HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

ティナ・ターナーを悼む

2023-05-28 | その他
今週、シンガーのティナ・ターナーが逝去したというニュースがありました。

83歳だったそうです。

僕の音楽の嗜好を広げてくれた人物です。この人のすごさを知ったのは、ブライアン・アダムスとデュエットしたイッツ・オンリー・ラブ(1985年)でした。

ティナ・ターナーの存在はその前から知っていました。ソロで次々にヒット曲を飛ばしていたので、ラジオでよく耳にしていました。
そういう女性歌手がいるよね、という程度の認識でした。

当時僕はブライアン・アダムスのストレートなアメリカンロックにはまり(ブライアンはカナダ人ですが)、この曲が収録されているレックレスというアルバムをテープが擦り切れるほど繰り返し聴きました。イッツ・オンリー・ラブはその中の1曲でした。

レックレスは歴史的な名盤で、収録した9曲のうち6曲がシングルになりました。その最後となる6曲目のシングルがこの曲でした。

シングルカットされるとMVが製作され、小林克也のベストヒットUSAで放送されるわけですが、僕はそのとき初めてティナ・ターナーの姿を映像で見ることになります。
ライブの映像でした。

MVに登場したティナ・ターナーはミニスカ、網タイツ、ハイヒールのド派手衣装で猛獣みたいな髪型の黒人のおばちゃんでした。僕が歌声から想像していたのはピチピチの美女だったので、そのビジュアルのギャップに驚きました。

このときブライアンは25歳、ティナは45歳です。

親子ほども年の差のある2人がステージ上で挑発しあうように顔を寄せて圧倒的迫力のパフォーマンスを披露します。観客は熱狂しています。
こういう世界があるのだ、と思いました。
ぞくぞくしました。

日本にはこんな女性歌手はまずいません。当時、40代半ばの女性歌手といえば演歌歌手だけです。

アメリカではこんな自分の母親よりも年上のおばちゃんがゴリゴリのロックを熱唱し、そして国民的な支持を得ていることを知り、と目から鱗でした。
正真正銘のカルチャーショックです。

そこから彼女のアルバムを聴くようになり、ソウルミュージックが身近な存在になりました。音楽の好みの幅が広がったことを実感しました。



最近、ブルーノ・マーズがシルク・ソニックを結成してコテコテのスウィートソウルを発表してファンを楽しませてくれています。
僕もとても気に入っていてヘビーローテーションですが、あの10代の頃に自分がティナの歌声に出会い、ソウルに親しんでいなかったらどうだったでしょうか。
受け止め方が違ったかもしれません。

惜しむらくは、生のパフォーマンスを観る機会に恵まれなかったことです。
しかし、彼女の作品は生き続けます。

素晴らしい音楽との出会いに感謝して、冥福を祈ります。



ところで、中国でティナ・ターナーの認知度や人気はどの程度あるのでしょうか。

音楽アプリのQQ音楽でのティナ・ターナーの粉絲(Fans)は1.4万人でした。

多いのか少ないのかわかりません。
比較対象となりそうなシンガーをみると、マライア・キャリーが85.6万人、ホイットニー・ヒューストンが32.3万人、アレサ・フランクリンが2.3万人、シャーデーが2.7万人、ダイアナ・ロスが1.2万人、ドナ・サマーが0.6万人、グラディス・ナイトが0.3万人、アニタ・ベイカーが0.1万人でした。
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開設10年、閲覧御礼

2023-04-01 | その他
この日記を書き始めて10年が経過しました。

大連での暮らしで見聞したものを自分用に書き残すつもりで書き始め、飽きたらいつでもやめようと思っていました。こんなに長く続けることになるとはまったく思っていませんでした。

この間、書き留めてきた日記は1100本を超えました。
約70万人の方に訪問していただき、169万ページを読んでいただきました。

コロナ禍はありましたが、幸い日記のネタに欠くことはあまりなく、足腰も健康なままですので、街歩きを楽しむことができました。

これもひとえに読者の皆さまの支持のおかげです。
こんな駄文にお付き合いいただき、ただただ感謝しかありません。

日記は10のカテゴリーを設けていますが、特に読者のご支持をいただいているのは大連編と旅順編です。開設当初から今まで変わりません。

日記を振り返ってみると、それぞれの写真を撮影したとき、日記を書いたときの情景や心情が思い出され、懐かしさを感じます。

いつまで続けられるかわかりませんが、肩の力を抜いてボチボチと続けていこうと思います。

気が向いたら、引き続きお付き合いください。



水立方(アイスキューブ)です。
去年の北京冬季五輪でカーリングの日本女子代表ロコ・ソラーレが銀メダルを獲得した場所です。
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リマスター - テクノロジーの恩恵で名作の魅力を再発見

