北羽歴史研究会

出羽国北端より奥羽地方と北の歴史を展望し
北羽地方の風土文化作りに寄与する。

秋田歴研協の理事会開催

2008-11-19 13:30:50 | 催事情報

秋田歴研協の新年度第1回理事会が開催されます。


平成20年12月3日、於秋田市中通り、秋田文学資料館2階


1、第14回大会・歴史フオーラムの総括について。 2、会費値上げの周知と組織拡大について。 3、会誌39号の編集について 4、その他


明治維新と秋田藩

2008-11-18 11:54:13 | 雑録

明治維新と秋田藩<o:p></o:p>


  新政府について行けなかった秋田藩の後進性、平田派国事犯事件<o:p></o:p>


 戊辰戦後の維新改革の中で、秋田藩では、志賀小参事殺害事件、八坂丸事件、贋金事件、初岡敬治事件、が維新四大事件といわれてきた。これらの主因を考察するに、秋田藩の後進性人材不足が相互に絡み合う。 政府の開明政策に反発する不平士族によるテロの横行は、明治二年一月横井小楠暗殺から、同年九月大村益次郎暗殺(一味に秋田藩金輪五郎、黒幕は初岡との噂)明治3年5月には米沢藩雲井龍雄の政府転覆陰謀事件が起る。<o:p></o:p>


 同3年8月には、土佐の岡田恭輔・堀内誠之進らは、秋田藩初岡敬治に頼り、秋田藩の八坂丸をもって一挙に東京をつく計画準備中に逮捕されたといわれている。<o:p></o:p>


 公卿の愛宕通旭と外山光輔もまた、次第に公卿の権勢が失われていくのが不満で、平田派や士族と結んで、天皇を京都に奪い取る陰謀をこらした。明治4年3月7日外山光輔がまづ山口藩脱走兵隠匿で逮捕されて陰謀発覚、同13日愛宕通旭が逮捕された。以後連座逮捕は100名から300名に及ぶ。明治2年7月1日の戊辰戦役慰霊大祭での幟旗の当時からいわく付きの初岡敬治は6月3日、弾正台の召還により出頭逮捕された。12月12日に処刑。ほか秋田藩の罪科者6名が記録される。この事件を秋田県史等は初岡事件として矮小化して記述しているが、全国的には別名「平田派国事犯事件」といわれている。初岡敬治は、公儀人、秋田藩権大参事の要職にあり、この事件は秋田藩への信用を完全に政府首脳に失わせるにいたった。<o:p></o:p>


 王政復古以来の新政府は、「攘夷」を廃し、「開国和親」を基本としているのに、平田派や秋田藩があえて攘夷を主張し続けることは、維新を妨げる何ものでもない。秋田戊辰戦争の総括は、勤王に報いられずとひがむ前にまず、自らを問い、克服されるべきである。いわんや反政府諸藩の無反省派に付和雷同しては、さらに歴史を誤るであろう。 <o:p></o:p>


大正デモクラシーの後に現れた日本の政治は不幸な結果となった。その教訓もふくめて、世界に羽ばたく人材の育成、世界の平和と文化事業に送り出すこと。廃藩置県を世界に、世界連邦をつくる日本国、秋田の先進的役割を今後の若者に期待したい。・・・<o:p></o:p>


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矢立峠歴史の道   整備作業 11月

2008-11-17 19:14:29 | 活動情報

11月9日、昨冬の積雪で傾いた矢立杉の説明板の庇(ヒサシ)を補強しようと思いながら延びのびになっていた。とうとうまた冬がくる季節になってきた。秋雨つづきから天気のよくなったこの日、道具材料をもって午後から出動する。 現場について作業をはじめたところへ、津軽から来た一行を案内して中村弘美氏がくる。矢立峠歴史の道へ県外からのお客様がくるのは嬉しいものですね。来客の皆さんには感謝の意を表す。おかげで仕事も楽しくできるというもの。庇を付け替え雪の重みで曲らないよう針金支えにする。塗装も剥げてきているので、ペンキを塗り重ねるなどして、補強完了。この冬はもつかもたぬか来春でないと成果は不明。終わって我が家についたらもう日が暮れた時間であった。


11月14日、先日は説明板の補強だけで時間がなくなったので、今年度整備作業の締めくくり歴史の道ルート点検に出かける。杉の沢から古街道津軽側へ、湯ノ沢から明治新道を秋田側赤湯へ、旧国道から古街道を登り、峰道、矢立杉跡へ戻り。案内標柱の必要箇所、ぬかるみ要改善など来年度のいくつかの懸案事項も散見される。


