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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

旅順師範学校 信淵塾

2021-06-11 | 旅順を歩く
僕が大連に駐在していた頃、旅順の太陽溝五四街にナマコ博物館として利用されていたロシア時代の老建築がありました。

僕は外観を見ただけで入場したことはありませんでしたが、なぜここにナマコ博物館なるヘンテコなものを作ったのだろう、なぜこんな周りの雰囲気と合わない趣味の悪い装飾にしたのだろう、なんてもったいない、と思っていました。

先日5年ぶりに太陽溝を再訪した際にここを通りかかったら、ナマコ博物館は閉鎖され、空き家になっていました。





塗装はそのままですが、博物館時代の派手な装飾が撤去されていています。
正面にはナマコのオブジェが残っていて、ナマコの寂しげな声が聞こえてきそうです。

こうして装飾が取り除かれて空き家になった老建築をよく観察してみると、ロシア租借時代の建築にしてはなかなかユニークな作りです。
正面の1階と2階部分がルネサンス風の回廊になっています。

このレンガ造りの建物は何に使われていたのでしょうか。元々外壁はどんな色だったのでしょうか。

中国語の文献によると、ロシア時代と日本時代は病院として使われていたとされています。
戦後はソ連駐屯軍の衛生所になったり、電球工場になったり、昆布の保管施設になったりと、様々な用途で利用されてきたようです。そして、2012年からナマコ博物館になったというわけです。

さらに調べていくと、旅順師範学校の学生寮としても使われていた時代があったことが分かりました。



こんな古写真がありました。1942年のものです。

写真には、左側に淡窓塾、右側に信淵塾と書かれています。
ということは、建物の左側が旅順師範学校の淡窓塾、右側が信淵塾だったのでしょうか。

しかし、国立国会図書館で閲覧した旅順師範学校卒業生による記念誌によると、淡窓塾があったのはここではなく、文明街の最も東側です。

そうなると、ここは信淵塾だったのでしょうか。

外壁は白っぽかったことが分かります。

旅順師範学校の寮名は歴史上の教育者の名前から取っていますが(平洲塾(2019年3月5日の日記)南洲塾(2021年5月15日の日記))、信淵と淡窓とは誰でしょうか。

調べてみたところ、信淵とは佐藤信淵(のぶひろ、1769-1850)のようです。
佐藤信淵は江戸後期の思想家で、医師でもあり学者でもあったという人物です。
儒学や国学、神道、本草学・蘭学、天文暦数まで幅広く学んだようです。

佐藤は国粋主義者で周辺国の領有等を提唱した人物であったため、第二次大戦中の日本では称揚された人物だったそうです。その後の近代日本の膨張主義、大東亜共栄圏思想の先駆けになった思想の持主だったわけですね。
そうであるからこそ寮名に採用されたのでしょう。



また、おそらくここではありませんが、淡窓塾の淡窓とは広瀬淡窓(たんそう、1782-1856)を指していると思われます。
江戸後期の儒学者、教育者だった人物で、地元大分で、後に日本最大級の私塾となった教育施設の礎を築いた人物です。
今の広瀬勝貞大分県知事の血筋に当たる人物だそうです。

当時、五四街と文明街に囲まれたエリアには旅順師範学校の寮が集まっていたため「師範村」と呼ばれていたそうですが、さしずめこの辺りが師範村の一番西側だったのでしょう。
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旅順 満電バス乃木町営業所

2021-06-05 | 旅順を歩く
満電バス乃木町営業所は、旅順旧市街から白玉山トンネルに入る手前にありました。
長江路と自新街が合流する場所です。

今も残っていました。



1920年代後半の竣工とされています。





左側に写っている建物がそれです。

満電バスは市民の足として、観光用として使われました。満電バスの営業開始は1928年です。1933年には大連都市交通と社名を変えました。
大連市内と旅順を繋ぐバスの乗り場もここでした。



解放後も比較的長い時間、旅順の中心的なバス停として利用され続けたそうです。
増改築が繰り返されたようですが、長屋のような作りは今も変わっていません。
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旅順工科大学 若草寮旧趾

