旅順高等高校というと、関東州の名門高校でした。
学校が存在したのは1940年から終戦までのわずか5年間でしたが、1961年に寮歌「北帰行」が流行歌になったことで知られます。
校舎と関連施設は新市街の友誼路とスターリン路の西側の交差点に残っていますが、軍の施設になっているので、近くから撮影することができません。

少し離れた位置から撮ったこの2階建ての建物は旧旅順高校の施設の一部ですが、元々は関東庁臨時土地調査部の庁舎でした。
本校舎はこの建物の背後にあります。
土地調査部は左右対称のシンメトリーで優美な建物です。
築年次は不明です。
中国語の文献によると1934年と紹介されていますが、違うと思います。
1924年に関東庁臨時土地調査部が発行した報告書にはすでにこの建物の写真が掲載されています。

これが1924年の写真です。
このデザインからするとロシア時代の建築かもしれません。
建物は、1940年から旅順高等学校に転用されました。

この写真の奥まったところにある建物が本校舎です。
この建築物は転用されたものではなく、旅順高校の校舎として建てられたものです。
訪問した時は改修中だったのか、ブルーシートのようなもので覆われていていました。

旅順高校は関東州・満洲に設置された唯一の官立旧制高等学校でした。卒業生名簿を見ると、関東州・満洲だけでなく本土からも生徒が集まっていたことが分かります。
芥川賞作家の清岡卓行は同年入学の第一期生でした。
敷地は旅順湾に面していて、少し標高がありますので、ベランダからは抜群の眺望が望めるのではないかと思います。
文献によると、遼寧省文物保護単位に指定されているようですので、近くに行けば石碑かプレートが掲げられていると思います。
しかし、それを間近で見ることはできません。
学校が存在したのは1940年から終戦までのわずか5年間でしたが、1961年に寮歌「北帰行」が流行歌になったことで知られます。
校舎と関連施設は新市街の友誼路とスターリン路の西側の交差点に残っていますが、軍の施設になっているので、近くから撮影することができません。

少し離れた位置から撮ったこの2階建ての建物は旧旅順高校の施設の一部ですが、元々は関東庁臨時土地調査部の庁舎でした。
本校舎はこの建物の背後にあります。
土地調査部は左右対称のシンメトリーで優美な建物です。
築年次は不明です。
中国語の文献によると1934年と紹介されていますが、違うと思います。
1924年に関東庁臨時土地調査部が発行した報告書にはすでにこの建物の写真が掲載されています。

これが1924年の写真です。
このデザインからするとロシア時代の建築かもしれません。
建物は、1940年から旅順高等学校に転用されました。

この写真の奥まったところにある建物が本校舎です。
この建築物は転用されたものではなく、旅順高校の校舎として建てられたものです。
訪問した時は改修中だったのか、ブルーシートのようなもので覆われていていました。

旅順高校は関東州・満洲に設置された唯一の官立旧制高等学校でした。卒業生名簿を見ると、関東州・満洲だけでなく本土からも生徒が集まっていたことが分かります。
芥川賞作家の清岡卓行は同年入学の第一期生でした。
敷地は旅順湾に面していて、少し標高がありますので、ベランダからは抜群の眺望が望めるのではないかと思います。
文献によると、遼寧省文物保護単位に指定されているようですので、近くに行けば石碑かプレートが掲げられていると思います。
しかし、それを間近で見ることはできません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます