HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

天津旧日本租界 段祺瑞旧居

2024-03-07 | 天津を歩く
天津の旧日本租界の鞍山路に、固い扉で閉ざされた曰くありげな大型の邸宅がありました。

ここは日本租界時代は宮島街とよばれていました。溥儀が暮らした張園のすぐ近くです。

外壁に貼られた文物保護のパネルによると、民国時代に国務総理を務めたかの段祺瑞(1865-1936)が暮した邸宅だったようです。北洋三傑です。



今は開放されておらず、何に使われているのかわかりませんが、厚い鉄の扉の下側に少しだけ空いていた隙間にスマホを差し込んで撮影してみました。



手入れが行き届いた立派な洋館です。左側にレノボの看板があります。

1920年の竣工という記録があります。

もともとは段祺瑞の義理の弟が資金を出して建設したようです。
当時は「段公館」とよばれ、当時の天津日本租界で最も豪華な私邸だったそうです。

1階と2階にそれぞれルーフテラスが張り巡らされていて、シンガポールにありそうなコロニアル風の外観です。

唐山地震で一度損傷したものの、補修したようです。

段祺瑞(1865-1936)は李鴻章と同じ安徽省出身です。早くから袁世凱とともに北洋軍で活動し、袁世凱が死去した後は安徽軍閥の実権を握ります。対ドイツ宣戦をやったりします。しかし、1920年に安直戦争に敗れると下野し、天津日本租界に逃げ込みました。

その後一時的に復権しますが、1926年に馮玉祥に追放されると、再び天津に戻ってきます。
そのときに暮したのがこの邸宅だったようです。

記録によると段は1933年まで天津で暮らしました。

満洲事変が起きると、段は日本の諜報部門からの接触を避けるため、国民党からの誘いを受けて上海に移りました。
段が上海で暮した邸宅は今の在上海日本総領事公邸として現存しています。

段は1936年に病でこの世を去りました。

つまり、天津のこの場所で暮らしたのは実権を失い引退した60代の頃の数年間だったようです。
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天津旧イタリア租界 梁啓超旧居

2024-02-24 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界を歩いていると、こんな立派な建物に多くの観光客が出入りしている様子が見えてきました。



なにかの博物館でしょうか。

玄関に掲げられている表示をみると、ここは梁啓超の旧居で、梁の博物館にもなっているようです。



梁啓超(1873-1929)は清代末期と民国時代に活躍した活動家です。
浅田次郎の「蒼穹の昴」シリーズに登場する梁文秀のモデルになったとされる人物です。

本当にこの人物をモデルにしたのかどうかは浅田先生本人に聞かなければ分かりませんが、小説のあらすじや年代、生い立ちから考えると重なる部分が多いので、たぶんそうなのだろうと思います。名前も同じ梁ですし、同じ変法運動の主導者だった康有為や譚嗣同が小説に実名で登場するのに対して梁啓超は出てきません。楊喜楨の語りの中で少し触れられるだけです。

梁啓超が天津に移り住んだのは1914年という記録がありますが、それがここだったのでしょうか。
その後はよくわかりませんが、1927年に王国維が北京で死去した際、天津から駆けつけたという記録がありますので、晩年は天津で暮らしたようです。



今回は時間がなかったので入場しなかったのですが、次に天津を訪問する際には博物館を見学してみようと思います。

梁は清代末期から民国にかけての激動の中国を生き、日本で暮らし、その間目まぐるしく主張を変えた思想家です。和製漢語をたくさん中国伝えた人物としても知られます。
きっと内外の情勢の変化を敏感に感じ取る能力が高かったのだと思います。

いつかゆっくりと著作を読んでみようと思います。

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天津旧イタリア租界 湯玉麟旧居

2024-02-21 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界で湯玉麟の旧居を見かけました。

湯玉麟(1871-1937)といえば張作霖の盟友で、奉天派の軍人です。





浅田次郎の傑作「中原の虹」に登場します。

役どころは張作霖馬賊の四当家でした。新民府と奉天城の清国正規軍との連絡役です。
小説では「麒麟当家」、「麒麟攬把」ともよばれていました。

総攬把の張作霖が湯玉麟の先導を受けて奉天に赴き、徐世昌東三省総督に仕事の報酬を直談判するシーンがありました。交渉が難航するとみるや、湯は徐世昌の眉間に銃口の狙い定め、その状態で紅鬼子の首を取った代償として10万元を脅迫するという緊迫の場面です。浅田次郎のこういう緊迫のシーンの描き方は特に印象に残ります。