2021-05-30 | 旅順を歩く
旅順太陽溝に残る旅順工科大学の若草寮として使われていたロシア建築です。





壮麗なロシアらしい建築様式と黄色い塗装が目を引きます。

築約120年と推定される老建築ですが、今も使われています。
洗濯物が干してあるところからみると、住宅でしょう。



2階には3か所のバルコニーがありますが、今も使えるでしょうか。
体重のある人がここに立ったらと思うと、少しハラハラします。

工大の学生寮は新市街に点在していましたが、ここが大学から一番遠いかもしれません。

当時の寮内の賑わいはどのような感じだったのでしょうか。
ここで暮らした学生たちの多くは満洲全土に送り込まれ、エンジニアとして活躍しました。

1942年時点の満鉄の課長級以上の職員のうち、理・工・農専攻者を出身大学別にみると、旅順工科大出身者は20%を占め、2位だったそうです。ちなみに、トップは東大(東京帝国大学)の26%です。

旅順のロシア時代の老建築はいずれも老朽化が進み、倒壊の危険やもはや再利用化は無理ではないかと思わせるものも少なくありません。一方、このように立派に現役で使われている建物もあります。
これは、やはり人が住んでいるかどうかの違いだと思います。



玄関に南京錠が掛かっているということは、今は一世帯だけでこの建物を使っているのかもしれません。相当広い家ですね。
僕の勝手な願いですが、今の住人さんには、ぜひ長く大事に住み続けてほしいものです。
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旧旅順工科大学 興亜橋

2021-05-21 | 旅順を歩く
旧旅順工科大学(現海軍406病院)の東側を流れる小川(日本租借時代は「いささ川」と呼ばれていました)に、終戦を間際にした1944年に建築された石造りのアーチ橋が残っているという情報を得ましたので、見に行ってみました。

川の東側は軍事管理区になっていて立ち入りができませんので、病院(旧工大本館)側から入ってみます。



川下側の茂林橋(日本租借時代は「月見橋」)から見た興亜橋です。
手前の橋ではありません。ずっと奥の方です。



欄干に菱型の装飾が施されている赤っぽい橋がそれです。ここから100メートル近くありそうです。
川沿いには侵入できる道がありません。

病院の正面玄関の駐車場の壁に人が1人通過できるぐらいの切れ目があったので、ここから覗いてみました。



見えました。

今は橋としては使われていないようです。橋桁の中央付近に高さ8メートルほどありそうな木が生えていますので、使用をやめてからもう長いでしょうか。

足元には高い段差がありますので、橋桁まで近づくことはできません。ここが精一杯です。

橋の幅は約8メートルほど、長さは20メートルほどでしょうか。

橋の名前になった「興亜」とは旅順工科大学の校是とも言える根本思想です。

校歌にも登場しますし(本日記の末尾に示しました)、北側に隣接していた学生寮も興亜寮と呼ばれていました。租借地最高レベルの工科大学として、大東亜共栄圏を実現するための技術を育成するという役割を担っていました。

事実、ここの卒業生(1913-1941年)の32%は満鉄系列の会社に入社し、技術王国の中核として活躍しました。
内訳は、満鉄(274人)、満洲電業(53人)、昭和精鋼所(36人)、満洲炭鉱(28人)、満洲軽金属工業(16人)、満洲電信電話(14人)などでした。

駐車場の壁の上に手を伸ばして正面から撮影してみました。



右側手前の親柱に注目してください。

他のサイトによると、この親柱にはひらがなで「こうあはし」という5文字が刻まれています。目を凝らすと、辛うじて「こ」の文字だけが確認できます。

しかし、旧旅順工大は戦況が緊迫の度を強めていた1944年になってなぜこの橋を建造したのでしょうか。
当時の旅順工大は極度の財政難に陥っており、廃学も議論されたほどでした。