 矢立杉株跡と説明板


矢立峠歴史の道を守る会 wa


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奥羽越列藩同盟に歴史的意義はない  1

2008-11-16 17:10:16 | 雑録

     奥羽列藩同盟に歴史的意義はない        鷲谷豊<o:p></o:p>


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 一、明治維新の意義 … 日本は明治維新によって近代化の一歩を踏み出した。<o:p></o:p>


1、革命としての明治維新 <o:p></o:p>


「世界からの接近を謝絶し、鎖国をして独立を保ってきた日本民族は、およそ250年の平和のうちに、高度の国民文化を形成普及せしめたが、19世紀半ばに国際的関係から開国の避けられないことをさとり、自主的に大胆に西洋文明を取り入れて、近代国家をつくるために、一つの文化革命を行った。これが明治維新である。」<o:p></o:p>


 明治の再評価 「明治の変革は画期的な歴史の進歩であった」ことは否定できないのであって、国民ななお不自由であったにせよ、徳川時代に比べれば身分制度はなくなり、自由は大幅に拡大したのである。その自由は、半封建的に搾取される自由だともいえようが、きびしい外圧の下で、資本主義を急速に成長させるための、原始的蓄積のはげしさは歴史的必然というほかないものであり、その日本の生産の進歩の早さは、世界史上に例のないものであることはわすれてはならない。」(桑原武夫)<o:p></o:p>


明治維新は起らざるを得なかった革命  …植民地の危機から脱する…<o:p></o:p>


「不平等条約は日本に主権なし(治外法権)、それに関税、この条約では日本は自分の国の関税のくせに、自分の国で税率をきめることができない。…こうゆう面からみても明治維新は起らざるを得ない革命ですね。… 幕府はもう一つひどい約束を強いられていた。プロシア(独)が、どさくさにに幕府から北海道七重村を租借してしまっていた。中国の清国末期という感じで、欧米の列強というものは日本を見ていたのでしょう。  第二はアメリカが江戸のちの東京、これと横浜を結ぶ鉄道を敷設させてもらいたい、と申し入れました。世界について無知な江戸幕府は、どうぞと言ってしまったのです。鉄道が外国経営になりますと、やがて駅や沿線まで治外法権の地、つまり日本にして日本にあらざる地、さらにいえば植民地になってしまうのが濃厚です。  第三は、英国とフランスが、横浜に軍隊を駐屯させる、という約束です。幕府が結んだ不平等条約によって、横浜・神戸・大坂などに居留地があります。中国語でいうと、租界、たとえば新中国の前の上海租界、そこに外国軍隊が駐屯している。堂々たる独立国の中にですよ。居留地というセッツルメント…小さな規模の植民地…があって、そこに外国軍隊が駐屯している。<o:p></o:p>


/SPAN>そういう三つの条項、つまりプロシアによる北海道の一部租借、アメリカによる鉄道敷設、英仏による軍隊の駐屯、これは明治国家が、国家成立とともに当該の国々と折衝して、白紙に戻しました。よかったですね。ところが、治外法権と関税のほうは、各国は頑としてゆずらず、据え置きです。…明治32年にやっと撤廃になりました。」『明治という国家』司馬遼太郎著より抜粋<o:p></o:p>


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奥羽越列藩同盟に歴史的意義はない  2

2008-11-16 17:05:28 | 雑録

3 維新変革の必然と背景<o:p></o:p>


「二百数十年の伝統ある幕府権力は、かの「黒船」の来航を機として急に激化した政争によて、わずか10年あまりのうちにもろくも崩壊した。「大獄」をはじめてする幕権維持策も、10年たらずに崩れたのである。また、この幕府打倒の中核となった大名権力や武士階級自体が、ひきつづく廃藩置県や徴兵制さらに秩禄処分によって、倒幕以来わずか九年間のうちに否定された。さらに、その間の地租改正や殖産興業をはじめとする諸施策のなかで、資本主義の諸前提すら形成されていった。西南戦争は、倒幕に動員された士族たちの末路を、一面からあざやかに映しだしているともいえる。(註:明治維新は、さらに士族の特権の放棄を必要とした。Wa)<o:p></o:p>


