HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

陸軍糧秣廠流山出張所の痕跡を歩く

2024-08-05 | 東京を歩く

流山に行ってみました。

流山にはかつて、糧秣廠とよばれた陸軍の施設がありました。軍馬の飼料となる干し草を圧搾梱包して保管し、国内外の各部隊や宮内庁、警視庁などに供給する役目を担いました。



ここにあったのは糧秣廠の本拠地ではなく、倉庫(後に出張所に昇格)でした。

今はイトーヨーカドーやビバホーム、流山南高校がある場所です。



流山は江戸川の水運と流鉄線という鉄路に恵まれ、飼料の原料となるわらや干し草の産地にも近かったので、この地が選ばれたようです。

ここから江戸川の堤防まで200メートルほど、流鉄線の線路には隣接しています。

施設の痕跡を探るべく、周囲を歩いて一周してみましたが、痕跡らしきものはどこにも残っていません。

残っているのは当時から施設の一角にあった千草稲荷という小さな祠だけでした。



この神社は大正14年(1925年)に錦糸町から施設が移転してきた直後に分祀してきたものだそうです。

戦勝を願って働く工員たちの心の拠り所として信仰を集めたのでしょう。



面積は20坪ほどでしょうか。県道側からは見落としそうになるほど小さい神社です。

この台座には、陸軍糧秣本廠流山倉庫職員一同、大正1571日とあります。



建立時に作られたものだと思われます。

この灯篭には昭和1161日とあります。



この時点ではまだ出張所ではなく倉庫です。

こちらの手水鉢の裏側には、陸軍糧秣本廠流山出張所所員一同、昭和178月と刻まれています。




つまり、この頃から出張所に昇格したと。組織としての機能を持ったということだと思われます。

神社の裏側(県道側)にはこんな掲示板が掲げられ、市民にひっそりと歴史を伝えています。




元所長の瀧上浦治郎さんが執筆したようです。

以下、起こしてみました。


元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑について

当所は元陸軍馬糧倉庫として、東京本所錦糸堀の旧津軽藩屋敷跡にあったが周辺の人家が増加して火災の危険を生じたため流山に移り、大正十四年七月一日開庁、敷地三五二六〇坪建物七五九七坪(倉庫二〇棟、事務所、工場等一五棟)であった。業務は軍馬用大麦、燕麦、高粱、牧草は本廠の指示により、また干草、ワラは関東地方各都県より買入れて貯蔵し、干草は圧搾工場にて四〇瓩梱包に精撰加工し、近衛第一師団下各部隊並びに宮内省、警視庁に補給した。また所管下の習志野、駒沢支庫がこれを補足した。なお江戸川岸に架空輸送機があって舟運の荷役に用いられ、ガラガラと称され名物であった。

流山がこの基地に選定された主因は、干草、ワラの主産地が千葉、茨城県下でその収集、補給に水陸両運の便が得られたためである。かくて流山は特徴ある有名な町となった。

やがて終戦となり、進駐軍に英和文リストを提出し接収された。その後構内及び職員共に運輸省東京鉄道局所管となり、特殊物資(進駐軍返還の各軍用品)を受け入れて整理、出納する鉄道用品庫流山支庫として6カ年余つづいたが、国鉄改革のため、昭和二十七年三月五日閉止され大蔵省を経て野田醤油並びに東邦酒類両会社と流山町に払下げられ、現在の状態となった。

回顧すれば、大戦中は敵機の攻撃目標となり、爆弾も投下され、且つ東京糧秣本廠が空襲のため全焼するや、その業務の一部が当所に加重されるなど重大任務の遂行と防空対策とで職員は殆ど不眠不休の苦労を重ねた。さらに終戦直後は軍廃止のため全員失職の運命に遭い、物資の欠乏、生活の困窮は実に甚しく、またともすれば流言飛語に迷わされがちな不安の中にあって、複雑な引継ぎと残務処理を一同一糸乱れず誠実に無事に完遂した。その労苦多としたい。