この橋の開通によって旅順ヤマトホテルがあった中央大街と直結したので便利だっただろうとは思いますが、1944年といえばもはや大学ではまともに授業は行われず、学生たちは勤労奉仕や学徒兵として動員されていた時代です。
小さい橋とはいえ、労力の確保や工事費の捻出も容易ではなかったと思われます。

解放後、橋としてはいつ頃まで使われていたのでしょうか。
橋としての役目を終えつつも、破壊を逃れ、人目を忍ぶように生き続けてきた租借時代の遺構です。



旅順工科大学正歌(詞:久米孝一 曲:信時潔)

1.平和の鐘は疾く鳴りぬ 意気乾坤に満つる時 降霞たなびく霊陽は 山紫に水清し 丘上高く三層の 学府に輝く 興亜の旗幟
2.東邦の光地を覆ふ 広野はるけし幾千里 見よや北斗の星冴えて 図南の夢に胸躍る ああ若き血の高鳴りに いでや歌はん 興亜の調べ
3.西天万里の夕日かげ 青史に匂ふ霊南の 工科の庭に輝けば 結ぶ日華のたまだすき いざ連立ちて向上の 野に果さなん 興亜の使命
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旅順師範学校 南洲塾

2021-05-15 | 旅順を歩く
旅順太陽溝の文明街、五四街、民主街に囲まれた一角は、日本租借時代後期、旅順師範学校の学生寮や教員住宅が集中していたエリアです。師範学校関係者が多かったため、当時、この一帯は「師範村」と呼ばれていたそうです。

先日、5年ぶりに旅順を再訪した際、改めてこのエリアをじっくり歩いてみました。





この貫禄のある優美な2階建てロシア建築は南洲塾と呼ばれた学生寮でした。
寮なのに「塾」と呼ぶのは、いかにも教員育成学校ならではです。

寮名の南洲とは、西郷隆盛の雅号です。
西郷は言わずと知れた明治維新の立役者ですが、1874年、政府から下野してからは鹿児島で私学校を始め、教育に力を入れました。

旅順師範学校の寮の自習室には塾名の偉人の肖像と文献が掲げられていたそうですから、この建物の中には西郷の肖像があったはずです。
西郷の座右の銘だった「敬天愛人」の額もあったかもしれません。

歴史上の人物として特に人気の高い南洲翁の名を冠した寮で暮らした学生たちは、誇りに感じて学習に励んだのではないでしょうか。



今は空き家になっていました。
正確な竣工時期やロシア時代の用途は不明ですが、1900年前後の建築と推定します。
2階部分には2か所のバルコニーがあります。

手つかずの劣化ぶりが言いようのない魅力的な雰囲気をたたえています。
今からリフォームして再利用するのは難しいでしょうか。
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満電バス 旅順松村町営業所旧趾

2021-01-18 | 旅順を歩く
2021年になりました。

昨年末は大連と旅順に遊びに行く計画を立てていたのですが、北京と大連の両方で新型コロナの市内感染者が出たことで様々な規制、管理が強化されたため、断念しました。

大連と旅順の友人たちと旧交を温め、久しぶりに街歩きをすることを楽しみにしていたのですが、やむを得ません。

正月休みの間、大連駐在中に撮影した写真を整理していたら、おもしろい写真が出てきましたのでご紹介します。



旅順新市街の満電バス松村町営業所だった建物です。
撮影したのは2015年5月です。



列寧街と解放街が交わるラウンドアバウトの北側の一角です。
ほぼ当時のままの姿を留めています。

満電バスが旅順市内のバス事業を始めたのは1928年とされていますので、この建物もその頃の建築と思われます。

ファサードの幾何学的な模様は建築当時からあったものです。



当時の写真が残っています。



古写真を見ると、当時は矢印部分の先に大きく「MANDEN BUS」という文字が掲げられていたようです。

この辺りは旅順旧市街の中心地ですので、バス停としては最適の場所です。

多くの客を乗せて賑わった様子が偲ばれます。
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旧旅順晴明学舎/旧泰豊楼

