にわかしたくで兵隊をくりだした形であり、見とおしの悪さ、事態認識の不足は、大部分が藩主慶邦のふらふら腰の責任といってよかった。」  『伊達政宗・戊辰戦争』平重道著

2、伊達大藩のおごりか 「藩論の紛糾や中級武士の反薩長的気分の・・・これらを統制して藩の方途を誤らしめないのが藩の首脳部の任務である。この点当時の国老但木、坂両者の責任は重大といわねばならない」 同上

3、勝海舟の意見を無視したこと、・・・・・・・「思フニ奥羽ノコトハ児戯中ノ児戯 何を擾々相争フヤ、更ニ合点参ラズ・・・・・人ノ災ヒヲ買フトハ愚ノ至りニアラザルカこ乎、此意味ニテ過日土佐殿ヘモ一封差出シタル筈ナレバ・・・」 同上

4、懲りない面々・・・・終戦後の仙台騒擾・・・人事騒動・・・勤王派の不満・・・「三月晦日、(東京)軍務局はもう一人の藩主後見である伊藤藤五郎を喚問、仙台騒擾のことを詰問し、さらに久我大納言が鎮撫総督になって、六百名の兵を率いて四月二日横浜港を発し、六日仙台城に入った。次いで藩内騒擾の責任者として、奉行和田織部以下65名の処分が行われた。戊辰戦争に活躍した佐幕派の仙台藩士はすべてこの時に処分された。」『宮城県史』  ・・・・・・・ 藩主ほか如何に佐幕派が多数であったかの証明であろう。

5、結論・・・「仙台藩戊辰戦争の顛末は・・・要するに、藩内には遠藤文七郎・桜田良佐等の非戦論者もいたけれども、大勢は薩長奸賊論・会津擁護の線に傾き、ついに「朝敵」の汚名を着せられたことは、もともと封建体制の根強さに由来する仙台藩の保守的佐幕主義的な考え方の当然の帰結でもあったということができよう。」 『宮城県史』S41刊

六、越後での会津・長岡藩と仙米

1、反政府同盟への工作 

「慶応三(1867)年春、緊迫する内外の諸情勢にどう対応すべきか、越後の各藩とも態度を決めかねていたとき、会津藩は藩士土屋鉄之助らを越後に派遣し、会談の開催を呼びかけた・・・同年6月には長岡藩と談合・・・9月15日を期して新潟で会合を開くことを取り決めた。次いで桑名(柏崎陣屋)・高田・与板などの諸藩の賛同を得て、同18日に新潟古町の料亭島清で会合した。この会談の約定もあり、年が明けると再び長岡藩や村松藩などを説いて会合するよう迫った。新発田藩には1月12日に長岡藩を通じて案内状が届けられた。・・・酒屋会談は2月2日に開かれ、会津・長岡・村松・新発田・村上藩などの代表が出席したが、高田藩は参加しなかった。この酒屋会談は、やがて越後に進攻してくることが予想される新政府軍に対して、越後諸藩が同盟してこれを阻止しようとする意味をもったいた。」

2、長岡藩、鎮撫使命令を無視。不信をつくった河井継之助

「鎮撫使の越後入り・・・北陸道鎮撫総督一行は1月20日京都を出発し、北陸に向かった。一行は高倉総督と四条副総督の供が40人余り、仮参謀を命ぜられた調子三太夫・前田央・保田太仲らに率いられ警衛に当たる芸州広島藩兵三隊108人で小浜藩兵が先鋒を務めた。」

「北陸道先鋒総督兼鎮撫使高倉永祐・・一行は、三月十五日高田に入った。総督は、新潟奉行と佐渡奉行に対して、出頭のうえ水帳・郷帳を提出し、年貢納入の状況と金穀残高を調べて報告するよう命じた。・・・総督が越後諸藩のうち、その去就を最も注目したのは長岡藩であった。・・・・高田へ派遣された参政植田十兵衛は、督府からの命令でも内容によっては拒否もあり得るという藩の意向を受けていた。総督は植田十兵衛を特別に呼び出し、長岡藩兵を総督軍に差し出すように命じた。