2023-02-21 | その他
音楽作品のデジタルリマスター技術は往年の名作に新しい命を吹き込んでくれるとてもありがたいテクノロジーです。

細かいことはよく分かりませんが、録音当時の音源を磨きなおして再構成するのはとても手のかかる大変な作業だということはよく知られる話です。

これまでの数多の作品がエンジニアによってリマスターされ、ありがたく恩恵にあずかってきましたが、最近、これは究極のリマスターではないかと感じる作品に出会いました。

ビートルズのリボルバーです。
昨年の秋に最新のリマスター版が発表され、話題を集めました。



リボルバーは1966年の作品で、2009年にリマスター版が発表されていました。

これはこれでサウンドが立体的になり、左右のイヤホンから別々の音が出てくるようになったので十分に満足していました。
しかし、ボーカルとスネアが右だけ、ベースが左だけといった具合にバランスの偏りがありました。

とはいえ、音源のトラック数が少ないのですから無理もありません。これが限界なのだろうと思っていました。

ところが、リリースされた2022年版は違っていました。
驚きのサウンドになっていました。

ボーカルとドラムとベースがドンと真ん中にきて、コーラスはより多重的な感じで包み込んでくるようです。
音一つ一つの輪郭がクリアになりました。ドラムとベース、ギターの音に厚みが出て、迫力が増したように感じます。音圧の調整をしたのでしょうか。

ビートルズの各作品は高校生のころから長年親しんできましたが、このリボルバー2022年版はもはや違う作品かと感じるほど新鮮でみずみずしく、新しい魅力が満載でした。
鳥肌が立つような感動がありました。

細かいことは分かりませんが、関連のニュース記事によると、どうやらひとつのトラックから個別の音を取り出す新しい技術を使ったようです。

いやはや、すごいテクノロジーです。そんなことができるのかと。天国のジョンとジョージも驚いていると思います。

開発者の技術とエンジニアの仕事ぶりに敬服します。毎日、生まれ変わった作品をありがたく聴いています。

今後、リボルバーより前の初期中期作品もこんな最新テクノロジーのリマスター版が発表されるでしょうか。
楽しみに待ちたいと思います。
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佐土原 西郷札製造所の跡地

2022-12-08 | その他
宮崎の西南戦争戦跡巡りの最後は、佐土原の「西郷札」を製造した場所です。

西郷札とは西南戦争中の1877年、軍資金が枯渇しつつあった薩軍が戦費を調達するために発行した軍票のことです。
軍票には「南洲翁五十年祭記念 西南役 薩軍札」という文字が印刷されていますので、これが正式名称でしょうか。
政府の承認を得ていない証券だったため、薩軍の敗戦により紙くず同然となり、これを買わされた宮崎の商家たちが困窮したと言われています。

松本清張は1951年の小説処女作「西郷札」でこれを題材にした歴史小説を発表し、直木賞候補作に推薦されています。



現存する西郷札は多くないようですが、延岡の西郷隆盛宿陣跡資料館に3点が展示されていました。



西郷札の製造場所は佐土原の瓢箪島という場所にあったそうです。
松本清張の小説の主人公である樋村雄吾もここ佐土原生まれの士族でした。

僕は実家から近い佐土原は多少土地勘があるつもりですが、瓢箪島とよばれる場所があったでしょうか。思い出せません。

調べてみると、広瀬の石崎川沿いの一角だったようです。

今は河川の改修でなだらかになっていますが、明治時代の古地図を見てみると、かつて石崎川は平橋から石崎橋の間でくねくねと大きく蛇行しています。石崎川に流れ込む支流もここにあり、周りを川の流れで囲まれた「でべそ」のような形をしていました。

そのためこの地は「島」とよばれたのではないでしょうか。

堀で囲まれているようなものですから、軍票を製造するには格好の場所だったわけです。



左側が瓢箪島だった場所です。



石崎川に流れ込む支流です。瓢箪島を囲っています。

西郷札は桐野利秋(中村半次郎)の発案で作られたとされています。

桐野は大河ドラマ「西郷どん」では無鉄砲で忠誠心の強い熱血漢として描かれていましたが、実はそういう戦費調達の知恵を編み出す戦略家としての一面があったのですね。

今は西郷札製造所の痕跡は何も残っていないそうです。
薩軍が意図的に消し去ったのか、何らかの思惑がありそうで、なかなかミステリーです。

県埋蔵物文化センターの駐車場にこのようなプレートがひっそりと掲げられていました。









それにしても、当時の佐土原の人たちは西郷札を作らされ、西郷札を買わされ、しまいには街を焼かれてしまい、相当な苦労を強いられたわけです。

知られざる故郷の近代史を学びました。
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延岡北川町 西郷隆盛宿陣跡

2022-12-05 | その他
西南戦争・和田越の戦い(1877年8月15日)で政府軍に敗れて退却した薩軍は、4キロほど北の北川町長井の可愛岳ふもとの自軍陣地に戻ります。

現在、俵野とよばれる山村の小さな集落です。
当時、西郷が宿泊した民家は今も残っており、資料館として開放されています。



この民家は児玉熊四郎という人物の邸宅だったそうです。

入場料は無料です。
管理人からチラシを受け取り、説明を受けてから自由に見学します。

後から知ったのですが、説明してくれた管理人は家主だった児玉熊四郎さんのひ孫さんだそうです。知らなかったので事務的な対応をしてしまいましたが、よくご尊顔を拝しておくべきでした。