2020-10-27 | 旅順を歩く
旅順太陽溝の東明街と列寧街が交わる場所に残る廃墟です。



旅順の観光スポットである旅順博物館や旧関東軍司令部の隣でしたので、駐在当時はよく目にしていました。

廃墟感たっぷりということもあって目立つ2階建ての建築物でしたが、これが何の建物だったのか、分からずじまいでした。

隔離期間に中国語の文献を調べてみたところ、帝政ロシア時代に建てられ、ロシア財政局として利用されていたそうです。

日本租借時代の用途には、2つの情報があります。

ひとつは、晴明学舎と呼ばれる機関が使っていたそうです。

晴明学舎とは、平安時代中期の陰陽師である安倍晴明(921-1005)を研究する機関だったそうです。
陰陽道は明治政府で禁止されていたはずですが、当時の関東州ではどのような位置づけで、どのような活動を行っていたのでしょうか。

関東軍司令部の隣という位置は、何か関係しているでしょうか。
この点については、手掛かりになる文献が見当たりません。

もう一つは、この建物は泰豊楼と呼ばれる中国人経営のレストランだったとの情報もあります。
泰豊楼は当時の旅順では最大規模のレストランだったそうで、粛親王府を大顧客として料理をデリバリーしたという記録もあります。

これらの情報は両方正しく、晴明学舎と泰豊楼が入れ替わりで入居したということなのかもしれません。

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旅順 旧青葉町

2020-10-15 | 旅順を歩く
2016年9月に旅順旧市街の光輝街で撮った写真です。





今にも朽ち果てそうな平屋建てです。
アールヌーヴォー風のファサードが当時の気品を留めています。

この一帯は、日本租借時代は青葉町と呼ばれた商店街でした。



今も少し当時の老建築が残っています。

この建物が何だったのかを特定するのが難しいのですが、古地図で位置を確認すると、日界堂あるいは松崎文具店という店舗だったと推定されます。

旧青葉町は、東東京うさぎのモヒーさんが注目し、2018年11月の訪問の際に詳しく調査をしてくれました。
モヒーさんから共有していただいた写真もご紹介します。



モヒーさんも僕と同じ建物を撮影していました。



この2階建ての建物も古そうです。



この古写真もモヒーさんから提供してもらったものです。

右側のレンガの建物に注目してみましょう。
この建物は、先ほどの2階建ての建物と同じです。古写真は平屋ですが、その後2階部分を増築したようです。



この小さな平屋建てもギリギリ古写真に写り込んでいます。「玖山洋服店」という看板を掲げてある店です。
行政から重点保護建築や文物保護単位に指定されて守られているわけでもない市井の商店が現存し、かつ古写真にも残っているという珍しいケースです。

旧青葉町は、旅順を再訪する機会があったら、改めてじっくりと歩いてみたいエリアです。
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旅順 旧関東都督府蚕業試験場

2020-06-05 | 旅順を歩く
今回も東東京うさぎのモヒーさんから提供してもらった旅順の老建築をご紹介します。

旅順新市街にある旧関東都督府蚕業試験場です。



正確な築年次は不明ですが、ロシア租借時代(1895-1904)と考えられます。

当時は屋上や窓枠部分にロシア風の装飾が施され、玄関のある丸み帯びた部分の2階と3階にはベランダが付いていたようです。

数年前まで住宅として利用されていたようですが、現在は廃墟になっています。



官報をたどっていくと、旅順の蚕業試験場は1917年2月6日付の関東都督府令で組織の規程が定められ、同年4月1日付で施行されています。

試験場は、蚕糸業に関する試験と調査、蚕種と桑苗の配付、蚕糸業に関する講習と講話を行うことが任務と記されています。

同日の告示で、蚕業試験場は旅順市鎮遠町に設置すると記されています。
それがまさにここです。

江戸末期以降、養蚕業は日本の近代化を後押しした基幹産業でした。

日露戦争で外国から大量の軍事物資を調達できたのも、絹糸の輸出によって外貨を獲得できたためと考えられます。

現代の皇室でも、伝統行事として皇后による養蚕が続けられています。これは明治期に養蚕業奨励のために始めたとされています。
先日、皇后雅子さまが「御養蚕始の儀」に臨んだというニュースがありました。

