学習院大学の乃木希典関連の施設めぐりの続きです。
乃木館のすぐ東隣に、何やら曰くありげな石造りの塚がありました。
周囲を竹製の囲いで保護されています。

これはなんでしょうか。
塚の脇に東京都教育委員会による解説板がありました。
読んでみます。
東京都指定旧跡
乃木大将経営榊壇
乃木大将経営榊壇は明治43年(1910)3月、陸軍大将であり学習院第10代院長である乃木希典自らが設計、私費を投じて建設したものです。壇は全長約7メートル、後円部高約1.4メートルの前方後円形で、147個の礫石で築かれています。このうち番号の刻まれた80個は、小樽市、八丈島、小笠原諸島や、樺太、朝鮮半島、遼東半島、台湾など当時の四境から採集したものを用いています。
後円部の頂には、明治42年(1909)、この地に学習院校舎が新築され、その落成式で明治天皇が天覧した榊が植えられています。
榊壇外の左手前には、榊壇に関する由来が記されて石碑が建立されています。碑背には石碑基礎の礫石が四境から運び込まれてきたものの一部であることなど、石碑建立の事情が刻まれており、石碑の前には、榊壇の石番号と採集地が列記された板石があります。この石碑や榊壇入り口の二本の石柱、榊壇前の踏み石は、第11代院長の大迫尚敏が、大正5年(1916年)に整備したものです。
榊壇は乃木希典の教育理念に基づいて作られたもので、訓育上重要な場所であったと考えられています。明治期の学習院の教育理念を当時のままに伝える遺跡です。
いかがでしょうか。
乃木さんの発案で、当時の国境から石を集めてきたと。乃木さんがロシアと戦った遼東半島から運んできた石もあると。戦勝直後の空気感が伝わってくるようです。
では、80個の石のうち、遼東半島から運んできたのはいくつあるのでしょうか。
石碑に刻まれた文字を読んでみます。

拡大します。

読みにくいですが、どうやら43番から53番がそれのようです。全部で11個です。
43 旅順老鉄山南砲台
44 旅順老鉄山北砲台
45 46 貔子窩
47 石河城
48 土城子小黒山
49-51 普蘭店台子山
52 53 普蘭店学蘭舗城
では、国境から集めたという石を見ていきましょう。
塚の石を一つ一つ観察していきます。

なるほど、石にはたしかに数字が刻まれているものがあります。

28番。千島の石です。

54番。台湾の石です。

55番。これも台湾です。

56番と60番。これも台湾です。
摩耗したり、割れたり、土の中に埋まってしまって識別が難しくなった石や、最初から数字のなかったと思しき石もあります。集めてきたのは100年以上前ですから、無理もありません。
目を皿にして遼東半島の石を探します。遼東半島の山から採集した石ならば、おそらく茶色っぽいはずです。

67番。朝鮮です。


51番です。ようやく遼東半島の石を見つけました。
大連の普蘭店の石です。
旅順の石はあるでしょうか。
腰をかがめてぐるぐる塚の周りを歩きます。



見つけました。43番です。
旅順老鉄山南砲台から採集した石です。
旅順の石は、塚の前面中央付近にありました。
一番いい場所です。乃木さんがこの位置を指示したのでしょうか。

その後も探し続けましたが、結局、遼東半島11個のうち、判別できたこの2つだけでした。

この門柱と敷石は大迫尚敏が設えたものです。
大迫も乃木の下で旅順攻囲戦を戦った軍人でした。
坂の上の雲にも登場します。第七師団長でした。
学習院大学の奥まった場所に、こんな興味深い旧跡があるとは知りませんでした。
おそらく、この塚の存在や意味を知らずにここで大学生活を送ってきた卒業生もたくさんいるのではないかと思います。
目白の名門大学の構内で旅順の石に出会う、なかなか得難い経験になりました。



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