今日ご紹介する旅順のスポットは、今から7年前、2015年5月と10月の訪問記です。
白玉山の南側の中腹に、旅順金刀比羅神社がありました。
かつて旅順に存在した神社といえば、関東神宮(2014年4月8日の日記)、白玉山納骨神社、東本願寺、西本願寺(2015年12月4日の日記)が知られていますが、金刀比羅神社は残っている文献がとても少なく、謎の多い神社です。
神社は戦後に破壊されましたが、壊し方が甘かったのか、比較的良好な状態で痕跡が残っています。

ここに行くためには、地図に記載されていない道を歩く必要があります。
このような状態で残ってきたのは、人目につかない場所にあったことが幸いしていると思います。
神社の鎮座は1934年です。
金刀比羅宮と言えば海上安全の神ですので、重要な港町だった旅順に勧請されたのは自然なことだったと思います。
文献はありませんが、おそらく旅順市民から「こんぴらさん」とよばれて親しまれていたと推測します。
破壊された石灯籠が無造作に転がっています。

これは1枚目の写真の灯籠の破壊された上の部分だと思われます。
「奉」の下に彫られていた文字は、「献」か「納」でしょうか。
奉献、奉納のいずれにしても、氏子崇敬者の寄進で設えたものであることは確かです。
社殿の正面から全体を見てみます。

参道の長い階段を登り切った参拝者は、ここで一度後ろを振り返り、自分が登ってきた階段を確認してから、向き直して社殿に参拝したのではないでしょうか。

登ってきた階段の最後の部分です。


これは手水所の跡でしょうか。参拝口から社殿に向かって10時の方向にあります。

これは社殿の一番奥側から正門方面をとらえたものです。向こう側は旅順湾です。
祭神は大物主神と崇徳天皇でした。これは総本山である讃岐の金刀比羅宮と同じです。

麓から社殿に至る坂道の参道には、石の階段が残っています。

石段はほぼ直線に作られているので、なかなかの急坂です。
さながら総本山の讃岐の金刀比羅宮のようです。高齢者には厳しいかもしれません。

雑草の茂み方で、今はここを歩く人がいないことが分かります。
参拝専用の階段だったのだと思います。
階段の麓側の登り口付近は建物のフェンスで封鎖されています。獣道さえなく、ここに辿り着くのは相当難しそうです。


これは麓側の石灯籠の跡です。左右で対になっています。
ここが参道の始まりだったようです。
もう一度社殿の位置まで登ってきました。眼下には旅順港が広がります。
海上安全の神様を勧請するには、ここが最適の場所だったことが分かります。


基壇の柱を差し込む穴の列は、古写真でも確認できます。

北側の山頂方面を見上げると白玉山塔が視界に入ります。


旧社殿の周辺には、こんな破壊後のがれきがゴロゴロと転がっています。
きっと日本から持ち込まれた資材もあるはずです。
ところで、僕が今までこの神社跡をご紹介しなかったのは、理由があります。
公開することによってこの遺構が知られることになり、関心や警戒の対象になり、これ以上破壊されたり妙に手を加えられることを心配したためです。
なにしろ、彼らにとってみれば憎むべき侵略国が作った宗教施設です。
ここは神社跡としては珍しく保存状態が良好で、様々な施設の位置関係まではっきりとわかります。大連では随一です。かなり貴重な遺構といえます。
かつ、地元の研究者たちにもあまり知られていないのか、ここを紹介した中国の文献やSNSの投稿も見当たりません。
この日記を始めてから数年間、このブログは中国でも閲覧できていました。
中国人の誰もが目にする可能性がありました。
そうなると、好ましくない情報と判断されてブログごと遮断される可能性もありました。
しかし、今はgooブログそのものが規制対象になり、閲覧できなくなりました。
このため、以前ほど投稿内容を気にする必要がなくなりました。
今やこの日記の読者のほとんどは日本人です。それはそれでやや寂しい気持ちもありますが、仕方ありません。時代です。
こうした経緯があって、今回ご紹介することにしたものです。
白玉山の南側の中腹に、旅順金刀比羅神社がありました。
かつて旅順に存在した神社といえば、関東神宮(2014年4月8日の日記)、白玉山納骨神社、東本願寺、西本願寺(2015年12月4日の日記)が知られていますが、金刀比羅神社は残っている文献がとても少なく、謎の多い神社です。
神社は戦後に破壊されましたが、壊し方が甘かったのか、比較的良好な状態で痕跡が残っています。