養蚕業はもともと中国が発祥の地ですが、当時の日本の先端技術を租借地に持ち込んで、養蚕業の拡大につなげていく計画だったのでしょうか。
おそらく、この施設で働いた日本人職員は、日本の蚕業試験場から派遣されたものと思います。

「支那蚕業視察報告書」(1916年、農商務省蚕業試験場編)によると、当時の中国の養蚕業の中心は、浙江省、江蘇省、湖北省であり、養蚕は農家の副業として営まれているため小規模であると紹介されています。

この試験場で行われた研究開発事業がどのような成果を生んだのか、文献が見つからないので定かではありませんが、現代の中国の養蚕業の発展に少しでも繋がっていることを祈りたいと思います。



モヒーさんは、2019年の訪問時にこの写真を撮影したそうです。
満洲ハンター、さすがの取材力です。

ところで、今回の投稿で、「旅順を歩く」編が記念すべき100本の大台に到達しました。

これまで、この日記は累計100万PVを超える閲覧をいただいていますが、中でも旅順編は多くのアクセスをいただいています。
旅順が日本人にとって特別な場所ということだと思います。
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旅順 周文富旧居

2020-05-15 | 旅順を歩く
旅順の周文富旧居をご紹介します。



周文富(1874-1931)は、旅順出身の愛国起業家で、周文貴(2016年2月6日の日記)の実兄です。

旅順旧市街の長春街に彼の家族が暮らした家が残っています。
この建物は、文富の死後、1941年に未亡人が建てたそうです。





コロニアル風の洋館です。

周文富は旅順船塢局(2019年12月15日の日記)の組み立て工場で働いていましたが、日露戦争後に旅順に入植していた日本人に抵抗し、1909年に独立して大連(今の西崗区北京街)に順興製鉄所を設立、石油精製設備を製造し、国内産業の振興に力を尽くしました。

私財を投じて食料調達に奔走し、貧困にあえいでいた市民を救ったというストーリーもあります。



建物は大連市重点保護建築に指定されています。



今回の写真も、満洲ハンターこと、東東京うさぎのモヒーさんが提供してくれました。

モヒーさんの報告によると、この老建築のエントランスの床タイルは、大連市内の旧霧島ビル(2016年5月26日の日記)のタイルと同じだったそうです。
同じメーカーが製造したのでしょうか。これは興味深い発見です。
よくこんなところにまで気が付いたものです。

モヒーさん、いつもありがとうございます。
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旅順 羽田澄子監督が暮らした家

2020-04-15 | 旅順を歩く
旅順新市街の太陽溝に、記録映画監督の羽田澄子さんが暮らした家が残っています。





この一帯には、同じ規格の建物がたくさん残っており、どれも保存状態は良好です。

装飾を省いたシンプルなレンガ積みの作りです。
建てられたのは1930年前後でしょうか。

羽田さんの著書「私の記録映画人生」によると、羽田さんは1926年1月に大連で生まれ、一旦日本に戻った後、1936年(小学5年生時)に旅順に戻り、旅順で小学校と女学校(旅順高等女学校)に通いました。

女学校の卒業(1942年)後は単身で東京に戻り、自由学園に通ったとあります。

したがって、羽田さんがここで暮らしたのは10歳から16歳までの6年間だったということになります。
もっとも多感な時期です。

羽田さんは著書の中で旅順で暮らした家について、次のように説明しています。

「家は港を見下ろす高台にあって、並木のアカシヤが葉を落とすと、坂の下の方まで見通せた。石炭を積んだ馬車は、その坂道をごとごとと登ってくるのである」





たしかに玄関先は坂道になっています。



この表現から推測すると、この写真の2階左側が羽田さんが暮らした子ども部屋だったのでしょう。

羽田さんは、旅順での暮らしで、ロシア軍が作った大案子山永久堡塁(2015年5月28日の日記)や旅順博物館(2014年1月19日の日記)で遊んだと語っています。
小学6年時は、旧関東都督府の庁舎(2013年12月20日の日記)が小学校の校舎になったそうです。

