楢山佐渡 『幕末維新 影の参謀』童門冬二箸より
「慶応4年5月15日に、江戸上野で彰義隊が崩壊すると、十六代将軍にあたる徳川家達は静岡で七十万石をもらった。つまり、徳川最後の将軍徳川慶喜が天皇に大政を奉還していたので、家達一大名ににすぎなかった。」
「奥羽越列藩同盟は、もはや徳川家や徳川幕府のために戦うのではない。奥羽越列藩同盟に参加した藩のために戦うのだ」という合同意識、あるいは自治意識がはっきり前に出ている。そうなるとこの同盟から脱退し新政府に味方をする秋田藩は、みせしめのためにも討伐する必要があった。この話を聞いた楢山佐渡は「私が討伐に向かいましょう」と自ら買って出た。佐渡の胸の中にはある決意が固まっていた。・・・・・・・・・・とりもなおさず楢山佐渡は、すでにこの段階で〃死に場所〃を求めていたことになる。」
「・・・幕末は何がおこるかわからない、何が起っても不思議ではない動乱の時代である。かこの原則や原理は通用しない。価値観も壊れる。そういう中で、楢山佐渡は一つの真実を貫いた。しかし考えてみれば彼は南部藩の家老である。上級武士だった。 ところが、新政府軍の首脳部たちは、ほとんどが下級武士である。重役の経験はない。それぞれの大名下で下克上の謀反を起こし、藩を乗っ取った。その意味では、徳川幕府を倒すという社会変革の前に、これらの下級武士たちは、藩政変革という体験を経ていた。 そのために、かなりの血も流した。そういう経験があったからこそ、彼らは下級武士でありながら立派に幕府を倒し、新政府の首脳部にのし上がれたのである。」
「楢山佐渡の追及した"真実"の中には、この「上級武士と下級武士の差」への着眼が欠けていた。楢山佐渡の美学も、結局は上級武士の美学だったといっていいだろう。あるいはそのために、楢山佐渡の胸の一角にも、(下級武士に、何ができるか)という気持がなかったとはいえない。 しかし、動乱の時代における「情報の収集とその分析と判断」がいかに大切かということは、この例でもわかる。そしてその衝にあたる人物いかんによっては、組織そのものが滅亡したり、あるいは存続したりする岐路にたつ。 楢山佐渡はそういう岐路に立ちながらも、「自分の決断は必ずしも論理的でない。というのは、状況そのものが一種の不条理によって成立しているからだ」 という思いが強かったに違いない。 彼が不条理というのは、「いま起っている事は虚と実であった真実がない。真実は虚空で彷徨っている」ということである。
それならば、自分がその虚空に彷徨う真実を捕えて、この社会に引きずり戻そうという試みが、彼の最後の秋田藩攻撃であった。傑出した家老であった楢山佐渡も、やはり「ナリフリかまわない下級武士の力」には、とうてい抗することができなかったのである。」
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読者註: 彼は戦いの敗北と藩人士への責任をどう考えたのであろうか。 無益な戦いのツケは、庶民大衆と後世にも及ぶのである。 切腹をもってしても、その責任は消えはしない。 死者に鞭うつは、日本の美学にはないが、歴史は正しく捉えるべきである。