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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

柏 陸軍東部第105部隊 柏飛行場の門柱

2025-04-05 | 東京を歩く

柏には、かつて陸軍の飛行場があったそうです。場所はおおよそ今の柏の葉公園一帯です。

帝都防衛の役割を担いました。

飛行場の建設が決まったのは、日中戦争が始まった1937年です。地元でも誘致の動きがあり、この地が選ばれたのだとか。

柏の住民たちはなぜそんな物騒な施設を誘致したのか、今では理解に苦しみますが、そういう時代だったのでしょう。

着工し、運用が始まったのは翌1938年です。たった1年で飛行場を完成させるのですから、突貫工事だったのでしょう。

公園や住宅地となった現在、往時を偲ばせる遺構はほとんどありませんが、門柱が残っているというので見学に行ってみました。

豊四季方面から北側に向って歩いていくと、中央航空柏送信所の電波塔が見えてきます。

その手前が門柱です。



脇に解説版がありました。

なるほど、当時は陸軍東部第105部隊とよばれた基地だったと。

陸軍飛行部隊のあった立川から一部が移転してきたわけですね。

古写真部分を拡大してみます。


たしかに、門柱は同じ形をしています。

柏飛行場に駐在した戦隊は東南アジアや満州方面に赴き、任務に当たったそうです。







美しく整備された柏の葉公園に立ち入ると、ここが戦争遺跡だということはまったく想像ができません。

ここから飛び立ち、攻撃に参加したまま帰らぬ人となった若き兵隊がたくさんいたはずです

首都圏にはまだまだたくさんの戦争遺跡が残っています。







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学習院大学 乃木大将経営榊壇

2025-02-10 | 東京を歩く

学習院大学の乃木希典関連の施設めぐりの続きです。

乃木館のすぐ東隣に、何やら曰くありげな石造りの塚がありました。

周囲を竹製の囲いで保護されています。


これはなんでしょうか。

塚の脇に東京都教育委員会による解説板がありました。

読んでみます。

東京都指定旧跡

乃木大将経営榊壇

乃木大将経営榊壇は明治43年(19103月、陸軍大将であり学習院第10代院長である乃木希典自らが設計、私費を投じて建設したものです。壇は全長約7メートル、後円部高約1.4メートルの前方後円形で、147個の礫石で築かれています。このうち番号の刻まれた80個は、小樽市、八丈島、小笠原諸島や、樺太、朝鮮半島、遼東半島、台湾など当時の四境から採集したものを用いています。

後円部の頂には、明治42年(1909)、この地に学習院校舎が新築され、その落成式で明治天皇が天覧した榊が植えられています。

榊壇外の左手前には、榊壇に関する由来が記されて石碑が建立されています。碑背には石碑基礎の礫石が四境から運び込まれてきたものの一部であることなど、石碑建立の事情が刻まれており、石碑の前には、榊壇の石番号と採集地が列記された板石があります。この石碑や榊壇入り口の二本の石柱、榊壇前の踏み石は、第11院長の大迫尚敏が、大正5年(1916年)に整備したものです。

榊壇は乃木希典の教育理念に基づいて作られたもので、訓育上重要な場所であったと考えられています。明治期の学習院の教育理念を当時のままに伝える遺跡です。

いかがでしょうか。

乃木さんの発案で、当時の国境から石を集めてきたと。乃木さんがロシアと戦った遼東半島から運んできた石もあると。戦勝直後の空気感が伝わってくるようです。

では、80個の石のうち、遼東半島から運んできたのはいくつあるのでしょうか。

石碑に刻まれた文字を読んでみます。



拡大します。



読みにくいですが、どうやら43番から53番がそれのようです。全部で11個です。

43 旅順老鉄山南砲台

44 旅順老鉄山北砲台

45 46 貔子窩

47 石河城

48 土城子小黒山

49-51 普蘭店台子山

52 53 普蘭店学蘭舗城

では、国境から集めたという石を見ていきましょう。

塚の石を一つ一つ観察していきます。



なるほど、石にはたしかに数字が刻まれているものがあります。

28番。千島の石です。

54番。台湾の石です。

55番。これも台湾です。

56番と60番。これも台湾です。

摩耗したり、割れたり、土の中に埋まってしまって識別が難しくなった石や、最初から数字のなかったと思しき石もあります。集めてきたのは100年以上前ですから、無理もありません。