右の実情に鑑み、ここに本碑を建立して、史跡の標識とし、後代の参考に供する次第である。

昭和五十五年八月十五日

元陸軍糧秣本廠流山出張所長

記念碑建設委員長 瀧上浦治郎




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パリ五輪柔道開幕の日に嘉納治五郎の墓を参る

2024-07-30 | 東京を歩く

松戸市八柱に都立八柱霊園という広大な墓地があります。



千葉にあるのに都営とは奇妙ですが、昭和10年に東京市営として造成されたそうです。その話はさておき、その八柱霊園には嘉納治五郎の墓があるというので訪ねてみました

嘉納治五郎といえば講道館を作った人であり、「柔道の父」として知られています。

僕が訪ねたのはパリ五輪の柔道競技開幕の日です。ここは日本代表団の必勝祈願です。

墓前には立派な鳥居がでんと構えています。

嘉納は昭和135月に没したそうです。



1938年、日中戦争に突入した翌年です。

最近知ったのですが、嘉納治五郎は中国人留学生の育成にも力を注いだ人物だったそうです。

ときは1896年、西園寺公望の要請を受けて清国の留学生を受け入れ、神田三崎町で留学生教育を始めました。

1899年には亦楽書院を1902年には規模拡大のため西五軒町に弘文学院を開設しました。

弘文学院で学んだ留学生の中にはかの魯迅や黄興、陳独秀などがいました。彼らも嘉納と交流があったはずです。

嘉納は日本における中国人留学生育成の祖でもありました。


灼熱の八柱霊園にはほとんど人の姿はなく、遠くから聞こえてくるセミの鳴き声が墓地全体を包み込みます。

嘉納は今年で没後86年です。

今や柔道は世界中で愛されるスポーツに成長し、日中も交流も途絶えることはありません。大変な貢献です。





嘉納さん、八柱の墓地から世界の若者がパリで奮闘する様子を見守ってください、と静かに祈って墓地を後にしました。

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松戸市八柱の陸軍境界石

2024-07-14 | 東京を歩く

新京成線新八柱駅近くの踏切でこんな石柱を見かけました。



陸軍の境界石です。

当時ここにはどんな軍事施設があったのでしょうか。今の新京成線は鉄道連隊の演習線だったので、線路が軍用地だと示すための標石でしょうか。








ネットで探ってみると、八柱にはかつて八柱作業場とよばれた陸軍工兵学校の広大な演習場があったそうです。

ということは、これはその演習場の境界に打たれた石柱だった可能性もあるでしょうか。

演習場があったとされるのはみのり台駅の南側のようですので、ここは演習場の東側の境界だよと。

国立映画アーカイブ歴史映像ポータルに八柱作業場で行われた演習風景の記録画像(1924年)が公開されています(https://filmisadocument.jp/films/view/85)。

なんとも迫力のある映像です。戦車が縦横無尽に走り、煙幕や火焔を使った本格的な演習の様子が残っています。

今の八柱はベッドタウンとして多くの世帯が平和に暮らしていますが、こんな怖ろしい演習がこんな市街地で行われていたとは俄かに信じられません。

この石柱もこれらの演習を見ていたのでしょうか。




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松戸飛行場の痕跡を探す

2024-07-07 | 東京を歩く

かつて、松戸市に陸軍の飛行場がありました。

場所は今の陸上自衛隊松戸駐屯地とその西側に広がる松飛台地区です。松飛台という地名は松戸に飛行場があったことを地名として残すために名付けられたそうです。

何か痕跡が残っていないか、歩いてみました。

松飛台は工場や住宅が集まる場所です。たくさんの一戸建て住宅が整然と並んでいます。



松戸飛行場が完成したのは戦時下の1940年です。

東西と南北にそれぞれ1.2キロメートルの滑走路があったのだとか。

建前としては民間パイロットの養成を目的としていたようですが、何しろこの時代です。実態は陸軍が主導して帝都の防空基地にすることを狙いとして造成されたのだと思います。

実際、設立当初は逓信省航空局が管理していますが、1944年には陸軍に移管されています。



この南北に続く直線道路は消失点が見えなくなるまでひたすらまっすぐです。地図で測ってみると、直線が1,400メートルほど続いています。ここが滑走路の一部だったようです。

