北羽歴史研究会

出羽国北端より奥羽地方と北の歴史を展望し
北羽地方の風土文化作りに寄与する。

北羽歴研・史話懇談会、12月16日開催

2006-12-31 22:55:02 | 活動情報
  1. 話題提供は次のとおり

1、丸屋悧副会長より、「梁塵秘抄」についての話。今様三首を紹介。その一つに。 

 「我等何して老いぬらん、思えばいとことあわれなれ、今は西方浄土の、弥陀の誓いを念じべし」

私たちは何をしたという事のないまま、年老いてしまった。考えてみれば情けない事だ。今となっては西方浄土にいらっしゃる阿弥陀様に救いを願って念仏するより仕方がない。

2、柴田副会長   江戸時代の話、1)将軍の御朱印 2)大奥のこと 3)南北奉行所の話 4)旗本八万騎の話。

3、武田政二郎幹事  先に研究発表した石井氏由緒書の古文書解読、系図表のことなど、所感の開陳。

4、田中實幹事  下代野村の稲荷神社の棟札についての紹介。

5、千葉克一幹事 棟札の神号が四柱であることについての考察を語る。

6、鷲谷会長  「相馬大作事件」 1)相馬大作の逃亡と顛末 2)矢立峠歴史の道に相馬大作誤説は不可 

3)青森と岩手に矢立峠説はなし、知らぬはどこかの人ばかり (大館市教育委員会の担当部門・観光課・街づくり協議会のホームページなどの固執を指摘)  

4)大館の誤説のネタ本記述を考察する。  『大館戊辰戦史附沿革史』大正七年刊行笹島定治編著・相馬大作事件の記述の全文箇所306~309頁の抜粋コピーを検証。  笹島氏が引用している田中館愛橘著(明治期)の矢立峠で襲撃実行説は講談話同様であり、大正15年刊下斗米與八郎(同族)の岩抜山説によって否定されている。 吉田松陰『東北遊日記』も引用しているが、吉田松陰記述は、「幾日の徘徊驚人視、敗露忽空数年の計」と襲撃計画の失敗を記しており、田中館愛橘説を認知するものではない。 さらに「随鑾紀程」川田剛著を参考としているが、この明治天皇随行記録は、待伏せ箇所を白沢駅と述べておるのであり、矢立峠説ではない。 なぜこの事を笹島定治氏は理解できなかったのであろうか。「随鑾紀程」の明治14年9月11日津軽大鰐から明治新道の矢立峠越え大館にいたる行程の記述を検証し、笹島誤説を確認した。歴史に正眼を、大正期の笹島氏誤説・矢立峠峠誤説の固執から大館市関係の脱却を強く望む。