 このような短期間の激動を規定した要因は、もちろん一様ではない。明治維新が、日本人みずからの力で実現した数すくない歴史的大変革であったという意味においても、幕府体制下に累積された、国内における変革の客観的かつ主体的な諸条件の成熟として、明治維新をとらえなければならない事はいうまでもない。変革の推進主体は、それまでのわが国の歴史のみが具体的に与えるほかはないからである。


(註:徳川幕府支配の矛盾の現れ、政権の変わるべき時がきた必然が、維新の結果となった。Wa)<o:p></o:p>


 …その変革のプロセスを促進させ、変革の各段階の歴史課題をそれぞれ制約し、政争の具体的様相や大義名分のあり方を規定する上で、明治維新の場合は、アジアと日本をめぐる、まったく新たな国際的要因の決定的な意義が、とくに強調されなければなるまい。1850年代以降、いまだアジアの東海上に「鎖国」していたわが封建小国が、突如として先進資本主義列強との従属的な外交関係を強いられ、近代的大工業が支配する世界市場の底辺にくみ込まれたという背景こそ、維新変革の基本的な契機でさえある。」…… 以上、『世界史のなかの明治維新』芝原拓自著より  <o:p></o:p>


 二、歴史の進展にブレーキをかけたもの<o:p></o:p>


1 列藩同盟に歴史的意義はない。 <o:p></o:p>


 奥羽列藩同盟の当初は嘆願同盟といわれるが、表面は武備恭順、内実は鳥羽伏見の雪辱をはらすと戦意の高い会津と、征討を至上命令とする鎮撫使との間を調停しようとする事自体が無理なことである。征討への足引張でもある。 仙台藩は米沢藩とともに奥羽諸藩を参集させ連署嘆願をだすが、この列藩会議を新政府に反抗する軍事同盟に変質させるには、さして日を要しなかった。総督府下参謀世良周蔵の暗殺、白河城攻撃と新政府への反乱が始まった。仙台主導のもとに越後諸藩を加え奥羽越列藩同盟となり、旧幕幹部を加え、上野輪王寺宮を盟主とするに到る。しかし同盟の「速やかに江戸城を押さえ、政権を樹立す」の当初の戦略構想は、空虚な字句でしかなかった。新政府軍が藩境に迫るやたちまち仙台藩は他藩を見捨て、新政府軍に降伏したのである。歴史の結果として列藩同盟は、無益な戦争の拡大と戦場の領民へ多くの苦しみを与えたにすぎない。そして自らの墓穴「白河以北一山一文」を掘ることになっただけなのである。<o:p></o:p>


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奥羽越列藩同盟に歴史的意義はない  3

2008-11-16 16:58:40 | 雑録

 列藩同盟文のごまかし<o:p></o:p>


 奥羽諸藩盟約書なるもの、奥羽「鎮撫総督府」の字句をいれ、あたかも鎮撫総督府のもとにあるかの如く諸藩をあざむいている。  前文に「今般奥羽列藩仙台ニ会議シ、鎮撫総督府ニ告ゲ以盟約公平正大ノ道ヲ執リ、心ヲ同ジウシ力ヲ協セ上王室ヲ尊ビ下人民ヲ撫恤シ、皇国ヲ維持シ宸襟ヲ安ンゼント欲ス・・」とあり、条文二項に「若シ不慮ノ急用アラバ比隣各藩速ニ救援総督府ニ報告スベキ事」ともある。    署名筆頭は,但木土佐(仙台)、2武股美作(米沢)、3野々村真澄(盛岡)、4戸村十太夫(久保田)、最後25番目は天童藩2万石、この石高前後の小藩が殆どをしめる。大藩の恫喝には勝てない藩が多い。まんまと仙台藩の術策にはまってしまった。   こうして反乱戦争は拡大した。戦渦のない解決をもとめて集り、署名した中小藩は、仙台藩にまんまと裏ぎられたのである。     秋田藩戸村十太夫は、反政府に同意して署名したのではない。仙台藩のペテンにひっかかった。<o:p></o:p>


3 秋田藩主から仙台藩主への異議申立て<o:p></o:p>


秋田藩主義尭が、列藩の会議条件に不同意を表し、家士飯塚傳也を使いとし、書を仙台藩主に送る。この頃仙台藩らは官軍が奪回した白河城をめぐり負け戦を性懲りも無く続けていた。 <o:p></o:p>