植田は返答に窮して、今すぐ出兵に応じ難い藩情を述べたが、総督は強硬な態度を変えようとしなかった。 総督は高田出発の際に再度長岡藩兵の出兵を命じた。 さらに江戸到着後、出兵に代えて軍資金三万両の献金を命じた。植田十兵衛は、帰藩して相談の上返答すると猶予を求めて急ぎ長岡へ帰ってきた。植田から報告を受けた家老河井継之助は、いっさいの責任は自分が負うからとして、これを黙殺してしまった。この長岡藩の対応は、総督の疑念をますます募らせ、朝敵視されている立場を一層悪化させた。」

河井継之助は、確信的な反新政府思考といえる。後の岩村軍監対談での領内通行拒否・武装中立を認めよとの主張はナンセンス、会津攻め妨害の時間稼ぎに過ぎない。

3、会津が新政府敵対準備を強化

1)佐渡奉行へ高田在の 「総督府から出頭命令の到着した3月18日、会津藩士を称する大竹主計ら5人のものが佐渡へ渡来し、奉行に面会を求めた。彼らは、奉行所組頭中山修輔に対し、会津藩への協力と軍資金を要求し、すでに出雲崎と寺泊に500人余の会津兵が待機していると脅迫した。・・・4月末には、100余人ほどの会津兵が佐渡へ渡来し、各地え乱暴を働いた。」

2)「会津藩は小千谷陣屋へ500人、酒屋陣屋へ300人、新潟町へも300人の兵を出すなど、新政府に対する敵対行動をつよめた。また各代官所には領地引渡しを強要し、領内には調達金の賦課や、村兵・郷兵の取り立てを行った。」

3)柏崎 「鳥羽伏見の戦で会津藩とともに旧幕府軍に属した桑名藩は、国元は1月28日いち早く新政府に恭順したが、江戸へ逃れた藩主松平定敬は、3月30日柏崎に到着し、抗戦派の藩士がここに集まってきた。閏4月3日には、恭順派の家老吉村権左衛門が暗殺されるなど、柏崎は反政府勢力の一拠点となっていた。

4)新潟奉行所 「総督府から元服大赦、制札、農商布告等の沙汰書をわたされ、管地を太政官に報告する事を命じられていた。」しかし4月「7日ころからは水戸藩脱走兵530余人が入り込んで、新潟は反政府勢力の中心地となっていた。奉行所は多数の浪人の取締りどころでなく、身の安全もおぼつかない状態だった。新潟へ帰任した田中(奉行所組頭)は、米沢藩と交渉のうえ、5月30日新潟を同藩に引き渡した。」・・・とあるが、会津・列藩方針で米沢藩が接収したのである。

5)旧幕脱走兵 「越後を横行した旧幕勢力のうち、最大のものが古屋作左衛門に率いられた旧幕府歩兵第11・12連隊の集団脱走兵である。後に衝鋒隊を名乗るが、その大部分は鳥羽伏見の戦の経験者であった。」・・・会津藩の反抗姿勢が、反抗諸隊を結果として引き寄せる。

4、江戸進撃が本意だった

「奥羽鎮撫総督府が庄内表へ出兵征討を決定した同じ4月10日、会津藩の使者が庄内藩に派遣され、両藩は生死存亡をともにすることを約した。その際、庄内の重臣松平権十郎らは次のようにに提言している。

会津・庄内が一致してのち、米沢を説得する。米沢が同盟に加われば、仙台も直ちに参加するであろう。仙・米・会・庄の四藩が同盟すれば、奥羽の諸藩は一言のもとに同盟に参加するであろう。その後速やかに兵を江戸へ出し、江戸城を軍議の本営となし、諸藩の兵を合わせて凶徒を打ち払おう。

なお、この策は藩主が江戸にいたときからの持論であると言っている。この会庄同盟が奥羽列藩同盟のもとになるのである。  会津藩では、4月26日に家老梶原平馬らを使者として米沢に送り、米沢藩の木滑要人らの案内によって、仙台藩の但木土佐らも交えてうえ、関宿で三者会談を開いた。・・・・・」 ・・・策された反政府同盟、世良云々は表面的こじつけだった。