東西にも同じく1,400メートルほどの直線道路があります。

これだけ長い直線道路は地図で見ても目を引きます。

松戸は下総台地のへりに当たるので比較的起伏が多いのですが、この辺りは平坦です。しかも台地にあるので飛行場としては好条件だったと思います。しかも当時陸軍の軍用鉄道だった新京成線もすぐ近くを通っています。

しかし、今の松飛台はすっかり宅地化が進んでいて、飛行場を忍ばせる痕跡はこの道路だけです。飛行場としての役割を終えて79年が経過します。無理もありません。

松戸駐屯地の中には飛行機の格納庫が残っているそうですが、一般人は立ち入ることができません。

ネットの情報によると、当時の掩体壕の基礎だったと思しきコンクリート塊が今でも残っているという場所があるので、そこに行ってみます。

この空き地です。






いかがでしょうか。

この小石が混ざったモルタルはいかにも1940年代前半のつくりです。

もはや掩体壕の形は残っていませんが、掩体壕の一部だったという説明を受ければ、頷けるような見た目です。




モルタルからアンカーがはみ出しています。これもそれっぽい感じがします。

しかし、雑草や枯れた木枝に覆われていて、たぶん誰も気が付かない、気に留めないと思います。

当時、東葛エリアは軍事施設が多かったの、こうした遺構がほかにもありそうです。いろいろ訪ねてみようと思います。

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「辰巳の森緑道公園」で「赤い公園」をしのぶ

2022-09-30 | 東京を歩く
「赤い公園」というガールズバンドがありました。

2012年にメジャーデビューし、その後徐々に人気を得ていったようですが、その頃の僕は大連で暮らしていたのでその音に触れる機会がなく、2016年暮れに帰国してからラジオで初めて存在を知ることになりました。

キャッチーでありながら、骨太でガレージっぽくザラザラとした生音の質感があって、楽器一つ一つの音がしっかり聞き取れて、ところどころ意図的に歪んだ音を出してみたり生音感があって、バンドサウンド好きな僕の好みに合いました。

その一方で、今のEDMや打ち込み全盛の時代にこういうサウンドが若い人に広く支持されるものだろうか、と思ったりもしました。

2017年の春には音楽イベントでライブを観る機会がありました。新木場STUDIO COASTでした。

メンバー4人全員が白装束のような衣装をまとい、初々しい感じがありつつも息の合った迫力のあるステージを見せてくれました。いい音出すだなぁ、いいバンドだなぁ、と思いました。

それから、赤い公園をお気に入りバンドとしてよく聴くようになりました。

この年齢になって新たにバンドのファンになることはなかなかないことです。
自分がガールズバンドに注目するのは、80年代のバングルスやプリプリ以来でしょうか。もう30年以上久しいことです。

彼女たちの新しい作品の発表も楽しみにするようになりました。

ところが、です。

僕が北京に赴任した直後の2020年10月、バンドの中心メンバーだった津野米咲が突然この世を去ってしまうという耳を疑うようなニュースが飛び込んできました。
29歳でした。驚きました。原因は今でもわからないようです。

赤い公園の曲は基本的にすべて彼女の作品でしたので、もう津野作品の新曲を聞くことはできなくなりました。

津野は音楽業界でもその才能を高く評価され、テレビ朝日の「関ジャム完全燃SHOW」にも何度かゲスト出演していました。

世の中はすごい才能を失ってしまいました。
まだまだこれからいろんな作品を楽しませてくれるだろうと思っていただけに、とても残念で、信じられない思いでこれまでの作品を繰り返し聞きました。

先日一時帰国をしたとき、ジョギングがてら、バンドの代表曲のひとつである「Canvas」のMV(リンクはこちら)を撮影したと思われる「辰巳の森緑道公園」に立ち寄ってみました。