 「先達て白石に於 御陣所家来とも相談致し候の一儀、甚だ心得難く仕り末柄の事故此方承服仕らず候、家中共へも申含置候間、貴様如何に御座候哉、朝廷に御味方仕らず候へば、御同然武家の本望を失い、且は国家の一大事、貴様会津へ御味方の儀、御延引然るべき候、御所存次第及ばず乍 九条殿へ執成仕る可候、依て傳う也 差遣す口上にて具さに申上べく候 以上。 辰五月廿九日 秋田中将 / 仙台中将殿  」 <o:p></o:p>


 、会津藩と列藩同盟の宣戦布告…  仙・米が会津の赦免を嘆願して解決はできぬ事。<o:p></o:p>


1) 奥羽鎮守府から会津藩への書 慶応四年4月25日   「松平肥後守追々暴動に及び候おもむきに候へ共、罪魁の義一等ユルサレ候上ハ 悔悟服罪 御仁慈を仰ぎ候においてハ 寛典に処セラルベキ候間 心得違い これなき旨 御沙汰候事」<o:p></o:p>


2) 会津藩より総督府への返書 慶応四年閏4月15日。これは会津の最後通報である。<o:p></o:p>


「御沙汰のオモムキ有難く拝承仕リ候得共 徳川家名ナリユキ 見届けザルウチハ 謝罪仕るマジキ覚悟に御座候間 然るベク御沙汰願い上げ奉り候…  陪臣 松平肥後守 」    注:会津が嘆願書を出したが奥羽鎮撫使に拒否されたなどと、記述している本(反政府論調の)もあるが、この文書では、嘆願書ではなく宣戦布告書だといえる。<o:p></o:p>


3)臍軻追椶㎠蕷治慣遑横各濾魴錣隆墨造涼顱◆嵜燭房婪瓩両紊蓮禹匸覲阿剖狄機⊂詭世嬰呂掘雋鐚修莨紊押進♢慮羣斬舛鯊圓董帖廚个燭♤⑹檀鏤箸砲弔い浸垢任棒臑翦佑蓮檀鏤伐嫉暇点の票△鮖Τ欧掘馗填Δ鉾神ゔ榿人陲貌Г濱擇辰晋紊箸いΔ海函SPAN><o:p></o:p>


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奥羽越列藩同盟に歴史的意義はない  4

2008-11-16 16:37:53 | 雑録

4)仙台藩による奥羽鎮撫使要職者の殺害は、即政府への宣戦布告,反乱である。宣戦布告なき鎮撫使要員の殺害は、七名。これは反乱。世良修蔵とほか、勝見善太郎、人夫繁蔵、松野儀助、野村十郎、内山伊右衛門、鮫島忠左衛門<o:p></o:p>


5) 会津藩の鼻息が荒いのは、4月10日庄内藩と攻守同盟を結んでいること。 4月19日官軍側の宇都宮城が幕府脱走の大鳥軍に占拠され、優勢が報知されたので自信。  (4月23日には官軍で奪回したのだが、官軍の奪回は報知されなかったのだろう)上野彰義隊が大勢力になっている事にも期待、江戸城回復などという。<o:p></o:p>


6) 世良修蔵の殺害は、閏4月14-15日の時点で仙台藩はすでに方針化していた。  会津藩による実行が計画されていたが、世良が白河から福島にでてきた状況変化で、仙台藩が直接殺害するに到った。 これはまた仙台藩の宣戦布告の行為である。<o:p></o:p>


7) 世良でなくても戦争は避けられず ~ 反政府戦は仙台藩の意図・・・・・・東北戊辰戦を世良修蔵のせいにしている反政府方主張が聞かれるが、仙台藩べったりの『仙台戊辰史』を書いた藤原相之助氏の遺稿で、『奥羽戊辰戦争と仙台藩』が出版され、その序文のなかで、息子藤原勉氏は次のように述べている。<o:p></o:p>


 「父は世良修蔵の理解者をもって任じていたようで、今度世良修蔵を特に取り立てて書いたのも奥羽の人々に世良事件および世良という人物についてもっと理解してもらいたかったのだと思う。そして父自身は世良事件が起こらなくても戊辰戦争は避けられなかった、と考えていたようである。」(序この書のなりし次第12頁)・・・…註:つまり薩長なにするものぞとの仙台藩の戦う意思よりきたる反乱なのである。そこに維新(その時点では、王政復古=神武創業=御一新=新政府機構=鎮撫使)の先見性はない。<o:p></o:p>