当時、旅順は聖地として日本人に人気の観光スポットでした。
旅順の日露戦跡といえば、1世紀以上を経た今でも手つかずのまま生々しい姿を留めているところが少なからずありますが、羽田さんが暮らした当時はさらにリアルだったことでしょう。

羽田さんは、著書の中で、旅順の街について

「美しいアカシアの並木に囲まれ、広々とした土地に、優雅なロシア建築が点在する街の姿を、私は忘れられない」

と讃えています。
また、羽田さんにとって旅順での生活は

「私の家族にとって、最も穏やかに、幸せに暮らせた時代だった」

と紹介しています。

羽田さんは、東京が大空襲を受けた1945年3月に卒業し、焼け野原となった東京から大連に戻りました。
その後、戦時動員として満鉄中央試験所(2013年12月5日の日記)に配属されて研究の助手を務めているうち、大連で終戦を迎えます。

日本への引き揚げは1948年7月、到着地は京都の舞鶴港だったそうです。

羽田さんのお父さんは教師で、羽田さんの出生時は弥生高等女学校に勤務していたそうです。
いったん帰国して三重県津市の女学校で勤務した後、1936年に再び遼東半島に戻り、旅順高等女学校で教鞭を取ったあと、1942年から大連実業学校の校長を務めたそうです。

記録映画の監督として名を成した羽田監督にとって、多感な時期を過ごした租借地旅順の暮らしはとりわけ大きな影響を与えたようです。

願わくば、一度ご本人にお目に掛かってみたいものです。

今回の写真も、東東京うさぎのモヒーさんに提供していただきました。
モヒーさん、ありがとうございました。
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旅順船塢局旧址 - 中国初の近代造船所

2019-12-15 | 旅順を歩く
旅順東港には清代末期に北洋艦隊によって建設された古いドックがあります。

そのドックの施設の建物が今も残っているようです。

旅順旧市街の港湾街にある旧旅順船塢局です。

国家重点文物保護単位、中国工業遺産保護名簿に登録されています。




東東京うさぎのモヒーさんが撮影してきてくれました。これは貴重な写真です。

この一帯は日本租借時代は東郷町と呼ばれ、海軍の施設が集まっていました。

僕も何度か歩きましたが、こんな歴史建造物があることには気がつきませんでした。

今は軍管理区になっていますので、施設の中に立ち入ることはできませんが、この建物の南側数十メートルの場所にドックがあるはずです。

ドックは、北洋大臣李鴻章の指揮のもと、1880年から建設が始まり、1890年に完成しました。このドックは、中国で初となる近代的な水力発電施設を使用する工場でもあったそうです。

船塢局(造船局)舎は、ドックの建設と並行してここに建てられたようです。
船塢局は北洋艦隊の管理の下で、艦艇の保守と付属品の製造を行いました。


日露戦争後は日本帝国海軍の管理に置かれ、旅順鎮守府工作部、旅順要港部修理工場として運営されました。
大正12年には満鉄に譲渡され、満洲船渠株式会社旅順工場になりました。

現存する船塢局旧址は平屋建てです。

壁面は茶色の花崗岩と灰色の石、黒っぽいレンガと赤いレンガ、セメントが組み合わされたユニークな作りです。

赤いレンガは後から窓枠を嵌めるときに使われたのかもしれません。

写真ではこの建物しか確認できませんが、敷地内には、これと同じ建物がいくつか建っているようです。




貴重な清末期の建築物です。
モヒーさん、ありがとうございました。
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旅順工科大学付属臨時技術員養成所 正心寮旧址

