『思考・戊辰戦争で重責を果たした本荘藩』著者発行・小番貞憲(こつがいさだのり)・昭和63年刊。・・・
抜粋「奥羽列藩同盟と本荘藩」・・・ 閏4月初旬、仙台・米沢二藩が盟主となり奥羽列藩へ使いを遣し白石に会合す。本荘藩より六郷大学、用人柴田泰輔を副へ、その他祐筆源間弥三郎、渡合弁吉及び今の周吉、斉藤岩之丞を率いて出席する。 閏4月21日、白石に到れば「案」既に成りて示さる。 六郷大学が滞留終日して密やかに聞くに、京師の官軍白河に到り又鎮撫使保護の兵も暫時応援に到ると聞く。
六郷大学、白石より脱せんと欲するも得ず、偽りて病と称し、密意を柴田康輔に伝え、急行して本荘にかえり藩主に陳べることとす。ここにおいて家老守屋杢右衛門を密使として久保田藩を経て、それより能代に到りて白石会合の顛末を総督府に具申す。参謀大山格之助その赤誠を嘉す。
一面白石にては盟主の重臣より、本荘藩用人柴田康輔の出会を促す。康輔窮す。 六郷大学、本荘より白石の康輔へ急のふれ文を出す。その要点に曰く。「官軍荘内征討のため海路大いに到らん、本荘は小藩微弱、速やかに帰り防御の計あれと」、康輔は列藩の重臣に示す。
重臣ら使夫を呼び親しく訊う。五十嵐亀吉、口才あり故らに質朴を装い虚大を語り、官軍の軍艦、連日船川港に到る。片時も忽にすべからずと、盟主(仙台米沢)の重臣ら軍艦の旗章を問う、亀吉曰く、丸に十の字、又一の字の下に三つ星等なりという。 重臣ら黙然たる事久しい、ついに康輔の帰国を承諾する。
康輔愴惶旅装を整え急行して帰る。 数里毎に関所あり、衛兵拒んで曰く。「久保田藩未だ決せず、貴藩(本荘藩)また結托せしならん、仙府の命を端たざれば通過を許さずと、康輔びっくりし、つぶさに白石の事情を陳べるに僅かに許されて通る。既にして虎口を脱するを祝す。以後行くほど又二、三の関所あり、閑道を微行するに如かず。 若し一日を緩らせば、仙使殺戮の件、白石に達し或は免れきらんと、議一決し、山野を渉り夜行して帰る。
果たして白石に於いては柴田康輔に帰国を許せることを悔い、爾来仙台に於いては、本荘藩を敵視し、江戸より藩地へ回航の兵器、貨、財を石巻港に於いて略奪し、及び小銃百挺付属の弾薬、天幕等を陸送するものを仙台の一門、伊達主殿の領地川崎に令して没収し、その宰領田代乙治、志村千代助、小野彦七、庄司善治等を捕らえて獄に下し、日々杖で叩き、尚飲食の分量をいたづらに増減して困窮せしむ。殆ど堪える能わず、四人の者屡々死を請うも許さず、然し仙台藩降伏後約四ケ月にして幸いに免れるを得たり。 」
以上、仙台藩の列藩同盟強行策の一端を知るべし。