目を皿にして遼東半島の石を探します。遼東半島の山から採集した石ならば、おそらく茶色っぽいはずです。

67番。朝鮮です。



51番です。ようやく遼東半島の石を見つけました。

大連の普蘭店の石です。

旅順の石はあるでしょうか。

腰をかがめてぐるぐる塚の周りを歩きます。





見つけました。43番です。

旅順老鉄山南砲台から採集した石です。

旅順の石は、塚の前面中央付近にありました。

一番いい場所です。乃木さんがこの位置を指示したのでしょうか。

その後も探し続けましたが、結局、遼東半島11個のうち、判別できたこの2つだけでした。

この門柱と敷石は大迫尚敏が設えたものです。

大迫も乃木の下で旅順攻囲戦を戦った軍人でした。

坂の上の雲にも登場します。第七師団長でした。

学習院大学の奥まった場所に、こんな興味深い旧跡があるとは知りませんでした。

おそらく、この塚の存在や意味を知らずにここで大学生活を送ってきた卒業生もたくさんいるのではないかと思います。

目白の名門大学の構内で旅順の石に出会う、なかなか得難い経験になりました。







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学習院大学 乃木館

2025-01-31 | 東京を歩く

この日記では何度か乃木希典関連の施設や遺構を書いてきましたが乃木が学習院長だった時代の遺構を見学するために学習院大学を訪ねてみました。

乃木が学習院長に就任したのは、日露戦争後の19071月のことです。明治天皇による勅命でした。

乃木は院長に就任すると、学習院を全寮制として、自らも住み込んで学生とともに寝食を共にしました。

この際の乃木の居室だったといわれる建物が現在も残されています。


これです。

1908年に建てられました。当時は別の場所にあったものが、1944年にここに移築されたそうです。今は「乃木館」と名付けられています。当時は総寮部とよばれたそうです。



小さな木造の平屋建てで、桟瓦葺です。何乃木坂の旧乃木邸の立派なたたずまいに比べると、こっちは何とも質素です。

乃木はここで亡くなる1912年まで寝泊りをしたそうです。

今も部活動などで使われていると紹介されていますが、実際のところはどうでしょうか。使用感は感じられず、カギがかかっていました。



文化庁の登録有形文化財になっています。

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陸上自衛隊松戸駐屯地 飛行場とパイロット養成所の痕跡を探す 後編

2024-12-14 | 東京を歩く

一般開放日に松戸駐屯地を歩く続きです。

施設の一角の目立たない場所に、石碑が並んでいました。



いかにも曰くありげです。7つあります。これはなんでしょうか。

一つ一つ覗き込んでいきます。



「闘魂」だそうです。

裏面を見てみます。



「第四期機関生徒卒業記念 昭和十九年九月二十五日」とあります。

卒業生と思しき30人の苗字が並んでいます。



「雄鵬」




「第一期普通科操縦生徒 昭和十九年九月二十五日」

こちらも名前は苗字だけです。



「育翼雄飛」




「第二期機関生徒卒業記念樹 昭和十八年二月二十七日 教官櫻 南方櫻(生徒舎)入口前」とあります。

「南方櫻」とはなんのことでしょうか。当時、陸軍が南方地域内の航空輸送を確保するために開設した「南方航空輸送部」という部隊があったそうですが、ここに配属された卒業生を指しているのでしょうか。



この漢字文字はなんと読むのでしょうか。



「第一期普通科整備生徒  昭和二十年三月二十四日卒業記念」とあります。

昭和203月といえば、東京大空襲があった頃です。すでに首都決戦が始まっています。

松戸飛行場は帝都防衛の最前線の役割を担ったはずです。



昭和十六年三月



「友」とあります。これは石碑が割れてしまい、下の部分だけが残ったのでしょうか。

これら7つの石碑は、いずれもここが戦時下にパイロット養成所だった頃の卒業記念でした。まさしく歴史の証人です。

石碑の位置は格納庫から滑走路に繋がる場所ですから、最初からここにあったわけではなく、後にここに移されてきたのでしょう。

ここに名前が刻まれた卒業生は、卒業後はどんな運命をたどったのでしょうか。

駐屯地の敷地内には開放された施設の見学を楽しむ客がたくさんいますが、この石碑の前で立ち止まる人の姿はありません。

石碑を見つめていると、戦時下だった当時の時代の空気が静かに伝わってくるようです。

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陸上自衛隊松戸駐屯地 飛行場とパイロット養成所の痕跡を探す 前編  