2019-11-15 | 旅順を歩く

東東京うさぎのモヒーさんが、旅順の太陽溝で見つけた老建築の写真を提供してくれました。

これまで僕がこの日記でご紹介していない日本租借時代の日本人向けの学生寮だった建物です。


この平屋の長屋風の建物です。一見してロシア時代に建てられた建築物であることがわかります。

場所はスターリン路と茂林路の間です。旧旅順第二中学の斜め向かい側に当たります。

この建物は、1938年から終戦までの間、旅順工科大学付属臨時技術員養成所(1938-1942)及び旅順臨時教員養成所(1942-1945)の寮でした。

「正心寮」と呼ばれていました。




文献によると、臨時技術員養成所とは、1938年に設立された技術者を養成するための機関でした。当時、日本は急速な勢いで植民地を拡大したため、技術者不足が深刻化していました。
養成期間は1年間で、一学年約180人が在籍しました。

電気、機械、応用化学、鉱山の四科があり、旧制中学を卒業した生徒が中心だったそうですが、中には社会人の身分で会社から派遣されたり、戦傷した軍属の元少将なども在籍したので、年齢構成はバラバラだったそうです。

校舎は旅順工科大学に併設されており、一部の授業は大学生と一緒に受講したそうです。そして、1年間の養成を終えると、生徒たちは満州各地の企業に派遣されていきました。

この「正心寮」は、1部屋に4、5人が入居していたそうです。1部屋どの程度の広さだったのか不明ですが、寮生からは「馬小屋」と呼ばれていたそうですので、狭隘だったのではないでしょうか。

寮では朝晩点呼があったそうですが、夜の点呼の時には遊びに出かけて不在の者の分は周りが代わりに番号をかけるといった具合に、生徒たちは、不自由は感じながらも比較的自由に旅順の暮らしを楽しんだようです。

臨時技術員養成所は、1942年3月に4期生が卒業すると廃止され、同年4月から旅順臨時教員養成所に衣替えします。寮もこの正心寮が引き継がれました。

今度は技術者ではなく中等教育の教員を養成するというわけです。当時は全国的に理数科の教員が不足したため、補充が急務となったそうです。教員養成所は、数学科と物理化学科の2科から成り、学生は約50名でした。講師は旅順工科大学だけでなく、旅順高校や旅順師範学校、旅順中学などからもサポートが入ったそうです。

しかし、この頃から寮生の暮らしぶりはだいぶ変わったようです。臨時教員養成所の修養期間は2年半でしたが、中には途中で召集を受けた生徒もおり、卒業までに学生数が減っていったそうです。学生は、教員としての要請を受ける傍ら、旅順要港部での勤労奉仕や防空演習、関東神宮の造成にも当たったといいますので、当時の戦況の悪化が伝わってくるようです。1945年の最後の卒業生は、教員として赴任することが許されず、徴兵されて関東軍や陸軍予備師範学校、海軍予備学生として入隊する人も少なくなかったそうです。

正心寮旧址は、現在は廃墟になっているようです。

ロシア時代の建築ですから、竣工から120年近くが経過しています。

このまま取り壊しを待つ運命でしょうか。

モヒーさん、写真の提供をありがとうございました。

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旅順 ルーテル教会礼拝堂旧址 - 住宅街の中に潜む貴重な歴史建築

2019-10-15 | 旅順を歩く
研究仲間である東東京うさぎのモヒーさんが、また旅順の興味深い老建築を見つけてきてくれました。
9月の連休中に訪問したそうです。

旅順旧市街に残るレンガ造りの教会建築です。
僕も初見です。





場所は、黄河路と博愛街交差点の北西角の住宅街の中だそうです。

調べたところ、これは、旅順ルーテル教会礼拝堂だった建物です。

1934年に建てられたようです。
ファサードなどの装飾はない質素な作りですが、胴長ですから教会建築であることはすぐにわかります。
19世紀末から中国の華北や東北地域で宣教を進めていたデンマーク国教会が建設を主導したようです。