辰巳の森緑道公園は様々なドラマの撮影に利用される桜並木が美しい公園です。

僕が彼女たちのライブを観た新木場STUDIO COASTもこの近くです。

ここはもともと僕のお気に入りのジョギングコースの一つでしたので、MVを観たらすぐに気が付きました。

エピソードによると、この曲のMVは津野が自ら構想して監督もしたそうです。きっと思い入れのあるMVだったのでしょう。

曲を発表したのが2016年2月ですから、撮影したのは15年の暮れから16年の初め頃でしょうか。



2年ぶりに訪れましたが、やはり気持ちのいい公園です。ドラマやCMの撮影でもよく使われるので、見覚えのある方も多いと思います。

ここにドラムセットを設えて、カメラの前で4人がのびのびと演奏をしたと。その頃、誰がこんな悲劇を想像できたでしょうか。

MVの冒頭で津野がベンチに座ってギターを弾いていたのはこの辺りでしょうか。





僕が赤い公園の存在を知り、ライブを観て、曲に親しむようになったのはつい5、6年前のことです。最近です。

しかし、今やバンドも津野米咲も新木場STUDIO COAST(今年1月で閉館)もこの世には存在しません。

晩夏の日を浴びて青い葉を滔々とたたえる桜並木を見つめながら、時間というのは永遠ではないのだ、という厳粛な事実と向かい合います。

「Canvas」の歌詞の一節を引用します。

淡い淡い気持ちが 近頃急いでいる
ひとひらの祈り 時よ止まれ なんて


でも、彼女たちの珠玉の名曲たちはずっと残り続けます。

静かに手を合わせて、この先も作品を楽しませてもらうよ、と心でつぶやき、公園を後にしました。
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野田の近代産業歴史建築群

2020-10-10 | 東京を歩く
醤油の街として知られる千葉県野田市には、醤油産業の発展とともに明治期以降に建てられた古い建築物がたくさん残っています。

8月の週末、コロナ禍でしたが、マスクをして見学に出掛けてみました。

吉川市から野田橋を渡って野田市に入ると、歴史を感じる古そうな建築がたくさん目に入ってきました。

興風会館(1929年竣工)です。







風格のある4階建てのホールです。

映画や講演会、演奏会などの文化施設として利用されてきました。
ルネサンス様式っぽいモダンなファサードです。半円の窓にも遊び心があってリズミカルな気品を伝えています。

設計者は大森茂(1894-1934)という建築家だそうです。35歳時の作品ということになります。

キッコーマンの創立者として知られる茂木家と高梨家を中心に立ち上げられた興風会によって建築されました。

建築は昭和初期ですので、相当目立っていたと思います。
当時の野田経済の好調ぶりが伝わってきます。



築後90年以上を経過していますが、古さはあまり感じませんので、しっかりとメンテナンスをしてきたのだと思われます。
長年、野田のランドマークとして市民と醤油関連企業の誇りとプライドを表現してきたのではないでしょうか。ひときわ存在感を放っています。

訪問日は閉館だったので中の様子を見学することができませんでしたが、いつか入ってみたいものです。

次は旧野田商誘銀行(1926年竣工)です。



この建物も重厚で存在感があります。
野田の醤油醸造家たちが設立した銀行だったそうです。

2階建てのアールデコです。
正面には四角と丸の2種類のオーダーが配されていて、古典主義の雰囲気もあります。





黄色っぽい石積みが無機質なようで重厚感を伝えています。

野田商誘銀行は、後に千葉銀行に吸収されました。

現在は銀行ではなく、株式会社千秋社というキッコーマン系列の会社が使っているようです。

次はこの野田商誘銀行の支配人だった茂木七郎治邸です。





まるで映画のセットのような、時代劇に出てきそうな作りです。

次はキッコーマン第一給水所(1923年竣工)です。







かつてはここに給水塔があり、地下から原料の水を汲み上げていたそうです。

次は旧野田高等尋常小学校(1928年竣工)です。







現在は野田市立中央小学校として、現役で活躍しています。







昭和初期にこんな立派な鉄筋コンクリートの3階建ての小学校が建てられたのですから驚きます。玄関の門柱は当時のものでしょうか。
玄関から校舎に敷かれた石畳は風格のある社寺のようです。

最後に、キッコーマンの創業家である旧茂木佐平治家住宅(1924年竣工)です。







現在は茂木市民会館として市民に開放されています。

訪問時は、地元のボランティアガイドさんが丁寧に案内をしてくれました。
説明に聞き入ってしまったためか、写真を撮るタイミングを失ってしまいました。
テレビドラマやAQUOSなどのCMの撮影でも使われたことがあるそうです。