2024-12-07 | 東京を歩く

先日、松戸駐屯地が創立72周年記念行事で一般開放されたので、見学に行ってみました。

ここが戦中、飛行場であり、パイロット養成機関だった痕跡を探します。

抜けるような青空が広がる晩秋の一日です。



駐屯地の正面から入場すると、鮮やかな黄色に色づいた銀杏並木が目に入ってきます。







これが航空機の格納庫だった建造物です。なかなか大型です。旅客機でも入りそうです。

北京で見かけた掩体壕とは比べ物になりません。

この格納庫は1939年に建てられたと紹介しているサイトがあります。

だとすると、築後85年が経過しています。





現在は倉庫として使われているようです。



駐屯地内の施設は総じて古く、老朽化が進んだものが目立ちます。





これらの木造建物も飛行場だった時代に建てられたものではないでしょうか。なんとも味があります。

我が国の防衛費は年々増えていますが、こういう施設の再建にまで予算が回らないのでしょうか。



駐屯地の中には新京成線が通っています。



この踏切は駐屯地関係者の専用です。



新京成線はもともと軍用線だったので当然と言えば当然ですが、なかなか奇妙な光景ではあります。

駅はありませんが、プラットホームらしき場所もありました。

ここに止まれば乗り降りができそうです。

駐屯地の探検は次回に続きます。

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中山法華経寺 蒋介石の胸像

2024-11-30 | 東京を歩く

市川市の中山法華経寺に蒋介石の胸像があるという話を聞いたので、訪ねてみました。

中山法華経時といえば、鎌倉時代に建立された東葛エリアを代表する古刹です。国指定重要文化財で日蓮聖人を祀る祖師堂が鎮座します。








この由緒ある寺になぜ蒋介石の像なのでしょうか。きっと所縁があるはずです。

胸像が建立されたのは1972年だそうです。

1972年といえば、日中共同声明で日中国交正常化の年、日本が台湾と断交した年です。

当時の住職(武井日進)が日華友好を願い建立したのだとか。

蒋介石は日本で学び、日本との関りが深かったわけですが、この住職さんと交流があったのでしょうか。

台座には「徳必有隣」とあります。

徳は孤ならず必ず隣あり、と。


僕が訪問したときには外国人と思しき姿はありませんでしたが、ここを訪れる在日台湾人は結構いるのではないでしょうか。






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藤沢 聶耳記念広場

2024-10-12 | 東京を歩く

藤沢市の湘南海岸公園にある聶耳記念広場に行ってみました。






聶耳は中国の国歌である義勇軍進行曲の作曲者です。

中国で暮らしたことのある者なら何度も聞いてきたあの抗日ソングです。

聶耳に関する情報は検索すればたくさん出てきますので省略しますが、1935年春に来日して日本であの曲を作り、同年に鵠沼海岸で海水浴中に行方不明になり、この世を去りました。

23歳でした。

僕は長く中国と関わってきましたが、あの曲が日本で生まれたとか、作曲者が日本で死んだというエピソードを知ったのは最近のことです。

一昨年の夏のこと、北京の自宅にて、この広場で行われた追悼式典の様子を紹介するCCTVのニュース映像を見かけました。

ニュースでは藤沢市長や駐日中国大使館員をはじめ日中の関係者が717日の命日に合わせて故人を悼んでいる様子が紹介されていました。

いやはや驚きました。

今まで知らなかったこともそうですが、なんで我が国の市長さんが超有名抗日ソングの作曲者の功績を讃えるかのような式典に参加しているのか、なんでこんな広場をつくったのかということに戸惑いました。