5、奥羽越列藩同盟となる

「長岡藩は徹底抗戦に決し、かねて会津・米沢から強く呼び参加を要請されていた奥羽列藩同盟に加盟し、5月4日に調印した。次いで、米沢藩の強い呼びかけを受けて、5月6日に新発田で下越諸藩の老臣会議が開かれ、村上・黒川・三日市・村松の四藩が会津嘆願書に調印し、同盟に加わった。ここに奥羽越列藩同盟が成立したのである。

6、新発田藩への仙米の恫喝

「新発田藩は、同盟不参加の態度をとり続けてきたが、同15日に仙台藩の玉虫佐太夫・鈴木直記、米沢藩の若林作兵衛らがやってきて、重臣溝口半平衛・同伊織らに面会し、次のように強硬な申し入れをした。 

・・この度王政御一新のおり、皇国のため尽力することとなり、奥羽諸藩盟約を結び、越後諸藩ににおいても追々同意を得ているが、新発田藩のみ加盟しないのはいかなる理由か、姦賊の暴行を防ぐため、諸藩出兵のところ、後方に異論の藩があっては進撃もできなないので、もしも同意できないのであれば、やむをえず手始めに事に及ぶであろう。・・

この結果、新発田藩も加盟を回答した。」  

・このアケスケな仙米の恫喝をどう考えるか、奥羽越の中小藩を大戦乱にまきこんだ大藩の罪科は大きい。奥羽で見るならばその第一は仙台藩であろう。 

奥羽越列藩同盟は、維新政権確立の大きな妨害となった。戦争のため民政は後手にまわり、戦費厖大、財政困難が、国際関係上の障害でもあった。                    

 -------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー--ーーー以上。 

 註*六項の《越後での会津・長岡藩と仙米》の1~6項の「括弧 」内の記述は、

    『新潟県史』編6・S62刊による。

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「奥羽越戊辰戦争の断面」2、終了。

これは、北羽歴史研究会第20回定例総会、記念講演のレジメ資料コメントの紹介です。

 

 

 

                       

   

 


「奥羽越戊辰戦争の断面」 講演レジメ抜粋1

2007-02-03 21:11:23 | 雑録

奥羽越戊辰戦争の断面

一、三春藩に対する誤説の解明 

 1、 7月16日の浅川戦で裏切りの発砲行為があったという濡れ衣。

誹謗?星亮一著『二本松少年隊』の文章。誹謗?星亮一著『仙台藩』の文章。「秋田藩と同じように卑劣だった」とはさらにいただけない。仙台藩の卑劣さは、嘆願書名で諸藩をあつめ、抗戦同盟化したこと。

  正論は、大山柏著『戊辰役戦史』「浅川付近の戦闘」である。「本戦闘に関し『仙台戊辰史」は戦闘中に三春兵が離反し、官軍に投じて同盟軍を撃ったため、同盟軍が敗退したように書いているが、官軍の諸藩報には、いずれも背面攻撃の効果を述べ、また背攻に当たった薩、黒羽兵の戦況報告、「土持日記」「東山新聞」にも記載されているから、間違いはない。また三春兵については何も述べていない。ただし三春藩の離反は

「仙台藩記」に「官軍、会津の兵を破り浅川の後に出ると、三春藩中途にして反覆す」とあり、官軍が浅川の後に出たのと三春の中途反覆の両因をもって敗戦したようにみえ、これが誤解を生じたものと思われる。而して三春離反についての記録を見ないが、恐らく浅川攻撃の出兵を拒否したか、あるいは出兵しても攻撃を拒否した程度で、積極的に官軍と合し、また単独で仙、会軍を攻撃、戦闘したとは認め難い。」

浅川の城山の上から、この地域を展望して思うに、釜子からの薩摩・黒羽の援兵に背後から攻撃された状況が実感できる。仙台藩等の三春藩の裏切り攻撃批判は被害妄想といえる。三春から浅川まで距離48キロの領地外で、三春に戻るあてもなくなる裏切り攻撃などありえず。みずからの安全も確保できない愚行をなす馬鹿な兵隊はどこにもいないでしょう。