このやりとりは創作だと思いますが、この頃の湯は36歳ぐらいです。

また、終盤で王永江が張作霖が山海関を越えて北京に攻め入ろうと画策していると疑ったのに対して、思い過ごしだぜ、と諫めます。これは駆け引きなのだと。
これまたカッコいいシーンです。

史実によると、湯玉麟はその後も基本的には張作霖とともに行動し、1926年からは熱河省の行政を司りました。その後日本軍が熱河を奪うと、1933年にこの天津に逃亡してきました。





湯玉麟がここで暮らしたのは1933年から没する1937年までだったようです。ときに湯はすでに60代になっていました。

このルネサンスとバロックが融合したような洋館は1922年の竣工です。いかにもイタリア租界の建物です。当時は北洋政府交通局長の邸宅として建設されたのだとか。イタリア人建築士の設計でしょうか。

今は何の用途に使われているのか分かりませんが、保存状態はとても良好そうに見えます。

個人宅としてはずいぶん立派で広い家です。激動の時代を生きた湯にとって、天津での暮らしはどのようなものだったでしょうか。

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天津旧英国租界 張作相旧居

2024-01-18 | 天津を歩く
天津の旧英国租界である五大道を歩いていると、張作相旧居なる洋館を見かけました。



場所は重慶道です。



偶然です。ああ、あの張作相の家か、とつい独り言が出ました。

張作相といえば浅田次郎の小説「中原の虹」に出てくる新民府の張作霖馬賊の三当家です。
小説では白猫とか猫攬把とよばれていました。
牙のような鋭い八重歯があって、白虎張の弟分だから白猫、という説明でした。

ぶっきらぼうですが男気のある人情家として描かれていました。
銀花が包丁を握った亭主に追われて血まみれで天主堂に逃げ込んできたピンチを救った場面がありました。



実際はどういう人物だったのでしょうか。

張作相は1881年生まれで1949年に没しています。
張作霖のもとで兵団を率い、奉直戦争に従軍しました。吉林省の省政を指揮し、吉海鉄道や吉林大学をつくりました。張作霖爆殺事件の後は張学良を立てました。

天津のこの家には満州事変後の1933年から逝去するまでの16年ほどを過ごしたようです。
引退後に日本から満州国の要職への就任を打診されたこともあったようですが、断ったそうです。やっぱり実際にも男気のある人物だったようです。



この3階建ての洋館は1929年に建てられました。
張作相への篭絡を図った関東軍の幹部たちは何度もこの屋敷に手土産を持って足を運んだのではないでしょうか。


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ベルギー商天津電車電灯公司旧址

2023-10-15 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界にある天津電力科学技術館です。



この建物は1904年に建てられたベルギー商天津電車電灯公司の事務所でした。

ベルギーの資本と産業界が開発した路面電車と電力供給会社です。

同社は中国本土の都市では最も早い時期の都市公共交通企業でした。中国とベルギーとの協力文書には直隷総督だった袁世凱が承認したのだとか。本社はブリュッセルにあったそうです。

天津市初の路面電車の路線の建設を行い、1906年に総延長5km余りの運行を開始しました。中国でも最も早い時期の公共交通路線となりました。

その後路線を拡大し、1927年には6本もの路線を開通させました。





当時天津では初めて導入された蒸気タービン交流発電機は華北で最大の発電能力を持ち、天津が近代中国で2番目の大都市として電力を供給するようになったそうです。

同社が担った2大業務のうち、電力事業は1943年から日本軍が引き継ぎました。

ベルギーは天津に租界を置いた列強の中では存在感が低い国でしたが、この路面電車と電力という分野においては大きな存在感を示していたようです。

天津の路面電車は戦後も市民の足として活躍し、1994年まで存続したそうです。

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天津五大道 関麟徴旧居

2023-10-12 | 天津を歩く
天津五大道の旧英国租界は租界時代の立派な戸建ての洋館が良好な保存状態のまま連なっており、当時の雰囲気をそのまま残すエリアです。

