北羽歴史研究会

出羽国北端より奥羽地方と北の歴史を展望し
北羽地方の風土文化作りに寄与する。

戊辰戦 、戦術なき会津藩

2011-03-13 16:06:50 | 雑録

◆参考 戊辰戦、戦術なき会津藩     www.d4.dion.ne.jp/ からの抜粋<o:p></o:p>


 容保とその補弼者は勇敢という無形の資源を過信した無謀な戦いの連続を敢行した。そして戦死者の多さを新政府軍の暴挙と残忍性に会津系史家?は帰結させている。当面する脅威に対抗できる有効的な対策(装備武器軍事力)もない会津には別の戦いがあったはずである。 会津藩の降伏を待っていたかのように農民によるヤーヤー一揆が発生した。第二次幕長戦争にみられる挙藩体制による戦いは会津藩にはなかった。そして無意味な家臣団家族の自決があった。多くのHPでは壮烈な自決と書くが、単なる年長者による幼少者への一方的殺害である。壮烈でもなんでもなく単なる前途を悲観した殺人を含んだ自殺だ。壮烈という言葉遊びと悲壮感で同情を買ってもどうにもならない。もう少し問題の本質を見たらどうだろう。非戦闘員の疎開など有効な方策は事前に打てたはずである。(続)w<o:p></o:p>


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東北諸藩 米沢、仙台藩の戊辰戦争

2011-03-13 15:49:33 | 雑録

参考   米沢、仙台藩の戊辰戦争   


                      インターネットd4.dion.ne.jp抜粋<o:p></o:p>


 奥羽列藩同盟は、京都守護職で会津藩主の松平容保の処分問題と、江戸薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩の追討令に端を発し、東北北陸の31藩が同盟を結んだものである。 / 慶応3年4月下旬東北列藩同盟は公儀府と軍事局を設置した。東北地方に別の政体を確立したのである。<o:p></o:p>


一国二政府の形態となった。諸外国は両政府に戦争には局外中立を宣言した。 当然統一国家を創ろうとしていた西南雄藩との全面戦争は避けられなくなった。 だが、東北政府指導者層に、1.戦争が銃弾大量使用の消耗戦の時代に入っていた。2.ロジステイクが万全か。3.財政的裏づけがあるか。4.汽船の時代に入っていた。有効的活用が視野に入っていたであろうか。/  これらが認識されていたのであろうか?否、全くといってよいほど認識されていなかったであろう。… … / 財政的裏づけについて  仙台藩御用達しの日野屋中井新三郎は破産寸前に追い詰められ、戦い終わって藩の借金は200万両にたっしたとう。 米沢藩は、越後下関渡辺家に戦費を調達させた。また、庄内藩も本間家に戦費を調達させている。 長期戦になれば、まず東北、北越、奥羽諸藩が財政的に音をあげたであろう。 長岡藩戦費償還目途がたたず廃藩置県をまたずに版籍奉還を行っている。/  戦える実力も能力も財政力もなく新政府(西軍)に戦いを挑んだ。敗戦は自明の理である。 戦いに先立つ閏4月20日、鎮撫総督府世良参謀殺害の報が公儀府に伝わるや、愉快、愉快と並み居る老臣が喝采したと史書は伝える。これから起こるであろう自藩の惨憺たる敗戦を想起していたであろうか。/ …<o:p></o:p>


慶応4年9月4日東北北越諸藩が新政府軍(西軍)とまだ戦っている中で米沢藩は降伏。米沢藩が土佐藩の申しいれを受け入れる経緯について、「木滑要人(きめなりかなめ)日記8月19日、晴」「上方数十藩之大兵押下、奥羽軍気日ニ縮り、最早、今日に至り候テハ萬々可切開見込も無之」、戦争をやってみて初めて気が付いたが、相手の装備に圧倒され手も足もでなかった。ここまで負けてしまうと現状を打開する手段がない。米沢藩 戦って初めて彼我軍事力の懸絶ありしを知る。愚かというべし。米沢藩は自ら決断の先にある惨禍を想像すべきであった。<o:p></o:p>


… / 指揮官達は彼我戦力と補給に絶望的隔絶を知る。死が必然となる局所戦で肉薄攻撃が繰り返されたなら、間違いなく厭戦気分が横溢する。藩首脳部は何を考えたであろうか。」続w<o:p></o:p>