もちろん前途ある若者が外国の地で若くして命を落としたことは気の毒に思います。

ともかく、帰国したら一度訪ねてみようと思っていました。

今回、それを実行しました。

僕は20台前半の頃にこの近くに住んでいたので、この公園にも何度か足を運びましたが、存在に気が付きませんでした。もっとも当時は関心もなかったのですが。

今やこんな若者でにぎわう風光明媚な場所で、89年前にそんなことがあったとは。

潮風に当たりながらしばらく海を見つめます。水面がキラキラと眩しく輝いています。




献花台と思しき石の上に、折りたたんだ新聞紙と10円硬貨が7枚並んでいました



新聞の余白には中国語で「新聞2部を買うために7枚の銅板」と書きこんであります。

これはどういう意味があるのでしょうか。

調べてみたところ、1933年に聶耳が作曲した「新聞売りの歌」という曲にこの一節があるようです。

当時の新聞売りの貧しさを表現した曲で、80年代や90年代生まれの中国人なら誰でも知っている有名曲なのだとか。

おそらく在留中国人が供えたのでしょう。

石碑はビニールで覆われています。いたずら防止のためでしょうか。

日本ではほとんど知られていないけれども、中国で暮らしたから知ることのできた日本国内で起きた中国の歴史的エピソードというものが、たまにあります。

この広場もその一つです。




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陸軍糧秣廠流山出張所の痕跡を歩く

2024-08-05 | 東京を歩く

流山に行ってみました。

流山にはかつて、糧秣廠とよばれた陸軍の施設がありました。軍馬の飼料となる干し草を圧搾梱包して保管し、国内外の各部隊や宮内庁、警視庁などに供給する役目を担いました。



ここにあったのは糧秣廠の本拠地ではなく、倉庫(後に出張所に昇格)でした。

今はイトーヨーカドーやビバホーム、流山南高校がある場所です。



流山は江戸川の水運と流鉄線という鉄路に恵まれ、飼料の原料となるわらや干し草の産地にも近かったので、この地が選ばれたようです。

ここから江戸川の堤防まで200メートルほど、流鉄線の線路には隣接しています。

施設の痕跡を探るべく、周囲を歩いて一周してみましたが、痕跡らしきものはどこにも残っていません。

残っているのは当時から施設の一角にあった千草稲荷という小さな祠だけでした。



この神社は大正14年(1925年)に錦糸町から施設が移転してきた直後に分祀してきたものだそうです。

戦勝を願って働く工員たちの心の拠り所として信仰を集めたのでしょう。



面積は20坪ほどでしょうか。県道側からは見落としそうになるほど小さい神社です。

この台座には、陸軍糧秣本廠流山倉庫職員一同、大正1571日とあります。



建立時に作られたものだと思われます。

この灯篭には昭和1161日とあります。



この時点ではまだ出張所ではなく倉庫です。

こちらの手水鉢の裏側には、陸軍糧秣本廠流山出張所所員一同、昭和178月と刻まれています。




つまり、この頃から出張所に昇格したと。組織としての機能を持ったということだと思われます。

神社の裏側(県道側)にはこんな掲示板が掲げられ、市民にひっそりと歴史を伝えています。




元所長の瀧上浦治郎さんが執筆したようです。

以下、起こしてみました。


元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑について

当所は元陸軍馬糧倉庫として、東京本所錦糸堀の旧津軽藩屋敷跡にあったが周辺の人家が増加して火災の危険を生じたため流山に移り、大正十四年七月一日開庁、敷地三五二六〇坪建物七五九七坪(倉庫二〇棟、事務所、工場等一五棟)であった。業務は軍馬用大麦、燕麦、高粱、牧草は本廠の指示により、また干草、ワラは関東地方各都県より買入れて貯蔵し、干草は圧搾工場にて四〇瓩梱包に精撰加工し、近衛第一師団下各部隊並びに宮内省、警視庁に補給した。また所管下の習志野、駒沢支庫がこれを補足した。なお江戸川岸に架空輸送機があって舟運の荷役に用いられ、ガラガラと称され名物であった。