さて、西郷はここに3日間滞在したそうです。
薩軍に自宅を追い出された児玉熊四郎さんご家族はどんな気持ちだったでしょうか。



奥座敷には人形が置かれていました。
西郷が村田新八、桐野利秋、別府晋介ら側近たちと話し込んでいるようです。



8月16日の夕方、薩軍はここで最後の軍議を開き、西郷は薩軍の解散を宣言します。



そして、西郷は宿陣の裏で陸軍大将の軍服を焼却します。かの有名なシーンです。

ここがその焼却したとされる場所です。



大河ドラマ「西郷どん」でもこのシーンは丁寧に描かれていました。





西郷が妻である糸と長男菊次郎と最後の別れをしたのもこの俵野です。

「飛ぶが如く」では、西郷が従軍を志願する菊次郎に投降を命じるシーンがありましたが、それもこの児玉邸だったのでしょうか。
ちなみに、菊次郎が加療した民家はここから東側に数十メートルの場所だったそうです。間にはJR日豊線の線路が走っていますが、これは後に敷設されたものです。

資料館に入ってみます。
館内には興味深い資料がたくさん展示されていました。



西郷が使っていたという硯。



可愛岳の山中から見つかったという刀。薩軍のものでしょうか。



桐野利秋が置いていったと伝わる刀。



官軍に降参するものは殺さず。政府軍が投降を呼びかけた木札です。



児玉邸の庭先からは可愛岳が眼前にそびえます。

解散宣言の翌日の17日の22時、西郷を含む薩軍の一部はこの山をよじ登って延岡を脱出し、三田井(高千穂)を目指します。

今度は児玉邸の裏側に回ってみます。
裏側は高くなっています。もうここから山が始まっている感じです。



ニニギノミコトの御陵墓とされる宮内庁の陵墓参考地です。



薩軍はここにニニギノミコトの陵墓があることを把握しており、包囲した政府軍も皇族の墳墓には砲撃を仕掛けてくることはできないと考えたそうです。
西郷が敬愛した明治天皇の祖先です。

西隣の民家の庭にはこんな石碑が立っていました。



この後、車で三田井まで走ってみたのですが、延々と山と深い谷が連なる大変なコースでした。

真夏の炎天下に、本当に政府軍の包囲をかいくぐってこんな過酷なルートを徒歩で踏破したとは、にわかに信じがたい思いでした。
薩軍は8月21日に三田井に到着したとありますので、4日あまりを要したことになります。明治のトレイルランです。

僕が定年退職したあとにまだ足腰が丈夫だったら、このルートの一部だけでも歩いてみようと思います。
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西南戦争 和田越の戦いの跡をあるく

2022-12-02 | その他
今年一時帰国をした際、宮崎県内に残る西南戦争の痕跡を歩いてみました。

9月初めのことです。

西南戦争は様々な媒体からあまたの情報が発表されていますので、ここでは詳しい紹介は省略します。

宮崎が戦地になったのは戦争の終盤戦でしたので、日本国内で最後の戦争が起きた場所といえます。

戦跡も比較的残っているはずですが、僕は故郷であるにもかかわらずどこにも行ったことがありません。子どもの頃は関心がなかったからです。

和田越の戦いは、北に向かって敗走する薩摩軍が政府軍にとどめを刺された最後の激戦です。

この戦いでは、それまで指揮を桐野利秋らに任せていた西郷隆盛が初めて自ら陣頭指揮に立ったとされます。和田越の峠の薩軍本陣跡には記念碑が立っているそうです。そこを目指します。

国道10号線を北上すると、通りに「和田越」という交差点がありました。そこから東側の細い側道に入って峠の坂道を登っていきます。
車一台がギリギリ通行できる道幅です。対向車が来たら交差できないので、来ないことを祈りながら慎重にハンドルを握ります。



石碑らしきものが見えてきました。この辺りが西郷の本陣があった場所のようです。

周囲は茂みに覆われてひっそりとしています。



この石碑を南側に少し下ってみます。



すると視界が開け、眼下に東海地区の田園風景が広がります。





とてもわかりやすい掲示板が設置されています。一目瞭然でありがたいです。

戦いが起きたのは1877年8月15日です。

正面に見える樫山は政府軍が本営を置き、山縣有朋中将が戦況を観望した場所です。

西郷はこの場所に立って政府軍と対峙しました。

このとき、もはや薩軍には銃も弾も食料も満足に残っていませんでした。

司馬遼太郎の「飛ぶが如く」では、西郷は和田越決戦が最後の本格交戦であり、自軍に勝ち目がないことを悟り、自らが敵弾に当たって死ぬことを望んで陣頭指揮に立ったに相違ない、と描いています。

政府軍には西郷従道と大山巌も従軍してこの戦いに参加しています。

後に日露戦争で第一軍司令官として活躍した黒木為楨もこの延岡攻略に参加しています。

右側(西側)に目を向けると、薩軍が陣を張った高畑山や長尾山が広がります。



今は国道10号線のトンネルがありますので簡単に長井方面に通り抜けることができますが、当時は峠越えをするしかありませんでした。すぐ東側は北川です。
ここが天然の要塞のような地形になっていることがよくわかります。