2、 続「三春藩の事」、『三春町史』S59刊、  ? 「7月16日には、棚倉奪回を目的に浅川で戦いがあり、三春隊が背いたため東軍が苦戦したとして同盟諸国から疑いをかけられ、仙台藩士塩森主税の詰問をうけたが、外事掛り不破幾馬が弁明し事なきを得た。」  ? この時期、三春には連日同盟他藩兵が移動のため入り込み、新政府側を標榜することも不可能である。

? 7月26日新政府軍が北上して攻勢、三春藩は降伏、28日守山藩降伏、「西軍三春入城以前に仙台藩に使し、西軍三春入城のとき二本松にいたった藩士不破関蔵・大山巳三郎・渡辺喜右衛門は捕らえられて殺害され、同じく奥羽列藩同盟軍事局に派遣され、福島滞在中の藩士大関兵吾も殺害された。」   

仙台藩は、秋田藩の7月4日の仙台使者殺害を非難してやむところがない。だが仙台藩は閏4月19~20日の世良修蔵殺害のみならず、勝見善太郎も、さらに4月25日までに野村十郎・田中太郎太・弓削休右衛門・松野儀助・人夫繁蔵・鮫島忠左衛門・中村小次郎・内山伊右衛門等九人の奥羽鎮撫使の要員を殺害している。もちろん戦闘状態ではない時点での一方的殺害である。三春藩の使者や列藩同盟担当役への報復殺害はどうなのか。自らの非違行為を棚にあげての、秋田藩批判はお返しをしたい。

ニ、秋田藩、大館への侮蔑

1、星亮一著『よみなおし戊辰戦争』   ? 「秋田藩の非人道的行為に怒った南部藩は、鹿角兵を先鋒として秋田藩の支城がある大館に攻め込んだ」・・・南部藩の秋田攻撃は、家老楢山佐渡の佐幕思想が主柱にある。人により仙台藩の圧力によると釈明されてもいる。        ? 「なぜ鹿角が「チョウテキ」で自分たちは官軍なのか、大館の人々は首をかしげた。」・・・大館人は無知ということか、大館の武士団は4月の庄内攻めに出動しており、巷間官賊の別は知られていること。首をかしげたとは、無知扱いも甚だしい。

? 「楢山は戦闘にさきがけて、藩境の秋田藩守備隊に宣戦布告をした。 敵将茂木筑後は、「本藩に指示を求めるので、数日待って欲しい」と回答した。楢山は律義な武将だった。ちゃんど数日まった。この間に茂木は秋田から大砲ニ門を運び、戦闘態勢を整え、整ったところで戦争が始まっった。」・・・・ 星亮一氏のこのウソは許せない。秋田方をナメルも甚だしい。

? 「南部のだまし討ち」という言葉である。大館城を攻める際、楢山はあくまでも南部の武士道を貫き、堂々と宣戦布告を行った。これに対した秋田側は「隣国のよしみもあり、戦火は交えぬようにしたい」とまたも虫のいい申しいれを行い、楢山が「了解した。空砲でお相手仕る」と答えたと大館の人々は語る。だから戦闘が始まっても空砲だと思っていたら、実弾が飛んで来た。あわてて逃げたので負けてしまったと、大館の人は南部をせめた。」 「以来、鹿角の人々は、なにかというと大館の人から「チョウテキ」、「だまし討ち」とののしられた。南部藩に比べると秋田の藩風には、どこかずるさがあった。」・・・