流山がこの基地に選定された主因は、干草、ワラの主産地が千葉、茨城県下でその収集、補給に水陸両運の便が得られたためである。かくて流山は特徴ある有名な町となった。

やがて終戦となり、進駐軍に英和文リストを提出し接収された。その後構内及び職員共に運輸省東京鉄道局所管となり、特殊物資(進駐軍返還の各軍用品)を受け入れて整理、出納する鉄道用品庫流山支庫として6カ年余つづいたが、国鉄改革のため、昭和二十七年三月五日閉止され大蔵省を経て野田醤油並びに東邦酒類両会社と流山町に払下げられ、現在の状態となった。

回顧すれば、大戦中は敵機の攻撃目標となり、爆弾も投下され、且つ東京糧秣本廠が空襲のため全焼するや、その業務の一部が当所に加重されるなど重大任務の遂行と防空対策とで職員は殆ど不眠不休の苦労を重ねた。さらに終戦直後は軍廃止のため全員失職の運命に遭い、物資の欠乏、生活の困窮は実に甚しく、またともすれば流言飛語に迷わされがちな不安の中にあって、複雑な引継ぎと残務処理を一同一糸乱れず誠実に無事に完遂した。その労苦多としたい。

右の実情に鑑み、ここに本碑を建立して、史跡の標識とし、後代の参考に供する次第である。

昭和五十五年八月十五日

元陸軍糧秣本廠流山出張所長

記念碑建設委員長 瀧上浦治郎




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パリ五輪柔道開幕の日に嘉納治五郎の墓を参る

2024-07-30 | 東京を歩く

松戸市八柱に都立八柱霊園という広大な墓地があります。



千葉にあるのに都営とは奇妙ですが、昭和10年に東京市営として造成されたそうです。その話はさておき、その八柱霊園には嘉納治五郎の墓があるというので訪ねてみました

嘉納治五郎といえば講道館を作った人であり、「柔道の父」として知られています。

僕が訪ねたのはパリ五輪の柔道競技開幕の日です。ここは日本代表団の必勝祈願です。

墓前には立派な鳥居がでんと構えています。

嘉納は昭和135月に没したそうです。



1938年、日中戦争に突入した翌年です。

最近知ったのですが、嘉納治五郎は中国人留学生の育成にも力を注いだ人物だったそうです。

ときは1896年、西園寺公望の要請を受けて清国の留学生を受け入れ、神田三崎町で留学生教育を始めました。

1899年には亦楽書院を1902年には規模拡大のため西五軒町に弘文学院を開設しました。

弘文学院で学んだ留学生の中にはかの魯迅や黄興、陳独秀などがいました。彼らも嘉納と交流があったはずです。

嘉納は日本における中国人留学生育成の祖でもありました。


灼熱の八柱霊園にはほとんど人の姿はなく、遠くから聞こえてくるセミの鳴き声が墓地全体を包み込みます。

嘉納は今年で没後86年です。

今や柔道は世界中で愛されるスポーツに成長し、日中も交流も途絶えることはありません。大変な貢献です。





嘉納さん、八柱の墓地から世界の若者がパリで奮闘する様子を見守ってください、と静かに祈って墓地を後にしました。

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松戸市八柱の陸軍境界石

2024-07-14 | 東京を歩く

新京成線新八柱駅近くの踏切でこんな石柱を見かけました。



陸軍の境界石です。

当時ここにはどんな軍事施設があったのでしょうか。今の新京成線は鉄道連隊の演習線だったので、線路が軍用地だと示すための標石でしょうか。








ネットで探ってみると、八柱にはかつて八柱作業場とよばれた陸軍工兵学校の広大な演習場があったそうです。

ということは、これはその演習場の境界に打たれた石柱だった可能性もあるでしょうか。

演習場があったとされるのはみのり台駅の南側のようですので、ここは演習場の東側の境界だよと。

国立映画アーカイブ歴史映像ポータルに八柱作業場で行われた演習風景の記録画像(1924年)が公開されています(https://filmisadocument.jp/films/view/85)。