きわめて穏やかな田園風景が広がるこの地で、145年前にわが国の歴史に残る凄惨な軍事衝突が起きたとはとても信じられません。





次は北川町長井の薩軍陣地跡に向かいます。
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栃木 旧関根家住宅

2022-10-09 | その他
栃木市内の旧日光例幣使街道である蔵の街大通りに並んでいるかわいらしい洋館です。



この近代洋風建築は1922年に建てられたもので、もともとは江戸時代からタバコの卸売商を営んでいた関根家の邸宅だったそうです。
今年でちょうど築100年ということになります。





タイル張りで切妻付近の装飾がいかにも大正期のスタイルです。

今は市の所有となり、パーラートチギとよばれるカフェかレストランとして利用されているようでした。
営業中の店舗なのに看板類が一切出しておらず、建築物をそのままの姿で見せてくれています。



このため、一見しただけでは何の店なのかわかりません。店であるのかどうかすらわかりません。

若い人たちが運営しているそうですが、なんと粋な配慮でしょうか。それでも、店内は若者客で賑わっているようでした。



国の登録有形文化財の指定を受けているそうです。
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栃木市 巴波川沿いの伝統的建造物群

2022-10-06 | その他
栃木市は江戸時代に舟運を用いた貨物の集散地として交易で繁栄した古い問屋町です。

旧日光例幣使街道近くを流れる巴波川沿いには、今も約120メートルにわたって黒塀と白壁の回船問屋の蔵が連なっています。



これはなかなか壮観です。





明治末期から大正にかけて建てられたものだそうです。ほかではなかなか見られないかもしれません。

巴波川には遊覧船が運航していました。

当時の栃木は北関東を代表する商業地で、江戸から多くの物資が入り、人的な往来も盛んだったので文化的な交流も活発となったそうです。

旧日光例幣使街道である蔵の街大通りでは「小江戸」というキャッチフレーズという文字をよく見かけました。

しかし、本家の江戸には今やこんな光景は残っていません。今やこの光景こそが江戸の風情を今に伝える貴重な場所なのだと思います。



ここから江戸までの水路の距離は170キロメートルあまりです。

栃木方面から運ばれた物資は木材や食料、薪炭など様々だったようですが、主要な貨物だった木材は、ここから深川の木場まで運ばれたのでしょう。

今は高速道路を使えば3時間もかかりませんが、当時は数日を要したそうです。
江戸の発展の歴史を知る痕跡は、江戸だけではなくこういう地方都市の方によりたくさん残っているケースがある、ということがわかりました。



巴波川に流れ込む支流にかかるこの橋は昭和8年竣工です。



巴波川橋は昭和9年竣工と、これまたベテランです。それまでは木造橋だったのでしょうか。

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栃木市 好古壱番館

2022-10-03 | その他
栃木市に行ってみました。初めての訪問です。

栃木市は江戸と日光とつなぐ日光例幣使街道の宿場町として、古くから栄えてきたそうです。
恥かしながら例幣使という言葉を初めて聞きましたが、江戸時代にはそういう官吏が存在したそうです。簡単に言えば天皇のメッセンジャーでしょうか。



市内には今も多くの見世蔵や土蔵、洋館が残っており、当時の繁栄ぶりを感じさせます。北関東にはこういう街があるのですね。

蔵の街大通りはこうした旧家がたくさん残っていました。ここがメインストリートでしょうか。



このレトロな洋館はとても風情があります。



大連や旧満洲でも見かける、いかにも大正時代の風情です。

好古壱番館というそば屋さんのようですが、元々は1923年に建てられた安達呉服店とよばれる店だったそうです。



好古というので秋山好古に所縁があるのかと思いきや、「こうこ」と読むようです。

都内にはこれほど老建築がまとまって残っている場所はありません。
関東大震災と戦火の影響が少なく、戦後人口集中による急速な都市開発が行われなかったこの地だからこそ、保存されてきたのだと思います。



好古壱番館は国の登録有形文化財に登録されていました。

初めて訪れた栃木市は、なかなかおもしろい場所でした。

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2年ぶりの一時帰国

2022-09-27 | その他
2年ぶりに一時帰国しました。

これまでの海外駐在では、少なくとも年に一度は帰国していたので、連続して外国に滞在する期間としては最長となりました。

厳戒なコロナ警戒が続く中国との往来は容易ではありません。
青島経由成田までのフライトは、乗り換えと待ち時間を含め約12時間の行程です。直行便なら3時間弱ですので、ずいぶん遠くまで旅をした気分です。



それもあって、成田に到着したときには感慨ひとしおでした。



祖国ではすべてが新鮮で、空気も食べるものも、どれもが美味しく、心身に染み込んでいくようでした。

かつてはよく通っていたチェーン店のうどんや駅そばまで、これまでとは違う格別の味わいでした。日本人でよかった、としみじみ感じ入りました。









久しぶりの日本はコロナ感染第7波の最中でしたので、感染には細心の注意を払いながら様々な場所を訪問してみました。故郷の九州にも帰り、墓参りをしました。

今後、この日記でいくつか記録を残しておこうと思います。





ヒガンバナは特に好きな花です。
毎年きっちり彼岸の時期に咲きます。

この花をみて秋の訪れを感じ、心が躍る感じがするのは日本人ならではの感情でしょうか。
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閲覧御礼 - 延べ50万人の皆さまへ