8) 奥羽越列藩同盟は 「幕藩体制的秩序から抜け出せない後進地域における諸藩の連合である」「同盟を統一する原理なし、解体は必然的結果である」 石井孝『戊辰戦争論』<o:p></o:p>


 三 仙台藩・南部藩等の謝罪状 ~ 無益な戦いの果てに<o:p></o:p>


1)仙台藩  伊達慶邦降伏謝罪状<o:p></o:p>


 臣慶邦恐惶頓首位血奉嘆願候。今般会津御征討之砌名分順逆を誤り、於出先家来共官軍抗し宸襟を悩ませ奉り候段恐惶至極、臣父子之名分不相立先非悔悟、今更何共可申上様無御座候。臣乍不肖も素より抗敵朝廷存意毛頭無御座候得共、 全遠境隔絶之壁土に罷在、春来天下事情形勢一々承知不仕、恐れ多くも厚き叡慮之旨に不奉伺、遂に兼て指揮不行届よりの処置にて以可にも重々奉恐入候次第に付、此上は本城に罷在候も甚だ奉恐入候間、速に城外退去謹慎恭順、出張の隊長参謀臣厳敷慎み申付奉仰朝裁、闔藩誓天地勤王之外他志無御座候。就ては同盟之列藩へも一同御寛天御処置被成下候様、冒万死偏に奉嘆願候。誠恐誠惶謹言。    九月 藤原慶邦 判<o:p></o:p>


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奥羽越列藩同盟に歴史的意義はない  5

2008-11-16 16:29:25 | 雑録

2)会津藩  松平肥後降伏謝罪状<o:p></o:p>


 臣容保乍恐謹而奉言上候。拙臣義京都在職中蒙朝廷莫大之鴻恩ナガラ万分之微衷も不奉報、其内当正月中於伏見面暴動之一戦旨意行違不憚近畿奉驚天聴深ク奉恐懼候。爾来引続今日迄遂に奉抗敵王師僻土頑陋之訛誤、今更何と可申上様無御座候。実に不容天地の大罪惜身に所無く人民塗炭の苦を受られ候次第、全て容保の所致ニ御座候得バ此上如何様の大刑仰付られ候共、聊かも御恨み申さず候。臣父子并家来死生偏に奉仰朝之聖断、但し国民婦女子共に至候而バ元来無知無罪の儀に御座候へば一統の御赦免被仰出候様、代而奉歎謝候。依之従来…(以下略)  慶応四年九月  源 容 保 謹上                         <o:p></o:p>


3)庄内藩  酒井忠篤(ただずみ)降伏嘆願書<o:p></o:p>


 臣忠篤恐稿惶頓首奉嘆願候、…主家徳川氏より江戸取締…勤王之端末と奉存乍不及尽力…不詳元より官軍に抗し候意念毛頭無く御座候得ども、兼て指揮不行届且つ遠路僻地に罷在候へば今春以来の事情形勢も不奉伺家来共出先に於て王師に抗し奉り終に今日の形成に立至候段、先非悔悟身を措く地も御座無く候次重畳恐縮奉り勤王の外他志無候…  (以下略)  九月   臣 忠 篤  <o:p></o:p>


4) 南部盛岡藩主の謝罪文<o:p></o:p>


                               臣 利 剛 <o:p></o:p>


恐懼頓首奉嘆願候 当春会津容保御征討之砌奉応接之命速ニ出兵仕候得共 同藩謝罪之儀仙米両藩ニテ周旋ニ付同盟仕候 其後秋藩ヨリモ及違儀候砌 同盟諸藩進撃之上弊藩ヘモ屡々才足ニ付 遂ニ進撃ニ至り候処 今般重臣三戸式部京師蒙御内旨 且久我様ヨリモ御内諭有之帰国ニ付到仁好生之叡智ヲ以相伺奉感偑候   朝廷之御趣意柄ニ相戻り候儀ト今更悔悟恐懼之至りニ不堪候   全東埵之国柄当今情態通徹不仕一時誤方向重畳恐入候 然ル処此度御内旨蒙国臣一定仕候上ハ奉仰朝裁之外他事無之 深謹慎罷在候 臣雖不省勤王之素志当夏九条殿弊藩へ御滞陣中奉建言候通り 誓天地二念御座候間 前後御燐察被成下蒼生安堵ニ至り候様 偏ニ奉嘆願候 誠恐誠惶謹言<o:p></o:p>