なんとも迫力のある映像です。戦車が縦横無尽に走り、煙幕や火焔を使った本格的な演習の様子が残っています。

今の八柱はベッドタウンとして多くの世帯が平和に暮らしていますが、こんな怖ろしい演習がこんな市街地で行われていたとは俄かに信じられません。

この石柱もこれらの演習を見ていたのでしょうか。




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松戸飛行場の痕跡を探す

2024-07-07 | 東京を歩く

かつて、松戸市に陸軍の飛行場がありました。

場所は今の陸上自衛隊松戸駐屯地とその西側に広がる松飛台地区です。松飛台という地名は松戸に飛行場があったことを地名として残すために名付けられたそうです。

何か痕跡が残っていないか、歩いてみました。

松飛台は工場や住宅が集まる場所です。たくさんの一戸建て住宅が整然と並んでいます。



松戸飛行場が完成したのは戦時下の1940年です。

東西と南北にそれぞれ1.2キロメートルの滑走路があったのだとか。

建前としては民間パイロットの養成を目的としていたようですが、何しろこの時代です。実態は陸軍が主導して帝都の防空基地にすることを狙いとして造成されたのだと思います。

実際、設立当初は逓信省航空局が管理していますが、1944年には陸軍に移管されています。



この南北に続く直線道路は消失点が見えなくなるまでひたすらまっすぐです。地図で測ってみると、直線が1,400メートルほど続いています。ここが滑走路の一部だったようです。

東西にも同じく1,400メートルほどの直線道路があります。

これだけ長い直線道路は地図で見ても目を引きます。

松戸は下総台地のへりに当たるので比較的起伏が多いのですが、この辺りは平坦です。しかも台地にあるので飛行場としては好条件だったと思います。しかも当時陸軍の軍用鉄道だった新京成線もすぐ近くを通っています。

しかし、今の松飛台はすっかり宅地化が進んでいて、飛行場を忍ばせる痕跡はこの道路だけです。飛行場としての役割を終えて79年が経過します。無理もありません。

松戸駐屯地の中には飛行機の格納庫が残っているそうですが、一般人は立ち入ることができません。

ネットの情報によると、当時の掩体壕の基礎だったと思しきコンクリート塊が今でも残っているという場所があるので、そこに行ってみます。

この空き地です。






いかがでしょうか。

この小石が混ざったモルタルはいかにも1940年代前半のつくりです。

もはや掩体壕の形は残っていませんが、掩体壕の一部だったという説明を受ければ、頷けるような見た目です。




モルタルからアンカーがはみ出しています。これもそれっぽい感じがします。

しかし、雑草や枯れた木枝に覆われていて、たぶん誰も気が付かない、気に留めないと思います。

当時、東葛エリアは軍事施設が多かったの、こうした遺構がほかにもありそうです。いろいろ訪ねてみようと思います。

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「辰巳の森緑道公園」で「赤い公園」をしのぶ

2022-09-30 | 東京を歩く
「赤い公園」というガールズバンドがありました。

2012年にメジャーデビューし、その後徐々に人気を得ていったようですが、その頃の僕は大連で暮らしていたのでその音に触れる機会がなく、2016年暮れに帰国してからラジオで初めて存在を知ることになりました。

キャッチーでありながら、骨太でガレージっぽくザラザラとした生音の質感があって、楽器一つ一つの音がしっかり聞き取れて、ところどころ意図的に歪んだ音を出してみたり生音感があって、バンドサウンド好きな僕の好みに合いました。

その一方で、今のEDMや打ち込み全盛の時代にこういうサウンドが若い人に広く支持されるものだろうか、と思ったりもしました。

2017年の春には音楽イベントでライブを観る機会がありました。新木場STUDIO COASTでした。

メンバー4人全員が白装束のような衣装をまとい、初々しい感じがありつつも息の合った迫力のあるステージを見せてくれました。いい音出すだなぁ、いいバンドだなぁ、と思いました。

それから、赤い公園をお気に入りバンドとしてよく聴くようになりました。

この年齢になって新たにバンドのファンになることはなかなかないことです。
自分がガールズバンドに注目するのは、80年代のバングルスやプリプリ以来でしょうか。もう30年以上久しいことです。

彼女たちの新しい作品の発表も楽しみにするようになりました。

ところが、です。

僕が北京に赴任した直後の2020年10月、バンドの中心メンバーだった津野米咲が突然この世を去ってしまうという耳を疑うようなニュースが飛び込んできました。
29歳でした。驚きました。原因は今でもわからないようです。

赤い公園の曲は基本的にすべて彼女の作品でしたので、もう津野作品の新曲を聞くことはできなくなりました。

津野は音楽業界でもその才能を高く評価され、テレビ朝日の「関ジャム完全燃SHOW」にも何度かゲスト出演していました。

世の中はすごい才能を失ってしまいました。
まだまだこれからいろんな作品を楽しませてくれるだろうと思っていただけに、とても残念で、信じられない思いでこれまでの作品を繰り返し聞きました。

先日一時帰国をしたとき、ジョギングがてら、バンドの代表曲のひとつである「Canvas」のMV(リンクはこちら)を撮影したと思われる「辰巳の森緑道公園」に立ち寄ってみました。



辰巳の森緑道公園は様々なドラマの撮影に利用される桜並木が美しい公園です。

僕が彼女たちのライブを観た新木場STUDIO COASTもこの近くです。

ここはもともと僕のお気に入りのジョギングコースの一つでしたので、MVを観たらすぐに気が付きました。

エピソードによると、この曲のMVは津野が自ら構想して監督もしたそうです。きっと思い入れのあるMVだったのでしょう。

曲を発表したのが2016年2月ですから、撮影したのは15年の暮れから16年の初め頃でしょうか。



2年ぶりに訪れましたが、やはり気持ちのいい公園です。ドラマやCMの撮影でもよく使われるので、見覚えのある方も多いと思います。

ここにドラムセットを設えて、カメラの前で4人がのびのびと演奏をしたと。その頃、誰がこんな悲劇を想像できたでしょうか。

MVの冒頭で津野がベンチに座ってギターを弾いていたのはこの辺りでしょうか。





僕が赤い公園の存在を知り、ライブを観て、曲に親しむようになったのはつい5、6年前のことです。最近です。

しかし、今やバンドも津野米咲も新木場STUDIO COAST(今年1月で閉館)もこの世には存在しません。

晩夏の日を浴びて青い葉を滔々とたたえる桜並木を見つめながら、時間というのは永遠ではないのだ、という厳粛な事実と向かい合います。

「Canvas」の歌詞の一節を引用します。

淡い淡い気持ちが 近頃急いでいる
ひとひらの祈り 時よ止まれ なんて


でも、彼女たちの珠玉の名曲たちはずっと残り続けます。

静かに手を合わせて、この先も作品を楽しませてもらうよ、と心でつぶやき、公園を後にしました。
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野田の近代産業歴史建築群

2020-10-10 | 東京を歩く
醤油の街として知られる千葉県野田市には、醤油産業の発展とともに明治期以降に建てられた古い建築物がたくさん残っています。

8月の週末、コロナ禍でしたが、マスクをして見学に出掛けてみました。

吉川市から野田橋を渡って野田市に入ると、歴史を感じる古そうな建築がたくさん目に入ってきました。

興風会館(1929年竣工)です。







風格のある4階建てのホールです。

映画や講演会、演奏会などの文化施設として利用されてきました。
ルネサンス様式っぽいモダンなファサードです。半円の窓にも遊び心があってリズミカルな気品を伝えています。

設計者は大森茂(1894-1934)という建築家だそうです。35歳時の作品ということになります。

キッコーマンの創立者として知られる茂木家と高梨家を中心に立ち上げられた興風会によって建築されました。

建築は昭和初期ですので、相当目立っていたと思います。
当時の野田経済の好調ぶりが伝わってきます。



築後90年以上を経過していますが、古さはあまり感じませんので、しっかりとメンテナンスをしてきたのだと思われます。
長年、野田のランドマークとして市民と醤油関連企業の誇りとプライドを表現してきたのではないでしょうか。ひときわ存在感を放っています。

訪問日は閉館だったので中の様子を見学することができませんでしたが、いつか入ってみたいものです。

次は旧野田商誘銀行(1926年竣工)です。



この建物も重厚で存在感があります。
野田の醤油醸造家たちが設立した銀行だったそうです。

2階建てのアールデコです。
正面には四角と丸の2種類のオーダーが配されていて、古典主義の雰囲気もあります。





黄色っぽい石積みが無機質なようで重厚感を伝えています。

野田商誘銀行は、後に千葉銀行に吸収されました。

現在は銀行ではなく、株式会社千秋社というキッコーマン系列の会社が使っているようです。

次はこの野田商誘銀行の支配人だった茂木七郎治邸です。





まるで映画のセットのような、時代劇に出てきそうな作りです。

次はキッコーマン第一給水所(1923年竣工)です。







かつてはここに給水塔があり、地下から原料の水を汲み上げていたそうです。

次は旧野田高等尋常小学校(1928年竣工)です。







現在は野田市立中央小学校として、現役で活躍しています。







昭和初期にこんな立派な鉄筋コンクリートの3階建ての小学校が建てられたのですから驚きます。玄関の門柱は当時のものでしょうか。
玄関から校舎に敷かれた石畳は風格のある社寺のようです。

最後に、キッコーマンの創業家である旧茂木佐平治家住宅(1924年竣工)です。







現在は茂木市民会館として市民に開放されています。

訪問時は、地元のボランティアガイドさんが丁寧に案内をしてくれました。
説明に聞き入ってしまったためか、写真を撮るタイミングを失ってしまいました。
テレビドラマやAQUOSなどのCMの撮影でも使われたことがあるそうです。

野田市の近代産業歴史建築群は、老建築好きにとっては穴場のスポットでした。
都内からの日帰り旅に最適の場所です。
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旧三田用水猿楽口分水 新坂橋の欄干 - 令和まで生き延びた奇跡

2020-09-25 | 東京を歩く
先日、渋谷区代官山の坂道を歩いていると、ふとこんな古びた欄干の跡が目に入ってきました。



片側だけ残っています。

代官山駅の北側200メートルほどの場所です。すぐ東側は東横線の地下線路出入口です。





アスファルトに埋まりかかっていますが、親柱には「大正13年」(1924年)、「新坂橋」という文字が確認できます。
当時、ここに川が流れていたということになりますが、こんな傾斜地に流れていた川とは何だったのでしょうか。

帰って調べてみたところ、ここは三田用水の分水路だったようです。

文献によると、1719年に開削され、猿楽口分水と呼ばれていたようです。

旧山手通りを流れていた本流から北東側に水を引き、北側を回り込んで恵比寿を通り、渋谷川に合流していたようです。
ということは、残っている欄干は上流側だったことになります。

三田用水の廃止は1974年とされています。

この橋が架かっていた分水路の廃止はそれより前だった可能性もありますが、仮に1974年と仮定しても50年近くが経過します。
代官山ヒルズなどこの開発著しい先端商業エリアの中心で、役割を失った欄干がよくぞ取り壊しを免れて残ってきたものです。
この数㎥の空間だけ、時の流れが止まっていたかのようです。



この巡り会いには感動しました。

滅多に足を運ぶことのない代官山で、たまたまこの道を歩き、出会った偶然に感謝しなければなりません。

「あんた、今までよく頑張ってきたなあ」

2つの親柱をさすりながら声を掛けました。

大正生まれの新坂橋の欄干は、その役目を終えても昭和、平成、令和に至る激動の時代を隠棲的にしぶとく生き抜き、アスファルトに飲み込まれそうになりながらもその気高い姿を今に伝えています。
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慈恵会医大付属病院 F棟

2020-09-15 | 東京を歩く
港区西新橋の慈恵会医大付属病院の近代的な施設群の中に、こんな新古典主義様式風の白くて風格ある建築物があります。





大学病院のF棟と呼ばれていますが、病院としては利用されていないようです。

文献によると、1930年の竣工だそうです。左右対称で奥行きがあり、日の字型になっているようです。



20代の頃にこの前の道をよく歩いていましたが、こんな建物があったことはまったく覚えていません。当時は建築に興味がなかったので、気が付かなかったのだと思います。



近づいてみると、玄関の脇にこんなおしゃれなライオンの吐水口がありました。
欧州の街角でときどき似たようなものを見かけますが、これは馬の水飲み場だったのでしょうか。1930年ならもう都内にはそれほど馬車は走っていなかったと思いますが。



エントランスには床タイルの粋な装飾があったり、ステンドグラスがあったり、大きなのっぽの古時計が待ち構えていたりと、とてもレトロな雰囲気を残しています。
いずれも建築当時のままでしょう。

老建築はメンテナンスに手がかかるものですが、長く残してほしいものです。
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