2021-06-24 | その他
いつも日記をご愛顧いただき、ありがとうございます。

本日、このブログの訪問者数が50万人に到達しました。

こんな駄文を延べ50万もの方が読んでくださるとは俄かに信じがたく、望外の喜びです。

2013年に書き始めて8年が経過しました。

当初は大連の駐在の記録として書き始めたので、帰国をゴールと考えていたのですが、東京に帰っても見聞したものをぼちぼちと書き留めていたら、まさかの北京編が始まり、今日に至ります。

おかげさまで北京でも快調に街歩きを続けています。
今後ともぼちぼちと、気が向いたらお付き合いください。

ご愛読に心から御礼申し上げます。



今日はお祝いだと思い、日本から輸入されたキリンの新しいビールを調達して飲んでみました。
メイドインジャパンのビールを飲むのは何か月ぶりでしょうか。

とても香りがよくて、驚くほど美味しいです。
うわ、日本のビールってこんなに美味しかったかな、と思います。

母国日本の技術の高さを誇らしく感じました。

僕が作ったわけでもないのですが。

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成都 水井坊 - 中国で最も古い蒸留所

2020-02-25 | その他
先日、成都に出張した際、白酒・水井坊の古そうな工場の前を通り掛かりました。




僕が宿泊したホテルのすぐ裏手でした。

いかにも風格のあるレンガ造りです。

建物の壁面に全国重点文物保護単位のプレートが入っていますので、何やら相当歴史的な価値がある建築物のようです。


調べてみると、この白酒工場は、中国で最も古い蒸留所と呼ばれているそうです。

ここで元の末期か明の初期に白酒の製造を始めたとあります。

この施設は、「文字のない中国白酒の歴史書である」とも紹介されています。

水井坊は中国のどこででも見かける有名な酒ですが、白酒界の長老だったのですね。

施設の敷地内に入ってみると、風に乗ってコウリャンを蒸した匂いが漂ってきました。

それほど大きな工場ではありませんが、今も現役で活躍しているようです。


中国の宴会の酒といえば、今も昔も白酒です。

僕もこれまでたくさん飲んできましたが、ここが発祥の地だと考えると、感慨深いものがあります。

水井坊は僕も飲んだことがありますが、かなり昔です。上海に駐在していたときです。

したがいまして、もう味も覚えていません。

大連ではなぜかご縁がありませんでしたが、親しみを感じるようになりました。

僕は宴会の際に自ら進んで白酒の銘柄を選ぶことはほとんどありませんが、今後選べるチャンスがあれば、水井坊を選んで飲もうと思います。
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武漢加油! 大連加油! 中国加油!

2020-02-15 | その他

新型コロナウイルスの発生で、中国が大変な事態に陥ってしまいました。

楽しいはずの、待ち望んだ春節が、図らずも辛い時間になってしまいました。

報道や友人たちのSNSから伝わってくる現場の状況や、各地で行われている必死のウイルス封じ込め対策を見るにつけ、心が痛みます。


何人かの友人たちから、マスクや防護服を調達してほしいとの相談を受けましたが、売っていないので買うこともできません。

友人たちが困ったときに力になれず、情けなく、申し訳なく思います。

こんなに長い時間、自宅に籠もりっきりになってしまうと、心身ともに支障が出てくるでしょう。

外出して家族や友人たちと美味しいものを食べたり、子どもたちは遊んだりしたいはずです。

それでも辛抱強く自宅待機を続け、不自由な生活を受け入れて暮らす友人たちに、本当に頭が下がる思いです。

週末に上野や浅草などに出掛けると、人通りがかなり少なくなりました。


フライトも減便となりました。


訪日観光を通じて日本に親しみ、日本経済に貢献してくれていた中国人が消えてしまいました。今さらながら、中国人の存在感の大きさを思い知ります。

新型コロナウイルスがもたらす交流や経済面の影響も大きくなってくるでしょう。

今はただただ、日々1日も早い終息を祈っています。

早く中国の友人たちの当たり前の生活が戻ってくることを祈っています。

武漢加油 ! 大連加油! 中国加油!