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ドイツに日本の領地を売ろうとした会津・庄内藩

2011-02-09 20:58:09 | 雑録

欧米の植民地にされる危機がせまっていたことの驚き。


2月7日づけ朝日新聞の文化欄。「維新期の会津・庄内藩、外交に活路」「敗者の歴史に新視点」とのタイトルがあった。これは、新政府に対する反乱戦争において、あたかも会津藩庄内藩が敵対する正論を得ているかの如くの、ニュアンスであり、承知できない記述と言われなければならない。  「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」とする。日本が植民地とされるであろう、その危機が、現実のものになろうとしていたのだ。 それがドイツの文書館から見つかったのである。それは会津庄内藩の新政府への反抗の罪にさらに上乗りの罪を重ねるものと言えるであろう。また、 どうみても奥羽越列藩同盟の無益の反乱は糾弾されるべきと言える。


NTT秋田支店のホームページのうそ 戊辰戦争

2010-08-06 11:35:31 | 雑録

NTT秋田支店のホームページ


「いいまち秋田」という秋田県のあれこれを一般に紹介しているホームページではあるが、その項目のひとつに「幕末維新」というコーナーがある。そのタイトルが「秋田藩が官軍に寝返ったのはなぜ?」となっており、これはきわめて問題である。国語の使い方間違っていませんか。


また冒頭には「秋田藩は東北諸藩と白石会議で盟約を結んだが、脱退して官軍方についたため、隣接する他藩の怒りを買い、県内各地で激しい戦いがあった」とある。また「東北諸藩の中で、なぜ秋田藩だけが官軍に?」という見出しのほか、「奥羽各藩すべてを敵にまわすことになった」ともある。しかしこれは明らかに誤った認識であり、デタラメである。


新政府軍に同調したのは、秋田藩のほか新庄、本荘、矢島、仁賀保、津軽、黒石の各藩。さらに三春、守山藩は仙台藩に従う擬似態度で難を避け、政府軍の領内入りと同時に政府軍に従軍している。秋田一藩が孤立ということにはなっていない。


「秋田藩が寝返った」これは仙台藩の言い草である。秋田側から言わせれば、仙台藩は戦禍をさけるためと称しての嘆願同盟をつくり、それを反政府、会津藩援護の戦争同盟に転化させた。これは戦争回避のため集まった中小諸藩への仙台藩のウラギリにほかならない。裏切り、寝返りの本拠は仙台藩なのである。


秋田藩主が仙台藩主へ勤皇に立ち返るべきとの書を発し使者をおくっている。それを紹介しておく。 「先達て白石に於 御陣所家来とも相談致し候の一儀、甚だ心得難く仕り末柄の事故此方承服仕らず候、家中共へも申含置候間、貴様如何に御座候哉、朝廷に御味方仕らず候へば、御同然武家の本望を失い、且は国家の一大事、貴様会津へ御味方の儀、御延引然るべき候、御所存次第及ばす乍 九条殿へ執成仕る可候、依って傳う也 差遣す口上にて具さに申上べく候 以上。  辰五月廿九日 秋田中将 /  仙台中将殿 」  仙台藩はこれを無視、越後まで戦禍を拡げたのである。


「秋田藩が寝返った」などと言うのは、仙台藩ほか反政府反乱戦争側の逆恨みの言い分なのである。 NTT秋田のホームページは、この反乱側に係累のある同調者によって作成されたものであろう。このページができてから、いつ秋田らしく修正されるか待ってきたが相当年数となった。平成20年明治維新140年の意義からみて、この悪意のページは許されるべきものではない。即刻修正されるか廃頁にすべきである。wa


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追記


以上の記述は2008年11月のプログでしたが、2010年8月の現在 、NTT秋田のHP・「いいまち秋田」は、廃止かと相見え、接続とは成りません。明治維新・戊辰戦の勤皇秋田藩をけなす著述それ以外は、まことに良いホームページでありましたから、「いいまち秋田」が、全ストップしたことはまことに残念であります。 ただ観光案内などについては、新しく変わったものもあるかもしれませんので、ページ内容を新整理することも必要なのかもしれませんが、企業としての地域支援ということでは、問題点をのぞいては、ぜひ「いいまち秋田」を、再開サービスされることを望みます。   北歴w