正面から少し奥まった場所に配置された左右の切妻が階段状になっていますが、この辺りは北欧やドイツ、オランダ建築の香りを感じさせます。

日本租借時代に建てられた大連のルーテル教会礼拝堂といえば、今も現役で活躍している北京街礼拝堂(1914年)が知られていますが、こちらはほぼ無名です。

モヒーさんによると、今は利用されておらず、廃墟になっているそうです。

モヒーさんからこの写真を貰ったあと、旅順旧市街出身の友人(1980年代後半生まれ)にこの教会のことを聞いてみました。

すると、友人は、この教会のことをよく知っていました。

中学時代の通学路にあったそうです。

友人が中学生だった約20年前、教会は現役で、信者による礼拝が行われていたそうです。友人の母校は大連市第55中学です。地図を確認すると、この教会のすぐ西側に当たります。

友人にこの教会に入ったことがあるか聞いてみましたが、一度もないといいます。

その理由を聞いたところ、「ちょっと怖かったから」といいます。
外も中も薄暗く、たまに赤い光が浮かんだり、普段聞いたことのない歌声が聞こえてきたりしたので、なかなか立ち入ることができなかったそうです。

友人は中学を卒業した後は近づいていないようなので、いつ頃教会としての役目を終えたのか不明ですが、少なくとも2000年前後までは使われていたことになります。

記録によると、この教会の建設の中心人物になったのは、賈恩高(1895-1983)という中国人牧師だったそうです。大連地区で最初の牧師とされています。
賈牧師は遼陽市で生まれ、丹東の中学を出て湖北省の神学校でプロテスタントを学び、卒業した1924年から旅順の教会で働いたそうです。
そして1930年代に入ると、当時の大連で最も収容力のあるこのルーテル教会の建築を指揮しました。






当時の写真が残っていました。

賈牧師は戦後もこの教会で牧師として働く傍ら、旅順口区の人大代表なども務めたようですが、文革で迫害に遭い、その後は青島に住まいを移したそうです。

その後88歳で亡くなるまで旅順に戻ることはなかったそうですが、1993年に遺灰が旅順に戻され、旅順四街道近くの教会墓地に埋葬されたそうです。

没後10年もの時間を経て遺灰が旅順に戻されたということは、どのような経緯があったのでしょうか。
いずれにしても、賈牧師が旅順に故郷として親しんでいたことは確かだと思います。

ルーテル教会礼拝堂旧址は、旅順口区の文物保護単位に指定されているようですから、解体されずに残っているものと思われます。

ごく普通の現代風の住宅街の中に忽然とこんな老建築が見えたら、驚くでしょうね。
文革の間も破壊を免れたのは、表通りではなく、住宅街の中に隠れるように潜んでいたからでしょうか。

教会の屋内は2階建てになっており、木製の屋根裏部屋があるそうです。

近代の中国とプロテスタントの歴史的な関わりを示す重要な遺構です。
願わくば、一度内部を見学してみたいものです。

モヒーさん、報告をありがとうございました。
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旅順 旧竹森医院 - 梅宮辰夫の父親が務めた病院

2019-04-25 | 旅順を歩く
旅順旧市街に、かなり古そうな長屋が残っています。







東東京うさぎのモヒーさんが撮ってきてくれた写真と古写真から推定すると、どうやらここは梅宮辰夫の父、梅宮次郎さんが務めていた竹森医院があった場所のようです。



梅宮の父が医師の駆け出しだった頃、旅順の病院で働いていたという情報は、2015年に放送されたNHKのファミリーヒストリーを見て知っていました。

次郎さんは満州医科大学で学び、1935年に卒業した後、旅順で先輩が開業した竹森医院で研修をしたと紹介されていました。

その際、当時の住まいの映像が今も残っているとのことで、古いレンガ造りの長屋の映像が流れたので、記憶に留めておいたのですが、結局探し当てることができませんでした。

それがここだと思われます。





僕もこの長屋の前の道を歩いたことがあるのですが、そのときには気が付きませんでした。

モヒーさんから長屋の写真を見せてもらい、この辺りに竹森医院があったらしい、という話を聞き、「ああ、これがあの番組で紹介されていた…」という具合に記憶が蘇りました。

竹森医院に関する文件を探してみたのですが、見つかりませんでした。

この一帯は海軍の施設が密集する場所でしたので、海軍関係者や家族にとっての身近な医療機関だったのではないでしょうか。
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