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今年も走りました - 第31回大連国際マラソン

2018-06-05 | その他
今年も大連国際マラソンを走ってきました。

5年連続です。

3月下旬から猛烈に忙しい日々が続いており、無事渡航できるか際どい状況でしたが、何とかスケジュールを調整して1年ぶりに大連を訪れることができました。

しかし、今シーズンは調整が順調ではありませんでした。

昨年から日頃の週末ジョギングのスピードが落ちてきたことを実感したので、専門書を読み、12月からフォアフット走法という走りを試してみました。アフリカ人ランナーや大迫傑選手が取り入れている、やや前傾してつま先から着地する走り方です。

すると、これが効果てきめんで、慣れるにしたがってぐんぐんスピードが上がってきました。

いい走り方を手に入れました。
トレーニングを積み、2月には1人でハーフを走ったところ、1時間52分というレース並みのタイムが出ました。
これは5月の大連が楽しみになってきました。
ところが、です。

その直後、トレーニング中に左足のアキレス腱が痛み始めました。
大事を取ってその場でトレーニングを中止し、その週は患部を安静にして回復に専念しました。

翌週、恐る恐る走ってみると、3キロ程度走ったところで再び痛み始めました。

どうやら本格的に故障してしまったようです。
調べてみると、フォアフット走法はアキレス腱に負担の掛かる走り方だったようです。後悔の念が募ります。やはり、僕のような短足の日本人には向かない走り方だったようです。

そこで、思い切って1ヶ月トレーニングを休むことにしました。

そして、ようやく左足が回復してきたのは桜が咲き始めた頃でした。その頃から仕事が忙しくなり、休日出勤が増え、十分なトレーニング時間が確保できなくなりました。

こんな調子でレースを迎えました。
当日は、まだ寝不足による軽い頭痛と疲れが残っていました。

さすがに好タイムを狙うのは難しそうです。
今回は楽しむレースと割り切ることにしました。マイペースで行けるところまで行き、足が止まってしまったら、そこから先は歩いてゴールまでの時間を楽しむことにしました。

スタートは7:10です。

ずいぶん早いスタート時間です。一昨年は8:00だったはずです。
昨年は7:30で、今年はさらに繰り上がりました。交通への配慮なのか、暑さ対策なのか、よくわかりません。

いずれにしろ、今年も無事スタートラインに立つことができました。
スタート時の気温は15度です。天候は曇り、無風です。


定刻に東港の国際会議中心をスタートしました。

人民路では道路の両方に人だかりができ、大きな声援が聞こえてきます。

森ビルを過ぎた登りの途中でLちゃんの姿が見えました。毎年応援してくれて、ありがたいことです。

5キロを通過しました。

27分01秒です。

まずまずです。
人民広場付近では、SZさんが手を振ってくれました。

この辺りがコースの最高地点です。ここから緩やかな下りに入ります。
市内を抜け、馬欄河を過ぎ、大連富士が見えてきたところで折り返しの先頭ランナーとすれ違いました。

僕が習得できなかったフォアフット走法で、あっという間に過ぎ去っていきます。まるで違う生き物のようです。




星海広場に入りました。なるべく内側のコースを選んで1周します。

10キロ地点を通過しました。
この5キロ、26分25秒です。

思いのほか順調です。体が軽く感じます。
ランナーズハイの状態とはいえ、少なくとも過去2年に比べるとコンディションは良好です。

星海広場を周回すると、再び中山路に戻ります。

ここは今年からコースが変更になっています。
今度は中山路を市内に向かって走ります。
左側の車線には往路を走る多くの市民ランナーの姿が目に入ります。大会には3万人が出場していると聞いていますが、相当な人数であることがわかります。

去年まで通っていたゴーリキー路は、プラタナスの新緑に包まれながら走るので景色はよかったのですが、緩やかな登りが長く続くところが難点でした。
中山路ではそれがかなり軽減されています。

ここは改良と言えるでしょう。

15キロ地点を通過しました。
この5キロ、26分23秒です。

順調です。
気温は少し上がったようですが、それでも17度には届いていないように感じられます。

18キロ地点から、早くもエードステーションが現れました。ランナーの視点で様々な改良が行われているようです。
しかし、ここはパスします。

一二九街の坂を下ると、緑に覆われた労働公園が目に入ってきました。
五恵路に入ります。

この付近では山翠のYさんやLちゃん、W、Bなどが待ってくれているはずです。
前方に僕の名前を書いた大きな看板が見えました。

手を振りながら、スピードを落として歩道寄りに移動します。

応援団はたくさんいるようです。
YさんやLちゃん、W、Bだけではありません。Gもいます。OさんもSさんもいます。
懐かしいです。見たことのない女性もいます。
全員女性です。

これはテンションが上がります。

僕だけを応援してくれているわけではないと思いますが、このレースでこんなに恵まれた応援を貰える幸せな日本人は、僕ぐらいではないでしょうか。
ちなみに、こういう女性のみの応援団を拉拉隊と呼ぶそうです。生涯の自慢になりそうです。

とても元気をもらいました。

願わくば、拉拉隊は一箇所にまとまらずに、数キロ置きに1人ずつ立っていてくれたらもっと力になるのにな…。
しかも、できれば苦しい後半30キロ過ぎで…。

という自己中な気持ちも過ぎりますが、それは欲張りすぎというものです。

労働公園を右折し、解放路に入ります。

昨年工事が行われていた旧満鉄倶楽部野球場は、野外のスポーツ施設に改造されたようです。
78年前に日本のプロ野球公式戦も行われた伝説の球場跡ですから、同じくスポーツで利用されるのはうれしいものです。