安藤昌益思想論の新展開  東条栄喜氏

2010-08-01 11:17:30 | 雑録

東条栄喜氏の最近における、冊子「互生共環」で新展開の、安藤昌益思想論記述の目次項目などを紹介する。


「互生共環No.32」 1、 「天体ー地球ー大地」の連結思想を展開する。-現代自然真営堂の展開(1)ー  1)自然運気論の「転ー定ー央土」三連思考 2)自然生態環境の多層性と複雑系認識 3)太陽系意識から銀河系意識へ~宮沢賢治の先駆性~ 4)宇宙紀行学の始まりとCO2温暖化論 5)新地動説と新天道説の共進化が必要。 / /   2、 安藤昌益の直耕史観と正世論 ー社会思想の段階的進化を辿るー  1)仁政思想下での民真観の胚胎(早期) 2)直耕者と横領者との対立認識へ(初期) 3)「耕知・正人」主体論の確立(中期) 4)「活真世に契ふ」過度社会論(晩期) 5)複始回帰史観から巨視的発展史観へ---小活。   3、吉田徳寿著「安藤昌益  直耕思想いま再び」を読む ~ジャーナりストによる昌益論と昌益をめぐる群像の探訪~ 。  //  (2010.07.23刊   A4版35頁   )


「互生共環NO.31」    1、行基と親鸞と安藤昌益の矛盾観 ~矛盾観思想史上の三代結節・所論~  1)日本弁証法思想史の遡上 2)行基の社会活動におけいる対立観と和合観 3)親鸞の矛盾観~人間観と浄土観~ 4)安藤昌益の矛盾観~自然互生と法世矛盾~ 5)500年の巨視的結節性。  //   2、  安藤昌益の声韻循環と言語論  1)三十六韻・自然音韻論(早期) 2)五十韻・直耕音韻論(初期・中期) 3)四十韻・活真音韻論(晩期) 4)肉声言語論 5)文字再編論~片仮名・字解法・詩文論~小活。   // 3、寺尾氏の唯物弁証法論から受け継ぐものーーその肯定的理解から発展的展開へーー 1)弁証法則の一元化把握をめぐって 2)三文法と正反合と矛盾論理の異同 3)日本思想史上の否定観・発展観・矛盾観  4)一分為ニと一分為三と合ニ而一  5)寺尾氏による毛沢東矛盾論の問題点抽出 6)唯物史観上の複合矛盾認識~複合生産関係と連合政権  7)結語:寺尾氏の所論の発展的展開を。      (2010.03.16刊  A4版39頁)


「互生共環N0.29 」   1、 安藤昌益の自由概念・初探 ~支配者の専横と生産者の自由~   1)日本思想史に於ける自由概念変遷史研究の進展。 2)従来の昌益思想研究では、自由観の探索が欠落していた。 3)「自由」の語を介した儒仏道の「自由」批判  4)昌益の自由思想~社会的悪循環と思想的呪縛の否定 5)結論。 //  2、安藤昌益の人為循環と耕道論  1)循環継承論…人為活動の諸原則  2)人為環境論…人為圏と流域生態系  3)農工循環論…農業と手工業の並立  4)食生文化論…穀類・魚藻・果菜論  5)論理規範論…生産労働の論理化  6)小活…人為活動の原理と論理の確立~人為環と直耕道。  //     3、伊東俊太郎著作集から学ぶ ~自然概念の研究と安藤昌益の評価~  1)アカデミズムの側からの昌益への数少ない高い評価 2)昌益の「自然」概念に近代的実在自然観と現代的生成自然観をみる 3)世界の自然思想史、社会思想史の中に昌益を定位する事の必要性 4)「世界科学史」「比較文明史観」の視野は昌益思想研究にも有意義 5)結語。  //  2009,07,10発行、A4版35頁。


編集発行人::東京都東村山栄町2-23-4-401  東条栄喜


 


江戸の町医者 川村寿庵 ・・ 安藤昌益との縁

2010-05-01 00:00:00 | 雑録

「江戸の町医者 川村寿庵」…斎藤里香著、岩手県立博物館報告第27号所収、が冊子として紹介されています。 著述の主項目を次により参考に供します。


はじめに  一、川村寿庵の出自 寿庵の生い立ち ニ、川村寿安と上田永久 寿安十~三十代 三、江戸の町医者川村寿庵 寿庵四十代・安永の頃  寿庵五十代・天明 寿庵六十代・寛政の頃 寿庵七十代・晩年・享和文化。 おわりに。  図表・川村寿庵の家系と周辺の医師。


 


安藤昌益から学ぶ、わかりやすいテキスト

2009-04-25 17:10:49 | 雑録

1、『安藤昌益の自然思想』 東条栄喜著、2006年11月刊  ¥500


  昌益の「自然」には二つの側面がある。天地の形状は苺形で無始無終(天地宇宙論)。天地の交感で央土に万物が生成(環境形循環)。人間・動物・植物の連環と転生(生態系循環)。天地の運動を正しく継承する営み(人為自然論)。結論:自然の循環に則り悪循環を断つ。-昌益の自然思想を現代に生かそう。