ここに行くためには、地図に記載されていない道を歩く必要があります。
このような状態で残ってきたのは、人目につかない場所にあったことが幸いしていると思います。
神社の鎮座は1934年です。
金刀比羅宮と言えば海上安全の神ですので、重要な港町だった旅順に勧請されたのは自然なことだったと思います。
文献はありませんが、おそらく旅順市民から「こんぴらさん」とよばれて親しまれていたと推測します。
破壊された石灯籠が無造作に転がっています。

これは1枚目の写真の灯籠の破壊された上の部分だと思われます。
「奉」の下に彫られていた文字は、「献」か「納」でしょうか。
奉献、奉納のいずれにしても、氏子崇敬者の寄進で設えたものであることは確かです。
社殿の正面から全体を見てみます。

参道の長い階段を登り切った参拝者は、ここで一度後ろを振り返り、自分が登ってきた階段を確認してから、向き直して社殿に参拝したのではないでしょうか。

登ってきた階段の最後の部分です。


これは手水所の跡でしょうか。参拝口から社殿に向かって10時の方向にあります。

これは社殿の一番奥側から正門方面をとらえたものです。向こう側は旅順湾です。
祭神は大物主神と崇徳天皇でした。これは総本山である讃岐の金刀比羅宮と同じです。

麓から社殿に至る坂道の参道には、石の階段が残っています。

石段はほぼ直線に作られているので、なかなかの急坂です。
さながら総本山の讃岐の金刀比羅宮のようです。高齢者には厳しいかもしれません。

雑草の茂み方で、今はここを歩く人がいないことが分かります。
参拝専用の階段だったのだと思います。
階段の麓側の登り口付近は建物のフェンスで封鎖されています。獣道さえなく、ここに辿り着くのは相当難しそうです。


これは麓側の石灯籠の跡です。左右で対になっています。
ここが参道の始まりだったようです。
もう一度社殿の位置まで登ってきました。眼下には旅順港が広がります。
海上安全の神様を勧請するには、ここが最適の場所だったことが分かります。


基壇の柱を差し込む穴の列は、古写真でも確認できます。

北側の山頂方面を見上げると白玉山塔が視界に入ります。


旧社殿の周辺には、こんな破壊後のがれきがゴロゴロと転がっています。
きっと日本から持ち込まれた資材もあるはずです。
ところで、僕が今までこの神社跡をご紹介しなかったのは、理由があります。
公開することによってこの遺構が知られることになり、関心や警戒の対象になり、これ以上破壊されたり妙に手を加えられることを心配したためです。
なにしろ、彼らにとってみれば憎むべき侵略国が作った宗教施設です。
ここは神社跡としては珍しく保存状態が良好で、様々な施設の位置関係まではっきりとわかります。大連では随一です。かなり貴重な遺構といえます。
かつ、地元の研究者たちにもあまり知られていないのか、ここを紹介した中国の文献やSNSの投稿も見当たりません。
この日記を始めてから数年間、このブログは中国でも閲覧できていました。
中国人の誰もが目にする可能性がありました。
そうなると、好ましくない情報と判断されてブログごと遮断される可能性もありました。
しかし、今はgooブログそのものが規制対象になり、閲覧できなくなりました。
このため、以前ほど投稿内容を気にする必要がなくなりました。
今やこの日記の読者のほとんどは日本人です。それはそれでやや寂しい気持ちもありますが、仕方ありません。時代です。
こうした経緯があって、今回ご紹介することにしたものです。