この3階建てのレンガ造りの洋館は1920年につくられたようですが、プレートによると、国民党軍の中将だった関麟徴(1905-1980)の旧居だったそうです。



関麟徴は陝西省出身で、少年時代に軍に入隊し、士官候補生として黄埔軍校を卒業後、東征と北伐に従軍します。
日本との戦争では1933年に長城の古北口で、1938年には第52軍の司令官として台児庄で日本軍と戦いました。関の部隊は勇敢で、日本軍を繰り返し攻撃して退けたため、「関鉄拳」と呼ばれたそうです。

当時第五師団の師団長だった板垣征四郎は関の軍隊について、一般の中国の部隊の10個分ぐらいに相当する、と語ったのだとか。

関がこの建物に住んでいた時期は分かりませんが、建築当初は英国人租界民の住居だったはずです。
関は香港で退役後の晩年を過ごしていますが、それまでの激動の軍人人生を考えると、この天津で暮らした時間は短かったのではないでしょうか。



中央の建物の半円形の塔のファサード、玄関右の丸窓など、いかにも当時の流行を取入れた感じがします。
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フランス公議局旧址 - 1945年10月6日、日本軍降伏式の地

2023-10-03 | 天津を歩く
天津旧フランス租界にあるフランス公議局だった近代歴史建築です。



1929年から31年にかけて建てられたそうです。こういうのはクラシックリバイバル様式と呼ぶのでしょうか。

旧フランス租界には今でも当時の多くの公的機関の建物が残っていますが、ここは大きさといい、優美さといい高い水準にありそうです。保存状態も良好です。

設計は、最初にフランス人建築家ミュラーが手がけ、その後、イーピン社の技術者たであっやメンデルソンによって正式に設計された、とあります。

公議局は天津フランス租界の行政事務を行う機関でした。
駐天津フランス領事が代表を兼務して、総務部、警察部、工務部、寄付部、会計部の5つの部署があったのだとか。

この建物を説明する中国語の文献によると、先の戦争が終わった1945年、天津の日本軍の中国軍への降伏式がここで行われた、とあります。

本当でしょうか。

少し掘り下げて調べてみると、このときの様子を記した中国語のサイトがいくつかありました。

この中国語ページに注目してみます。

要約すると、こういう説明されています。

1946年9月、国民党軍は東北三省を除く中国の16か所で日本軍の降伏式を行う計画を立てた。それぞれの地で中国側の最高軍位にあった中国人司令官が受諾の役割を受け持つことになった。天津は第10受諾区だった。

ところが、天津での式典の開催が迫った9月下旬になって米国海軍が割り込んできて降伏式を受け持つと言い始めた。

フランス公議局のビルは、第二次世界大戦末期から、米国海軍第三軍の司令部として使われていたので、降伏式はここで行うことになった。

1945年10月6日、霧の濃い天津旧フランス租界公議局ビル前の小広場で、日本軍の降伏式が始まった。

降伏側の日本軍代表は陸軍第118師団長の内田銀之助中将、受諾側は予定されていた中国側司令官から米国海兵師団のロッキー少将に変更された。

これに対して中国側関係者は疑問を感じたが、それまでの経験から、彼らが上から目線で一方的で、かつ朝令暮改で口出ししてくることをよく知っていたので、不本意ながら自らを納得させた。