2、『安藤昌益の医学思想』真営道医学がめざしたもの・・・八重樫新治著 2007年4月刊 ¥500


 弱者の治療から考えよう。世の中のゆがみと本来の姿。全ての人が寿命をまっとうするように。医学の革新時代。『真斎謾筆』に関する錦城・真斎父子の業績。夫婦は人倫の大本。昌益の批判対象となった医者。天地と人との気の交流機序。胃の病症と根本原因。顔から内臓が見える。精神病について。真営道医学から学んだ医者たち。など。


3、『安藤昌益と飢饉』ー天災は人災なりー 菊池勇夫著 2008年3月刊 ¥500


  昌益との出会い、飢餓研究と昌益。医学思想から社会思想へ。昌益の災害・飢餓感。私欲・利欲と経済社会。寛延の猪飢饉・昌益の飢餓体験。猪飢饉の背景にあるもの。循環的な地域連携の構想。おわりに、江戸ブームの意味、問われる学問。


4、『安藤昌益の平和思想』 村瀬裕也著 2008年8月刊 ¥500


  はじめに。安藤昌益と日本国憲法との接点。新たな「平和」概念の提唱…「治」と「乱」と対象される「平和」概念、私有制と「構造的暴力」。 「治」(構造的暴力)批判、階級性と搾取、男女差別、環境問題。 「乱」(直接的暴力)批判、「治」から「乱」へ、侵略戦争、将軍-軍人身分、軍事研究。 平和への展望、平和状態、理想と現実--昌益とカント--- .。


・・・・・ 註:以上1~4の発行元は、東京都足立区関原2-14-20-105、矢内信悟方、「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」、電話FAX-03-3887-8021.となっております。・・・・・・


 


5、 『安藤昌益』・・人と思想と千住宿、  石渡博明著 2004年9月刊¥300 発行:足立区郷土史料刊行会(足立区郷土博物館内、足立史談会)


  千住仲町の眠っていた安藤昌益の原稿本。安藤昌益の発見ー狩野亨吉との出会。安藤昌益の生涯と人となり。 安藤昌益の思想、生命の思想、壮大な自然哲学、生命を生み支えるもの、生命を損ない脅かすもの、生命をまもるもの、医療の役割、世直し提案、契う論、昌益の処方箋。


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大館市東台での積雪量の最高値の経過

2009-02-22 21:16:58 | 雑録

H11年2/15--92cm  雪消え3/30、      H12年2/22-78cm   雪消え4/1


H13年2/19--50cm 雪消え3/28           H14年2/19--50cm   雪消え3/12


  H15年1/25--55cm   雪消え3/23          H16年1/29--65cm  雪消え3/7


H17年3/2---83cm       雪消え4/1   


 H18年1/11--103cm   2/7--100cm   雪消え4/2   


 H19年2/15--40cm  最後の雪3/29


H20年1/26--37cm,,,,,2/12--37cm       雪消え3/12


H21年1/25--60cm  2/3--60cm    2/22--60cm       雪消え ??       以上、東台測候所


 


 


 


 


戊辰戦争で重責を果した本荘藩

2008-12-08 18:40:40 | 雑録

『思考・戊辰戦争で重責を果たした本荘藩』著者発行・小番貞憲(こつがいさだのり)・昭和63年刊。・・・


抜粋「奥羽列藩同盟と本荘藩」・・・ 閏4月初旬、仙台・米沢二藩が盟主となり奥羽列藩へ使いを遣し白石に会合す。本荘藩より六郷大学、用人柴田泰輔を副へ、その他祐筆源間弥三郎、渡合弁吉及び今の周吉、斉藤岩之丞を率いて出席する。  閏4月21日、白石に到れば「案」既に成りて示さる。 六郷大学が滞留終日して密やかに聞くに、京師の官軍白河に到り又鎮撫使保護の兵も暫時応援に到ると聞く。


六郷大学、白石より脱せんと欲するも得ず、偽りて病と称し、密意を柴田康輔に伝え、急行して本荘にかえり藩主に陳べることとす。ここにおいて家老守屋杢右衛門を密使として久保田藩を経て、それより能代に到りて白石会合の顛末を総督府に具申す。参謀大山格之助その赤誠を嘉す。


一面白石にては盟主の重臣より、本荘藩用人柴田康輔の出会を促す。康輔窮す。 六郷大学、本荘より白石の康輔へ急のふれ文を出す。その要点に曰く。「官軍荘内征討のため海路大いに到らん、本荘は小藩微弱、速やかに帰り防御の計あれと」、康輔は列藩の重臣に示す。


