僕が大連に駐在していた頃、旅順の太陽溝五四街にナマコ博物館として利用されていたロシア時代の老建築がありました。
僕は外観を見ただけで入場したことはありませんでしたが、なぜここにナマコ博物館なるヘンテコなものを作ったのだろう、なぜこんな周りの雰囲気と合わない趣味の悪い装飾にしたのだろう、なんてもったいない、と思っていました。
先日5年ぶりに太陽溝を再訪した際にここを通りかかったら、ナマコ博物館は閉鎖され、空き家になっていました。


塗装はそのままですが、博物館時代の派手な装飾が撤去されていています。
正面にはナマコのオブジェが残っていて、ナマコの寂しげな声が聞こえてきそうです。
こうして装飾が取り除かれて空き家になった老建築をよく観察してみると、ロシア租借時代の建築にしてはなかなかユニークな作りです。
正面の1階と2階部分がルネサンス風の回廊になっています。
このレンガ造りの建物は何に使われていたのでしょうか。元々外壁はどんな色だったのでしょうか。
中国語の文献によると、ロシア時代と日本時代は病院として使われていたとされています。
戦後はソ連駐屯軍の衛生所になったり、電球工場になったり、昆布の保管施設になったりと、様々な用途で利用されてきたようです。そして、2012年からナマコ博物館になったというわけです。
さらに調べていくと、旅順師範学校の学生寮としても使われていた時代があったことが分かりました。

こんな古写真がありました。1942年のものです。
写真には、左側に淡窓塾、右側に信淵塾と書かれています。
ということは、建物の左側が旅順師範学校の淡窓塾、右側が信淵塾だったのでしょうか。
しかし、国立国会図書館で閲覧した旅順師範学校卒業生による記念誌によると、淡窓塾があったのはここではなく、文明街の最も東側です。
そうなると、ここは信淵塾だったのでしょうか。
外壁は白っぽかったことが分かります。
旅順師範学校の寮名は歴史上の教育者の名前から取っていますが(平洲塾(2019年3月5日の日記)、南洲塾(2021年5月15日の日記))、信淵と淡窓とは誰でしょうか。
調べてみたところ、信淵とは佐藤信淵(のぶひろ、1769-1850)のようです。
佐藤信淵は江戸後期の思想家で、医師でもあり学者でもあったという人物です。
儒学や国学、神道、本草学・蘭学、天文暦数まで幅広く学んだようです。
佐藤は国粋主義者で周辺国の領有等を提唱した人物であったため、第二次大戦中の日本では称揚された人物だったそうです。その後の近代日本の膨張主義、大東亜共栄圏思想の先駆けになった思想の持主だったわけですね。
そうであるからこそ寮名に採用されたのでしょう。

また、おそらくここではありませんが、淡窓塾の淡窓とは広瀬淡窓(たんそう、1782-1856)を指していると思われます。
江戸後期の儒学者、教育者だった人物で、地元大分で、後に日本最大級の私塾となった教育施設の礎を築いた人物です。
今の広瀬勝貞大分県知事の血筋に当たる人物だそうです。
当時、五四街と文明街に囲まれたエリアには旅順師範学校の寮が集まっていたため「師範村」と呼ばれていたそうですが、さしずめこの辺りが師範村の一番西側だったのでしょう。
僕は外観を見ただけで入場したことはありませんでしたが、なぜここにナマコ博物館なるヘンテコなものを作ったのだろう、なぜこんな周りの雰囲気と合わない趣味の悪い装飾にしたのだろう、なんてもったいない、と思っていました。
先日5年ぶりに太陽溝を再訪した際にここを通りかかったら、ナマコ博物館は閉鎖され、空き家になっていました。


塗装はそのままですが、博物館時代の派手な装飾が撤去されていています。
正面にはナマコのオブジェが残っていて、ナマコの寂しげな声が聞こえてきそうです。
こうして装飾が取り除かれて空き家になった老建築をよく観察してみると、ロシア租借時代の建築にしてはなかなかユニークな作りです。
正面の1階と2階部分がルネサンス風の回廊になっています。
このレンガ造りの建物は何に使われていたのでしょうか。元々外壁はどんな色だったのでしょうか。
中国語の文献によると、ロシア時代と日本時代は病院として使われていたとされています。
戦後はソ連駐屯軍の衛生所になったり、電球工場になったり、昆布の保管施設になったりと、様々な用途で利用されてきたようです。そして、2012年からナマコ博物館になったというわけです。
さらに調べていくと、旅順師範学校の学生寮としても使われていた時代があったことが分かりました。

こんな古写真がありました。1942年のものです。
写真には、左側に淡窓塾、右側に信淵塾と書かれています。
ということは、建物の左側が旅順師範学校の淡窓塾、右側が信淵塾だったのでしょうか。
しかし、国立国会図書館で閲覧した旅順師範学校卒業生による記念誌によると、淡窓塾があったのはここではなく、文明街の最も東側です。
そうなると、ここは信淵塾だったのでしょうか。
外壁は白っぽかったことが分かります。
旅順師範学校の寮名は歴史上の教育者の名前から取っていますが(平洲塾(2019年3月5日の日記)、南洲塾(2021年5月15日の日記))、信淵と淡窓とは誰でしょうか。
調べてみたところ、信淵とは佐藤信淵(のぶひろ、1769-1850)のようです。
佐藤信淵は江戸後期の思想家で、医師でもあり学者でもあったという人物です。
儒学や国学、神道、本草学・蘭学、天文暦数まで幅広く学んだようです。
佐藤は国粋主義者で周辺国の領有等を提唱した人物であったため、第二次大戦中の日本では称揚された人物だったそうです。その後の近代日本の膨張主義、大東亜共栄圏思想の先駆けになった思想の持主だったわけですね。
そうであるからこそ寮名に採用されたのでしょう。

また、おそらくここではありませんが、淡窓塾の淡窓とは広瀬淡窓(たんそう、1782-1856)を指していると思われます。
江戸後期の儒学者、教育者だった人物で、地元大分で、後に日本最大級の私塾となった教育施設の礎を築いた人物です。
今の広瀬勝貞大分県知事の血筋に当たる人物だそうです。
当時、五四街と文明街に囲まれたエリアには旅順師範学校の寮が集まっていたため「師範村」と呼ばれていたそうですが、さしずめこの辺りが師範村の一番西側だったのでしょう。






































