満鉄倶楽部野球場跡です。



七七路に入りました。

コース中、もっとも道幅の狭い場所です。
周囲はノスタルジックな大正から昭和初期の老建築です。新緑の香りに混じって、ところどころでアカシアの甘い香りも漂ってきます。

今が大連の一番よい季節です。自分が大連に帰ってきた喜びをかみしめながら足を運びます。

20キロ地点を通過しました。

この5キロ、26分56秒です。
まだどこにも痛みはありません。

思いのほか軽快です。
このままどこまで行けるでしょうか。
中間地点に到達しました。ハーフマラソンの選手たちが満足げにゴールしています。

三八広場に来ました。
ここは沿道の応援が一際多い場所のひとつでしょうか。広場を取り巻くように多くの人波ができています。

魯迅路に入りました。
路面電車と並行する道を寺児溝に向かって走ります。市街地のコースはまもなく終わり、東港エリアが待ち構えています。

24キロ地点を通過した直後です。
右側から突然ジャンプしながら両手を振って僕の名前を呼ぶ大男がいました。

なんと、Mです。
これは驚きました。

そういえば、Mが務める物流会社はこのすぐ近くです。

彼には僕が出場することは伝えていましたが、通過予想時間も、ゼッケンもウェアの特徴も伝えていません。
僕の顔しか目印がないはずです。しかも、僕は帽子を深めにかぶっています。
よく探し当てたものです。

いつからここで待っていたのでしょうか?

レース後に聞いたところ、Mはそこで2時間、僕の通過を待ってくれていたそうです。
必死に人ばかり見ていたので目が痛くなったそうです。

恐縮至極です。

僕も両手を振り返し、大声で御礼を言います。
Mよ、ありがとう。

魯迅路に別れを告げ、東港の埋め立て地に入りました。
ここからゴールまでの17キロは、ひたすらこの殺風景な埋め立て地を走ることになります。

この先は、沿道の応援者もほとんどいません。

25キロを通過しました。
この5キロ、26分51秒です。

やや腰が重く感じますが、足は大丈夫です。息も大丈夫です。

風は東向きに微風でしょうか。向かい風ですが、それほど気になりません。

油断は禁物ですが、案外、今日は行けるかもしれない、と思いました。
1ヶ月半の激務の影響で体重が3キロほど落ちましたので、これはプラスに働いているはずです。

海之韵公園まで来ました。ここで折り返して西に向かいます。
ここから4キロ、まっすぐな道が続きます。
少しずつ両足にしびれを感じるようになってきました。

30キロの掲示板が見えてきました。

この5キロ、27分39秒です。
ラップは落ちましたが、上出来です。

ゴールまで残り1時間ちょっとです。
ここまで順調に来ることができたのですから、緩めることなく最後まで走りきろうと気持ちを固めます。
このペースなら3時間40分台も視野に入ります。

例年、この辺りから右ふくらはぎの痙攣が始まるのですが、今年はまだ兆しがありません。
痛めていた左のアキレス腱も大丈夫です。

時計は午前10時前です。
雲が晴れて、高い位置から日光が照りつけるようになってきました。

東港地区は平坦で道幅が広いのはいいのですが、景色に変化がなく単調なので、前に進んでいる手応えが感じられないのが難点です。

願わくば、何かここらでランナーを飽きさせない工夫がほしいところです。

32キロで再び折り返し、再び東側に向かいます。

エードステーションが見えてきました。
体がエネルギーを欲しているように思われたので、バナナを手に取り、3分の1カットを軽く咬んで流し込みます。
ドールが提供しているようですが、甘みが強くて美味しいです。

苦しくなってきましたが、いつものことです。
黙々と東に向かって直進します。

ようやく最後の折り返しが見えてきた頃です。
突然、右足ふくらはぎに鋭い痛みが走りました。

ついに来ました。痙攣です。

足を止め、コース脇の縁石を使って素早くストレッチします。
目の前には35キロ地点を示す掲示板が見えています。残り7キロです。

「頼む、持ってくれ」

重症化しないことを祈りながら再び走り始めます。

35キロ地点を通過しました。
この5キロ、27分46秒です。

思ったほどスピードは落ちていません。まだ3時間50分切りは圏内です。
しかし、足は重く、次第にしびれが強くなってきています。


「はあっ」と大きく息を吐き出し、大きく酸素を取り込みます。最後の7キロに挑む覚悟を決めます。

イヤホンを耳にねじ込み、ボリュームをひとつ上げました。これも最近のレースでのルーティンになってきました。
流れてくる音楽に集中して、疲れや痛みを紛らわせます。

気温が上がってきました。20度近くあるでしょうか。
汗が流れてきます。

37キロからは東港の一番北側の道に入ります。ここはコースが変更された場所です。

右側には大連湾が広がり、客船の往来が目に入ってきます。
海の向こうには大黒山の姿も確認できます。
足を止めて雄大な大黒山を眺めたい誘惑にかられます。

ここにきて、足が止まってきました。
ここまで何とか粘ってきましたが、スピードが極端に落ちたように感じられます。
腕を振ってややフォアフット気味の着地を試みますが、疲れた腰がついていきません。
さらに、右足の痙攣もときどき顔を出します。
ガス欠の症状がはっきりと出始め、呼吸の乱れも大きくなってきました。

もはやスピードを回復させるのは不可能のように思われます。

冷静になって残り5キロの攻略を組み立てます。
ここは次なる故障を誘発するようなチャレンジは避け、今のままのフォームで騙し騙し最後まで走り抜いた方がよさそうです。

しかし、このスピードでは3時間50分は微妙です。

諦めるか?
どうせダメならいっそ歩くか?