式典の流れはとても簡素で、ロッキー少将が中国を代表して署名し、続いて日本軍の内田中将が署名した後、内田中将はロッキー少将に軍刀を差し出した。

本来、最も降伏式に参加すべきであった中国側代表は2人のみで、1人は第10受諾区参謀長、1人は天津市副市長だった。

当時、広場の周囲には200から300人の群衆が集まっていた。

勝利の喜びを待っていたが、降伏式が終わった後に会場に掲げられたのは米国国旗であり、演奏されたのは米国国歌だった。


いかがでしょうか。
上記サイトには降伏式当日の写真が掲載されています。内田銀之助中将と思しき人物が署名しているシーンの写真があります。

ロッキー少将と思しき人物が立っている写真の背景に写っている建物は、たしかにこのフランス公議局です。





現在、日米と中国は政治的に何かとややこしいわけですが、こういう一見何気ない街角にも日米中の歴史が静かに刻まれている、という例です。

戦後まもなく、建物は天津軍統制委員会の事務所として使われました。その後目まぐるしく役割を変え、天津図書館、天津児童青少年図書館、天津美術館、天津文物局庁舎などとして使われたそうです。

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天津旧日本租界 蔦井組天津出張所旧址

2023-09-30 | 天津を歩く
天津旧日本租界の万全道で見かけた個性的なデザインの老建築です。





租界時代の地図をみると、伏見街3番地とあります。

この番地にあった会社を調べてみたところ、2つ見つかりました。
ひとつは株式会社隆光公司天津支店です。土木山用機械や工業機械を扱った会社のようです。

もうひとつは蔦井組天津出張所です。
事業は設計監督建築請負とあります。



出張所ということは、本社はどこにあったのでしょうか。

調べたところ、蔦井組とは正式には合資会社満洲蔦井組といい、本社は奉天でした。
天津のほか、大連、鞍山、新京、ハルビン、安東、牡丹江、北京などに拠点があったようです。
満鉄系の社宅や施設の設計や建築を請け負った会社だったようです。



天津出張所は昭和11年4月創業で、秋本京松という人物が代表をしていました。
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芙蓉ホテル新館旧址

2023-09-27 | 天津を歩く
かつて天津日本租界にあった芙蓉ホテルは日本人経営のホテルとしては最も古く、部屋数が多く、かつ名の通ったホテルだったとされます。



設立は1902年ですので、租界を開いた初期中の初期で、秋山好古が清国駐屯軍守備司令官として天津に駐在していた頃です。

何度か移転を行い、やがて本館、別館、新館などの複数の場所に分かれました。



ここは1939年に開業した新館です。場所は旭街で、四面鐘の東隣です。日本租界時代の住所表記は旭街12番地です。



芙蓉ホテルグループではここが最も豪華で、その内部施設、サービス、価格は当時の天津のトップクラスだったといいます。

当時、ホテルを経営したのは大原清兵衛という佐賀県出身者でした。

要人が宿泊し、関東軍や満鉄などの部門が指定して様々なサービスを提供しました。





左側が芙蓉ホテル新館です。

これは当時の刊行物に掲載されたホテルの広告です。



「日本都市大観 昭和15年版」(大阪毎日新聞社、1940年)では、このホテルのことを次のように紹介しています。

明朗北支の天津日本租界旭街松島街角に豪華な一大偉観を呈しているのは芙蓉ホテル新館及び芙蓉ホテルグリル新装の姿である。
館主大原清兵衛氏が巨費を投じて、近代的建築様式の粋を集めて設計建築したもので、まづその正門に立てば、言ひようのない落つきを感受し一度足を踏み入るれば、目を奪はれるばかりである、客室総数は70室で、種類の部屋に分類し浴室、便所付き部屋も多数備はり、特に大陸旅行団体のため百人収容の団体部屋も用意されているなどいかに理想的に、且つ大掛かりに設計されたかがうかがえるが、これら内部の設備はいづれも近代的に、豊かな調和をもつて完備し、サービスまた至れり尽せりの態度で決して客に失望を興へない、これらは館主大原氏は勿論であるが、市街人柚木輝夫氏の苦心の存するところで、特別の注意は単に設備のみならず総ての待遇において「客の気分を従業員の気分として」をモットーに懇切周到、いささかのうらみも残さぬことを念頭に経営しているため、客もまた感嘆推奨に口を極めているのも、もつともである。
また大原氏は天津日本租界栄町公園前に芙蓉ホテル別館を経営している、支配人は小原福松氏で、施設は素晴らしく完備し、サービスもたぐひなく100%の満悦を興へ、ために40の客室では不足を告げるに至り、前記の如く新館、グリルを新築したものである。
芙蓉ホテル本館は天津日本租界宮島街に商人向旅館として館主泉勝一氏が経営し、客室30室はいづれも完全な設備に万全の接待をなし「天津では芙蓉ホテル」と常連も素晴らしい数にのぼついている
芙蓉ホテルは各館を通じて、視察団その他団体何人からでも相談に応じている
新館(朝夕二食付)9円より35円まで、団体は(二食)6円以上
別館(朝夕二食付)9円より17円まで、団体は5円以上
新館(朝夕二食付)5円より8円まで、団体2円50銭以上
祖国に本を偲ぶ和室、香新しい青畳、完全なる暖房、衛生設備の完璧、訓練されたるサービス、優秀なる板前技術など特筆すべき数々を持つ芙蓉ホテルの経営主大原氏は日本奈良県肝塚町に累々の聲をあげ、幾多の辛酸と貧困と戦ひながら、その百折不撓の努力がつひに報ひられ今日を築き上げた立志伝中の人である