註1:勤王派家老東中務家老を蟄居させ、実権を握る家老楢山佐渡の強行論により南部藩諸隊は宣戦通告と同時に8月9日秋田領攻撃に入る。8月6日仙台藩南隣の相馬中村藩は官軍に降伏し、8月7日には官軍先鋒として仙台軍への攻撃に入り、仙台兵は撃破されて総勢が仙台領へ退去した。その翌日からのことである。二本松藩の落城は7月29日、列藩同盟は崩壊の過程に入っている。この時期に佐渡はなぜ参戦か、佐渡の秋田攻撃は、判断の愚かさというより、反政府の確信犯行動であろう。<o:p></o:p>


奥羽越列藩同盟に歴史的意義はない  6

2008-11-16 16:10:40 | 雑録

5) 南部藩宣戦通告へ秋田十二所茂木筑後からの返書、朝敵となるなと警告<o:p></o:p>


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「過ル九日御投書の砌・・・城下表へ伺いの間猶予儀申上…承諾も無之即日御討入…庄内一藩…全く徳川家と君臣の義を重んじ会津に同心し朝命に違背に及ぶ候処顕然に候… 列藩同盟し討庄の兵を解きたる… 仙台の暴威に畏縮したる所以にして… 仙米庄等の諸藩より… 兵を出して我国にせまれり。… 尊藩と弊藩とは旧来の御隣好… 徳川家の臣下たる家筋とは同日の談には無之候… 共に天朝を守護し奉るの心底に存罷在候所、あに図らんや突然御討入りの段御信義を取失の筋にまじきや、御三卿弊藩へ御滞陣官軍数万御召寄の所、右へ御対し御出兵にては即朝敵の名を御逃れ有まじき哉と…  申述候通同じく天朝の御親藩に候へば再び熟慮の上天朝の為誠忠尽力奥羽の朝敵を誅戮し、上は宸襟を安じ奉り下は万民塗炭の苦を救われ候ハバ… 御芳名天下後世に輝き申可と尊藩のため只ひたすら祈望候…       


 茂木 筑後 /  八月  楢山 佐渡 様 向井 蔵人 様」 『秋田沿革史大成上巻』<o:p></o:p>


<o:p>lt;/o:p>註:この秋田側茂木筑後の南部側への返書の文言はよく知られていない。とくに南部側では無視しているのか南部側通告のみを取り上げている。秋田側大館地元もよくこの返書の存在を知るべきである。 <o:p></o:p>


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 四 奥羽をはじめ戦争拡大結果による新政府の国策危機<o:p>lt;/o:p>


 インフレと金融混乱、贋金横行。幕府から引継ぎの外国借金。外国からの贋金保証と引換えを要求された。<o:p></o:p>


明治二年五月までの政府金札発行4800万両。外国が所有している日本の悪貨は3000万ドル、にせ金の処理差額600万ドル、借金600万ドル。<o:p></o:p>


贋金は、戦争の過程で会津藩などの反政府諸藩のほか、薩摩・芸州・土佐・筑前などの大藩も贋造している。新政府は明治2年10月に悪金引換えを布達した。回収された贋金では旧会津藩領若松県は、他の藩県を大きく上回る17万7858両余にのぼる。 (註:奥羽越反乱と脱走軍蝦夷地と拡大した戦争の要因が大きい。出動官軍諸藩の兵食・人馬賃銭は政府負担で<o:p></o:p>


あったが、終戦後も清算が長びき厖大な額ともなりついに、戦場になった藩のみの限定支給となるなど。WA) <o:p></o:p>


 新政府は明治二年2月、二分金と一分金の製造中止ことを各国公使に回答、5月28日には諸侯会議の決定だとして、金札の発行停止、紙幣製造機械の焼却処分、明治五年までの正貨との引換えを布告、同日、贋金製造者の厳罰方針を明確にした。 そして七月には外国人所持の悪贋金金銀貨の正貨取替えを各国公使に約束し、12月には諸藩札そのものを禁止する。その一方で、太政官内に造幣局を設置した。11月には各国公使に新金銀銅貨の品位および新貨・旧貨・外国貨との関係について通告する。 大阪における造幣寮の建設(開業式明治4年2月)は、明治初年の近代化政策の象徴といえる大事業である。           岩波講座『日本通史』第16巻「維新政権論」宮内正人<o:p></o:p>