重臣ら使夫を呼び親しく訊う。五十嵐亀吉、口才あり故らに質朴を装い虚大を語り、官軍の軍艦、連日船川港に到る。片時も忽にすべからずと、盟主(仙台米沢)の重臣ら軍艦の旗章を問う、亀吉曰く、丸に十の字、又一の字の下に三つ星等なりという。 重臣ら黙然たる事久しい、ついに康輔の帰国を承諾する。


康輔愴惶旅装を整え急行して帰る。 数里毎に関所あり、衛兵拒んで曰く。「久保田藩未だ決せず、貴藩(本荘藩)また結托せしならん、仙府の命を端たざれば通過を許さずと、康輔びっくりし、つぶさに白石の事情を陳べるに僅かに許されて通る。既にして虎口を脱するを祝す。以後行くほど又二、三の関所あり、閑道を微行するに如かず。 若し一日を緩らせば、仙使殺戮の件、白石に達し或は免れきらんと、議一決し、山野を渉り夜行して帰る。


果たして白石に於いては柴田康輔に帰国を許せることを悔い、爾来仙台に於いては、本荘藩を敵視し、江戸より藩地へ回航の兵器、貨、財を石巻港に於いて略奪し、及び小銃百挺付属の弾薬、天幕等を陸送するものを仙台の一門、伊達主殿の領地川崎に令して没収し、その宰領田代乙治、志村千代助、小野彦七、庄司善治等を捕らえて獄に下し、日々杖で叩き、尚飲食の分量をいたづらに増減して困窮せしむ。殆ど堪える能わず、四人の者屡々死を請うも許さず、然し仙台藩降伏後約四ケ月にして幸いに免れるを得たり。  」


以上、仙台藩の列藩同盟強行策の一端を知るべし。


奥羽列藩同盟に意義は無い 仙台藩の誤り 

2008-12-08 16:12:41 | 雑録

奥羽列藩同盟は無益な反政府戦争を拡大した。歴史的意義は一つも無い。<o:p></o:p>


奥羽列藩同盟、仙台藩が反抗同盟をつくったことが間違いの元、単なる薩長と解釈したのは、時流を自覚しない妄動であった。仙台藩の妄動がなければ、会津・庄内のみで終息していた筈である。 長岡藩の抵抗も、同盟があったからである。河井継之助は反政府の確信犯であった。 薩長を除外した政権をつくることができると、仙台藩は考えていたのか。薩長のみならず、白河以南の全諸藩と戦うことになってしまった。薩長なくして明治維新はない。明治維新なくして日本の近代社会はない。<o:p></o:p>


仙台藩の新政府への反乱戦争は、新生日本への妨害行動であった事になる。仙台伊達の大藩62.5万石が、東北の弱小藩を捲き沿いにした反政府戦争だった。反政府行動、反政府武力行使→奥羽越列藩同盟へ、保守反動の性格を顕す。妨害行動、叛乱である、なんらの大義を有せず。 列藩同盟 別国家を立てることにした?上野後公卿崩れ幕府崩れを役職とす。戊辰戦争140年行事、賊軍ではないぞーと、恨み節の言葉を連ねている。歴史の足を引っ張り後退させようとした人たち。反乱を反省せず。<o:p></o:p>


11/23 宮城県白石市主催 [戊辰戦争140年in白石]・・列藩同盟の意義を再考する… どんな意義? … 列藩同盟加入の自治体が会盟の地「白石」で一堂に会し、同盟の意義を全国に発信する? … それって「井のなかの蛙」の認識不足ではありませんか。・・仙台藩主の降伏謝罪文をみると、「遠隔の地で天下の情勢を知らず、順逆を間違えた」などと言ってますが、ウソ? 仕方なく書いた降伏文書でしたか。<o:p></o:p>


*賊軍と言われた分子は都合よく、なんとか天皇をでっち上げておいて、懸命に天皇を尊ぶのは同じで対等だ賊軍ではないぞと主張する。歴史を進展を妨害した結果の人達の言い草、誤りを認めず、我を通す。謙虚さは全くない。下々の兵士領民に与えた犠牲を全然考えていない。己の誤りを認めず。<o:p></o:p>


恭順は軍備を捨てて従順することで成り立つ。具備恭順は矛盾である。会津と同調する仙台藩、「義においておよばず」だと、それはなんの義理か?佐幕の義理なんだろうが、反動的なんだなー。 *仙台藩主導の列藩同盟は無益な戦争の拡大と犠牲の拡大、武門の意地と称するものが、領民大衆を悲嘆に陥れたに過ぎない。何の歴史的価値があろうか。いまなお悔悟せぬ人々に憐憫を思う。  <o:p></o:p>