いかがでしょうか。

経営者の大原氏は帰国後も神戸市で経営を続けたそうです。

この新館は竣工から約85年が経過することになりますが、今も当時の姿をなんとか残しています。

当時は和室を含む70の客室があったとのことですが、それらは今どんな利用状態にあるのでしょうか。
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天津旧英国租界 旧大闊飯店(States Hotel)

2023-09-18 | 天津を歩く
旧英国租界浙江路の旧大闊飯店は、天津らしい租界地の歴史を重ねてきたホテルです。



初代は20世紀はじめにアイルランド人夫婦によって建設されたそうですが、開業後まもなく火事に遭って半壊したのだとか。

その後、1931年にユダヤ人商人が出資してホテルを買い取り、改修して数階分を増築し、5階建てにしてStates Hotelという名称で再出発しました。

シンプルでモダニズム的、交差点に面した湾曲したファサードが特徴的です。





ファサードの上部にはStates Hotelとという当時のホテル名と1931という設立年が刻まれています。

外国人専用のホテルとして利用されたのでしょう。戦後しばらくは天津市の招待所になったそうです。

保存状態がかなり良好に見えますが、2008年に改修を施したようです。外壁の軒に付着していた様々な時代の塗装を取り除き、本来の外観を取り戻したのだとか。



今も首旅集団が経営する艾扉酒店としてホテル利用されているようです。

次に天津を訪問することがあったらここに泊まってみようと思います。

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天津 首善堂旧址

2023-09-15 | 天津を歩く
天津旧フランス租界、大連道の旧首善堂ビルです。





首善堂とはフランスカトリックヴィンセンシオの宣教会が中国北方に設立した教会の財産を管理する組織でした。

不動産経営を主業として天津に大量の不動産を所有したそうです。当時の天津では指折りとの経済力を誇りり、その収入家賃と投資で得られた利益で天津、北京、保定、正定の4つの教区及び北京神学院に必要な経費をまかなった、とあります。

当初、首善堂は営口道に設置された紫竹林教会の中に置かれました。

1900年にここに移転し、1919年にこのビルを建てたそうです。





赤レンガと黒レンガの組み合わせが独特の風合いを感じさせます。

戦後は、中国の神父が接収し、その後もしばらくはカトリックの修道施設として利用されたそうです。

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旧中国実業銀行本店ビル

2023-09-12 | 天津を歩く
旧中国実業銀行は旧英国租界の領事路、現在の和平区大同路15号にありました。



建物は1921年に完成しました。
銀行らしい古典様式の重厚感のあるつくりですが、少し個性的です。

正面からファサードを見ると迫力のあるイオニア式円柱が6本並び、その奥は花崗岩を嵌め込んだ装飾が施されていますが、その両脇の部分は赤レンガ積みになっていて、角には隅石がはめ込まれています。