野田市の近代産業歴史建築群は、老建築好きにとっては穴場のスポットでした。
都内からの日帰り旅に最適の場所です。
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旧三田用水猿楽口分水 新坂橋の欄干 - 令和まで生き延びた奇跡

2020-09-25 | 東京を歩く
先日、渋谷区代官山の坂道を歩いていると、ふとこんな古びた欄干の跡が目に入ってきました。



片側だけ残っています。

代官山駅の北側200メートルほどの場所です。すぐ東側は東横線の地下線路出入口です。





アスファルトに埋まりかかっていますが、親柱には「大正13年」(1924年)、「新坂橋」という文字が確認できます。
当時、ここに川が流れていたということになりますが、こんな傾斜地に流れていた川とは何だったのでしょうか。

帰って調べてみたところ、ここは三田用水の分水路だったようです。

文献によると、1719年に開削され、猿楽口分水と呼ばれていたようです。

旧山手通りを流れていた本流から北東側に水を引き、北側を回り込んで恵比寿を通り、渋谷川に合流していたようです。
ということは、残っている欄干は上流側だったことになります。

三田用水の廃止は1974年とされています。

この橋が架かっていた分水路の廃止はそれより前だった可能性もありますが、仮に1974年と仮定しても50年近くが経過します。
代官山ヒルズなどこの開発著しい先端商業エリアの中心で、役割を失った欄干がよくぞ取り壊しを免れて残ってきたものです。
この数㎥の空間だけ、時の流れが止まっていたかのようです。



この巡り会いには感動しました。

滅多に足を運ぶことのない代官山で、たまたまこの道を歩き、出会った偶然に感謝しなければなりません。

「あんた、今までよく頑張ってきたなあ」

2つの親柱をさすりながら声を掛けました。

大正生まれの新坂橋の欄干は、その役目を終えても昭和、平成、令和に至る激動の時代を隠棲的にしぶとく生き抜き、アスファルトに飲み込まれそうになりながらもその気高い姿を今に伝えています。
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慈恵会医大付属病院 F棟

2020-09-15 | 東京を歩く
港区西新橋の慈恵会医大付属病院の近代的な施設群の中に、こんな新古典主義様式風の白くて風格ある建築物があります。





大学病院のF棟と呼ばれていますが、病院としては利用されていないようです。

文献によると、1930年の竣工だそうです。左右対称で奥行きがあり、日の字型になっているようです。



20代の頃にこの前の道をよく歩いていましたが、こんな建物があったことはまったく覚えていません。当時は建築に興味がなかったので、気が付かなかったのだと思います。



近づいてみると、玄関の脇にこんなおしゃれなライオンの吐水口がありました。
欧州の街角でときどき似たようなものを見かけますが、これは馬の水飲み場だったのでしょうか。1930年ならもう都内にはそれほど馬車は走っていなかったと思いますが。



エントランスには床タイルの粋な装飾があったり、ステンドグラスがあったり、大きなのっぽの古時計が待ち構えていたりと、とてもレトロな雰囲気を残しています。
いずれも建築当時のままでしょう。

老建築はメンテナンスに手がかかるものですが、長く残してほしいものです。
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旧陸軍第一師団歩兵第三聯隊兵舎跡 - 軍事遺跡と現代建築の融合

2020-09-05 | 東京を歩く
六本木の国立新美術館内にある旧陸軍第一師団歩兵第三聯隊兵舎跡を見学してきました。



1928年(昭和3年)の竣工だそうです。

2001年までは東京大学生産技術研究所としてほぼ完全な姿で残っていたようですが、国立新美術館の建設によって取り壊され、一部だけが保存されています。



当時、兵舎の平面は、丸みを帯びた四角形で、2つの中庭を持つ「日」の字型でした。
上野の東京国立博物館本館と同じ作りです。

かなり広い面積を持った建築物だったようですが、保存されたのは兵舎の南側に当たる一角のみで、全体の5、6%ほどでしょうか。
たったこれだけか、という印象がなくもないですが、残っただけでも重要な価値があると考えるべきでしょう。