/SPAN>(註:人的損害 死者 政府3750 反政府4690  負傷 政府3845 反政府1509 未詳 WA)<o:p></o:p>


奥羽越列藩同盟に歴史的意義はない  7

2008-11-16 15:54:03 | 雑録

 /SPAN>五 反省の無い人々 …  雪冤(セツエン)に固執<o:p></o:p>


■  反政府諸藩の藩主は、反抗の戦いを悔い謝罪状を出し降伏した。藩の重役は処罰されたが、それも既に戦死している重役の場合もあり、藩主は後継ぎに替わっただけで安泰だった。なんとも寛大な収拾であった。そんな事も影響しているのであろうか、かっての謝罪降伏を忘れたように、薩摩長州への罵倒や「列藩同盟意義論」などを持ち廻す、旧藩関係者が横行するようになっている。賊軍とされた恨みつらみ、反乱に歴史的意義はないのに意義を立てようとする。彼らは明治維新の大局的観点は無視である。戊辰戦に敗れた恨み節の出版物がまた東北から全国にあふれている。H氏が書く怨恨の戊辰戦出版書は、昭和61年以降でも驚く無かれ50冊余に亘る。その偏狭さ執念は恐ろしき次第である。 <o:p></o:p>


■ H氏著『偽りの明治維新』に対する某書評を紹介する。「…歴史を語るのか?差別を語るのか?、会津の悲劇を語る時に、明治時代に虐げられたと会津の人は語るそうだが、140年も前の話を殊更蒸し返して、山口の人たちを罵倒するのは正義なのか? ほかのレビユーでも書かれているが、原爆の被害と会津の落城と同じように見るのはどうなのか? 放射能の後遺症に苦しむ原爆を受けた人たちと、会津の武士をなぜ同一視するのか? 放射能の後遺症に苦しむ人たちを引き合いに出しているというのは、被爆者への追悼がこめられているのだろうか? 山口の人間は残酷と書かれてはいたが、単に被爆者を利用して書かれていただけでないか。また、会津武士を賛美する人たちが、虐げられた階層の人たちを見下すというのは何故か? 偽りの明治維新とは、作者自身の事を指しているように見えるが、穿った見方すぎるのか? 疑問点のみを出したが、どうも選民的、排他的な思考のみで書かれた内容にただ呆れるばかりである。」アマゾン書店の広告HP、 註:どんな問題書か!と購入を誘う宣伝か?<o:p></o:p>


■ 平成二十年、戊辰戦争140年というタイトルでの催事の内容は以下。    1) 5/24 宮城県七ケ宿町主催 講演会「戊辰戦争140年in七ケ宿」 講師星亮一氏ほか  2) 5/26-27戊辰戦争140年白河集会」 於白河市 主催戊辰戦争研究会(星亮一氏関係  3) 7/28 於白河市  戊辰戦争140年  講演・星亮一氏  パネルデスカッション等  4) 9/10 岩手県宮古市 月間タウン主催[榎本艦隊寄港140年記念祭]<o:p></o:p>


5) 9/20 会津若松 東山温泉 ・・福島民友新聞社主催、[戊辰戦争奥羽越列藩同盟140周年記念歴史シンポジュウム]・義において忍ぶべからず・ 講演「会津の精神―徳川常孝」[…同盟の歴史的意義を考えるー中村彰彦]、パネリスト・各藩主子孫か、会津松平保久・桑名松平定純・仙台伊達泰宗・庄内酒井忠久・長岡牧野忠昌・米沢上杉邦憲。会津若松市長… 註:旧藩主後裔はどんな顔して参加した?WA<o:p></o:p>


6)11/23 宮城県白石市主催 [戊辰戦争140年in白石]列藩同盟の意義を再考する・・  列藩同盟加入の自治体が会盟の地「白石」で一堂に会し、同盟の意義を全国に発信する。同盟自治体の歴史連携で「まちづくり」の発展に資する。… :これは時代錯誤に過ぎる。WA<o:p></o:p>


■ 仙台藩主導の列藩同盟は無益な戦争の拡大と犠牲の拡大、武門の意地と称するものが、領民大衆を悲嘆に陥れたに過ぎない。新政府・新政治の発足と進展を阻害しておきながら、何の歴史的価値があろうか。いまなお悔悟せぬ人々に憐憫を思う。  <o:p></o:p>