悩みます。
そう考えている間も、疲労はみるみる蓄積し、足のしびれも増していきます。

待望の40キロサインが見えてきました。
ゴールの国際会議センターも目の前です。

この5キロ、28分22秒です。
ここまで3時間37分過ぎです。

残り1キロを6分ぐらいで走れば、ちょうど3時間50分ぐらいの計算になります。

やれるか?

最後の給水を続けて2杯取って、のどに流し込みます。
体は悲鳴を上げています。

あと12分ちょっと…。あと3曲聞けば終わる…。

しかし、ここから先が長い12分です。
なかなか目標物が近づいてこないように感じられます。

腕も振れていません。
「はあっ、はあっ」という自分の荒い吐息がはっきり耳に聞こえてきます。

なんで? なんで進まないんだ?

早く終わらせたいがあまり、急いている気持ちがそうさせているのでしょうか。

残り1キロです。

国際会議センターを回り込むと、正面に中山東路が見えてきました。
ここを右折すれば、ゴールゲートが見えるはずです。

はあ、ようやく着いた…。ここまでくれば後は惰性でゴールになだれ込むだけです。
最後のカーブを曲がると、やけに遠くに小さくゴールが見えました。

ゴールは、自分が思っていたより遠くにありました。実はここも今年からコースが変更されていたようです。
まだ300メートル以上あるように感じられます。

あれ…? こんなに遠かったっけ?

ああ、くそっ….。主催者を恨みます。
歯を食いしばって足を回転させます。周りのランナーたちはゴールの歓喜で笑顔です。
しかし、僕はまったく笑えません。足がもつれて、今にも転びそうです。

ゴールの100メートルほど手前で、再び拉拉隊が僕の名前を呼んで応援してくれていました。
右手を半分ぐらい上げて、かろうじて声援に応えます。
ありがたいのですが、もはや笑顔を出す力は残っていません。

正面を向き直します。

ゴールの電光掲示板が目に入ってきました。
3時間49分台を指しています。
間に合うでしょうか?

最後だ….最後だ….
両手を強く握り、前傾姿勢を取ってゴールを目指します。
他のランナーと接触して倒れそうになりながら、ゴールしました。

ゴールを通過すると、少し右脇にそれた場所を確保して両手を膝につき、大きく息を吸い込みました。
ふう、ふう….。

見上げると、大連の空には青空が広がっていました。



●第31回大連国際マラソン 2018年5月13日(日)曇り、15度

5km 0:27:01
10km 0:53:26(26:25)
15km 1:19:49(26:23)
20km 1:46:44(26:56)
25km 2:13:35(26:51)
30km 2:41:13(27:39)
35km 3:08:58(27:46)
40km 3:37:20(28:22)
Finish 3:50:03(12:43)

何とかやり切りました。
何とか、今年も走りきることができました。


狙った3時間40分台には、わずか4秒足りませんでした。
まあ、これは来年また来いという神様からのメッセージだと理解しました。

今年も第2の故郷でよい思い出ができました。
応援してくれた皆さん、本当にありがとうございました。
コメント (2)
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ブエノスアイレス 2020年東京オリンピック開催が決まった場所

2018-01-05 | その他
先月、出張でアルゼンチンの首都ブエノスアイレスを訪問しました。




人生初のアルゼンチン訪問です。

4日間の滞在でした。
滞在中、プエルト・マデーロ地区にあるヒルトンホテルのコンベンションセンターに立ち寄りました。


地下1階の「パシフィコ」と呼ばれるこの大会議室は、日本にとっては歴史的な出来事があった場所です。


2020年東京オリンピックの開催が決まった場所なのです。

遡ること4年前の2013年9月7日、ここで開催されたIOC総会において、東京、マドリード、イスタンブールの3都市が争った招致レースは、投票の結果、東京に決定します。


それがこの部屋です。

あの滝川クリステルによる最終プレゼン「お・も・て・な・し」や、ジャック・ロゲ会長の「トキオ!」は、この空間で発せられたのです。

招致関係者の長年の努力が結実した瞬間です。

YouTubeで当時の映像を振り返ると、会議の参加者は赤色のイスに座っていたことがわかります。


このイスです。

当時、僕は大連の駐在1年目でした。
異国の地で知った祖国の快挙の報に鳥肌が立ち、感激しました。

当時、テレビから伝わってきた熱狂を思い浮かべ、ひとり静かに思いを巡らせました。

2年後、自分が住む東京でオリンピックが開催されます。とても名誉なことです。

そのときがますます楽しみになってきました。




アルゼンチングルメといえば、ビーフステーキです。
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