西側にはカーブになっている部分が少しだけ残っています。

現在は国立新美術館の別館として利用されていますので、入場することも可能です。

歩兵第三聯隊は明治7年に編成された精鋭部隊で、日清戦争や日露戦争にも従軍しました。
日清戦争では太平山(現在の遼寧省営口市)や田庄台(同じく遼寧省盤錦市)の攻撃に参加、日露戦争では、南山の戦い(2015年12月8日の日記)や旅順攻囲戦、奉天会戦に参加しました。





末広がりになっているエントランスが特徴的です。

表側は老建築ですが、裏側に回ると総ガラス張りで近代的なデザインです。



国立新美術館といえば黒川紀章の最後の作品ですが、この別館も黒川の設計でしょうか。
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東京砲兵工廠内トロッコの跨線橋跡

2020-08-25 | 東京を歩く
北区/板橋区の旧陸軍の兵器弾薬工場跡地巡りの続きです。

このエリアには東京第一陸軍造兵廠と東京第二陸軍造兵廠という2つの製造拠点があったわけですが、そこを結ぶトロッコ(電気軌道)が通っていました。

線路は残っていませんが、埼京線に掛かっていた跨線橋の橋台が残っているという情報があったので、探してみました。

この線路は日露戦争後の1905年から1910年頃にかけて敷設され、戦争が終わるまでの間使われたそうです。

十条台橋の南側です。



わかるでしょうか?

線路の両側にコンクリートの出っ張りがあります。
ここを土台にして橋脚が立ち、その上に橋が架かっていたわけです。

言われなかったら気が付かないと思います。
言われてみて、ああ、なるほどと。

この跨線橋の古写真を探してみましたが、ないようです。
観光地でもありませんし、軍の施設だったので、無理もないでしょう。
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旧千住郵便局電話事務室 - 震災後建築の傑作

2020-08-05 | 東京を歩く
北千住近くを歩いていたとき、偶然こんな趣のある近代建築を見かけました。





千住消防署の向かいです。
外壁がスクラッチタイルで装飾されています。



スクラッチタイルは1930年前後の建築物に使われていることが多いようですので、この頃でしょうか。

何枚か写真を撮っておき、家に帰って調べてみました。

この建物は千住郵便局電話事務室と呼ばれた通信施設で、1929年の竣工だそうです。

設計者は山田守(1894- 1966年)という逓信省所属の技術者だそうです。

山田守は、永代橋(江東区・中央区、隅田川)、聖橋(御茶ノ水、神田川)、萬代橋(新潟市、信濃川)という日本を代表する名橋の設計にも関わったとありますので、橋梁建築の造詣も深かったようです。

現存する山田設計の戦前の建築物は少ないそうですので、これは貴重な建物に出会いました。



2階建てで、屋上には後から増設されたと思しき建屋が乗っかっています。

交差点に面した玄関のカーブがとても優美です。



丸窓も印象的です。
これも当時の流行です。

この建物はNTT東日本が管理しているようですが、現在、使われていないようです。
この先、どうなる運命なのでしょうか。

せっかく戦災を逃れて今まで使われてきた近代産業遺産です。
願わくば、長く保存してほしいものです。



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陸軍板橋火薬製造所跡地 旧140号家 - 解体やむなしか

2020-07-25 | 東京を歩く
板橋区加賀1丁目の旧陸軍板橋火薬製造所群の一角に、レンガ造りの古そうな平屋建ての建築物が残っています。





石神井川の北側です。



はがれ落ちた壁からレンガが覗いています。
竣工は明治の終わりか大正の初め頃でしょうか。

資料によると、この建物はかつての東京第二陸軍造兵廠の旧140号家だったそうです。

1921年時点ではボイラー室、1934年には試験室として利用されていたようです。





最近まで愛歯技工専門学校の一部として利用されていたようですが、ネットで調べてみると、この学校は2019年3月で閉校しています。
今は使われている様子がありません。

中の様子を見てみました。





ここだけ時の流れから取り残されたような、映画のセットのような廃墟感がただよっています。

1世紀前、この空間で最先端の兵器の開発が行われていました。
陸軍板橋火薬製造所跡は、2017年に国史跡の指定を受け、今後史跡公園として整備されることになっていますが、この旧140号家は対象エリアの外ですので、保存の対象ではないと思われます。