・・・・戊辰の八百長戦は、4月17日会津土湯口の仙台瀬上隊の偽戦以外の例を知らず。あるいは閏4月20日官軍下の白河城を会津軍に攻めさせ、仙台藩は示しあわせての退去、在城の三春藩隊等に犠牲を与えた仙台藩の事もその類例といえるのかもしれない。  「南部だまし討ち」の文は、吉田昭治著「秋田の戊辰史」187pからの引用のようであるが、大館に空砲撃ちなどという戊辰戦の話題は存在しない。    戦端以前7月中から藩境に続々と軍兵の配置強化をしている南部藩に対して、抗議申し入れのところ、最初は7月27日に配置兵は引揚すると釈明、さらに実行なきための抗議に対し、8月5日に配置引揚するとの再通知を秋田側にしているということ。そして8月9日の攻撃開始である。 この事が南部側が秋田側に、だまし討ちといわれる所以なのである。  「秋田の藩風はズルイ」 と、この星亮一氏の文は、許せない。いわれなき中傷そのものである。

2、 大館十二所口の南部藩戦書の通知・・・『大館城太平記』三村雄吉著参照

「この日、南部軍は暁七つ(午前四時)十二所、別所街道の楢山佐渡、石亀左司馬の両軍は花輪に、葛原、新沢街道の向蔵人、桜庭祐橘、足沢内記の各軍は毛馬内に勢ぞろいし、花輪では目付の沢出善平から、毛馬内では同じく太田錬八郎から、はじめて「秋田藩討ち入りの次第」が読み上げられ・・・・・・」

 「十二所鎮将茂木筑後あて楢山佐渡、向井蔵人連名の戦書が渡されたのは、その一刻(2時間)前である。蔵人の「討入日記」によると《八月八日、秋藩へ進撃の次第、佐渡両名にて秋藩重臣十二所住人茂木筑後へ同盟違約之譴責文書にて申遣、且直に御境内へ人数繰込の儀申入る》とあるが、十二所が実際に戦書を受けとったの時は、すでに九日、それも八つ(午前2時)に近かった。 茂木居館を訪れたのは花輪同心の玉内市左衛門、関冨次郎の両人である。大玄関で「たしかにお渡し申し上げたぞ」と一声を残して、さっとひるがえるように帰っていった。」 ・・・・・ これは星亮一氏への反論です。

三、 星亮一氏の著作について

1)戊辰戦争関係の著作、40冊以上。大変な執筆力であり出版量と驚く次第です。 1935年仙台生れ、高校時代岩手県で過す。東北大学文学部国史学科卒、福島民報記者で会津若松勤務も、・・・・略。 仙台藩士族の後裔として星亮一氏は曰く、「明治維新は・・・屈辱の歴史であり先人の無念が胸にせまるのである。」「仙台藩の明治維新・・・そこに貫かれた反骨の精神は、東北の未来につながる優れた特性といわねばならない」『仙台藩』星亮一1987刊

故に、戊辰戦争史の記述に関する限り、星亮一氏の著作は仙台藩、会津藩を是とし他を非とする「確信感情」のものであることに間違いない。著作の多くをみるところ、真実を離れた感情的文章が、小説文体と相まって特定の侮蔑や偽りとして拡散されている部分があると読みとらざるを得ない。申し訳ないのですが極論すれば「薩長、怨恨呪罵」と評されるかもしれません。

2)同氏の『仙台戊辰戦史』H17年刊に次の文章があります。・・・・「戦争に持ち込んだ長州藩参謀世良修蔵の罪は大きかった。 もっとも世良は長州藩の最高指導者、木戸孝充の命令を忠実に守ったに過ぎなかった。元凶はあくまでも木戸こと桂小五郎であった。そんなに会津を倒し買ったのか。 木戸という人物、実像は狭量の男だった。」・・・・と、

上記を考えるに、仙台藩主導の列藩同盟こそ無益な戦争の拡大であるのだが、その反省はない。また逆に木戸孝充を狭量な人物とする星亮一氏の狭量さを感ずる。王制復古から維新政権の施政方針にいたるまで、木戸孝充の先見性によって改革がなされている。木戸孝充を否定することは、明治近代化の歴史の根幹を否定することであって、星亮一氏の擁護する会津と仙台列藩同盟の反動性と反歴史性を証明することに他ならない。廃藩置県も木戸孝充の存在なくしての早期実現はなかった。

三項終わり        ーーーーーーー以上(中断、四項以降別記)