この後どのように利用されるのか不明ですが、解体を免れることはできない運命でしょうか。

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墨田区押上 旧逓信省のハンドホール蓋

2020-07-15 | 東京を歩く
久しぶりにマンホール/ハンドホール蓋の話です。

この日記でもたくさんご紹介してきたように、遼東半島では今でも戦前のマンホール蓋/ハンドホール蓋がたくさん残っているのですが、東京ではなかなか戦前の蓋を見かける機会がありません。

先日、久しぶりにそれらしいものを見つけました。





正確な年代は不明ですが、おそらく、戦前の逓信省のものだと思います。
場所は墨田区押上3丁目、十間橋近くの歩道です。



この辺りは空襲で大きな被害があった場所ですが、この蓋は災いを免れたようです。
歩道に嵌められていることも幸いしたのか、保存状態も良好です。
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昌平橋架道橋 - 都心に残る明治生まれの現役産業遺産

2020-06-25 | 東京を歩く
JR神田駅と御茶ノ水駅の間に、昌平橋架道橋という鉄道用の鉄橋があります。



外堀通りと交差する場所で、JR中央本線が通っています。

この鉄橋は、なんと明治時代に掛けられたものだそうです。
竣工は1908年(明治41年)ですので、なんと築112年ということになります。



橋桁の中央付近に、こんなプレートが付いています。



読めるでしょうか。

「HARKORT. DUISBURG-GERMANY 1904.」とあります。

この橋桁は、1904年にドイツ・デュースブルクのハーコート社が製造したものです。

1904年といえば日露戦争が始まった年です。
これは驚異的な頑丈さです。

どこかのローカル線の架道橋ならまだしも、ここは国内有数の過密ダイヤで知られる中央線です。

この間、震災も空襲もありました。
博物館に展示されていてもよさそうなものです。

JRが丁寧にメンテナンスを施してきたのだとは思いますが、よくぞ令和の現代まで酷使に耐えてきたものです。





JR東日本のサイトによると、中央本線の神田-高尾間の1日平均利用者数は約69万人(2018年)だそうですから、少なく見積もっても、これまで延べ100億人以上の乗客の往来を支えてきたと考えられます。

1世紀の時を超えて都心で働き続ける、明治生まれの大ベテラン現役産業遺産です。





昌平橋は1928年竣工です。戦前の名建築が隣同士で共演しています。
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国指定史跡 陸軍板橋火薬製造所跡

2020-06-15 | 東京を歩く
板橋区加賀1丁目の加賀公園とそれに隣接する旧野口研究所、旧理化学研究所板橋分所は、かつて火薬製造所があった場所です。

江戸時代は加賀藩前田家の下屋敷でした。
1876年に明治新政府が板橋火薬製造所を設立しました。

その後、陸軍造兵廠の火工廠となり、1940年には東京第二陸軍造兵廠板橋製造所になりました。
日露戦争で使われた弾丸や火砲の一部もここで製造されたのでしょうか。

一帯には、今も施設の遺構が残っています。



加賀公園にあるこの高さ数メートルの高台は、加賀藩下屋敷時代に作られた人工の山です。

この山は、明治時代の初めから、発射場の標的として利用されたそうです。
今も山の中を掘れば実験で使われた弾丸が出てくるでしょうか。



現場に建ててあった説明書きによると、この直線は、トロッコの線路敷の跡だそうです。



当時、トロッコはここから十条や王子の陸軍の工場を結び、物資を運搬しました。



これは昭和初期に建造された弾道検査管です。

野口研究所側(写真の向こう側)から弾丸を打ち込んで、速度などを検査したそうです。
戦後は何の利用価値もなかったはずなのに、こうして今まで残されてきたのは奇跡的です。
かなり珍しい軍事遺跡です。



この陸軍板橋火薬製造所跡は、2017年に国史跡に指定されました。

今後、板橋区が史跡公園として整備し、保存されることになっています。

史跡公園は2024年に完成予定だそうです。
どのような公園に整備されるのか、楽しみにしたいと思います。


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