一貫性のないデザインで、角度を変えて見たら別の建物のようです。





中国実業銀行は1919年に設立された民族系の産業銀行で、ここ天津が本店でした。紙幣も発行しました。1926年に上海に移転しました。

解放後には天津眼科医院として利用されたようですが、現在は不動産関連の会社が使っているようです。

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在天津ベルギー領事館 / ベルギー銀行旧址

2023-09-09 | 天津を歩く
戦前の在天津ベルギー領事館は、天津の旧金融街である解放北路にありました。



あまり飾り気のない花崗岩を積んだシンプルなコンクリート造りの3階建てです。



金融機関が並ぶこの通りに突如領事館が? と思って調べたところ、やはりここも銀行ビルでした。

1922年に中国ベルギー銀行(本店:ブリュッセル)のビルとして完成し、このうち2階部分がベルギー領事館として貸し出されたようです。

当時、ここはベルギーではなく英国の租借地でした。

ベルギーも租界地を持っていました。しかし、それはここから2キロほど南東に下った海河左岸のエリアで、各国租借地のうち南東側の外れでした。

ベルギーがここに領事館を置いたのは地理的に何かと便利だったからでしょう。

ベルギーが天津に租界を置いたのは1902年で後発組です。そのあたりの事情もあったのでしょうか。

天津はベルギーが中国に置いた唯一の租界地でした。租界地は1931年まで存続しました。



今は中国建設銀行天津支店が使っています。
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天津旧日本租界伏見街14番地 吉田忠商店出張所旧址

2023-09-06 | 天津を歩く
天津の万全道を歩いていると、アールデコ調の個性的なレンガ造りの建物が目に入りました。







番地は青海路1号と3号、万全道97号です。

1930年代の日本租界の地図で調べてみると、ここは伏見街14番地です。日本人居留民が使っていた建物であることは間違いありません。

設計者や施工者の情報は見当たりませんが、おそらく、当時は先端デザインのデザイナービルっぽい感じで居留民の注目を集めたのではないでしょうか。

「中国工商年鑑(昭和17年版)」でこの番地に所在していた企業を調べてみたところ、3つの会社がありました。

岡谷商店出張所
(本社名古屋、片岡三郎所長、鉄鋼、地銅、機械工具、亜鉛鉄板諸金物、塗料)
丸友商店支店
(本社大阪、岡田昇一支店長、綿人絹糸布、布製品)
吉田忠商店(吉忠洋行)出張所
(本社京都、門秀雄主任、絹、人絹、綿織物、毛織物)

別の文献を調べてみると、この3社のうち、株式会社吉田忠商店は京都室町四条にあった呉服問屋だったようです。
社名の吉田忠は社長だった吉田忠三郎さんから取ったものだと思われます。

しかも、今も吉忠株式会社として京都で存続しているようです(公式サイト)。

サイトによると、吉忠さんはグループ会社で今も着物のほか、マネキン、婦人服メーカーとして活躍しておられるようです。

忠三郎さんは現社長のご先祖様でしょうか。

吉忠グループの皆さま、一度建物を見学にいらっしゃいませんか。


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天津旧英国租界 聖公会キリスト教会

2023-09-03 | 天津を歩く
旧英国租界泰安道を歩いていると、いかにも古そうなレンガ造りの教会が見えてきました。





これは英国国教会によって建てられた聖公会教会、別名アンリガン教会とよばれる教会でした。

創立したのは聖公会のスカーレットという宣教師で、1893年から10年をかけて建設したそうです。
それ以前から英国人居留民からは自らのための教会の建設を望む声があり、それに応える形で1893年にイギリス租界の工務局から寄贈されたのだとか。





しかし、当時、この一帯は湿地帯だったので、土地を譲り受けただけでは教会は建てられませんでした。

そこでスカーレット牧師は地元の英国企業や居留民から寄付を募り、まずは土地の埋め立てをするところから始めなければならなかったと。
その結果として、こんな小さな教会なのに完成まで10年の月日を要したというわけです。

旧日本租界もかつては湿地帯だったと言われますが、天津とはそのような場所だったのですね。

英国租界地らしく、英国風の雰囲気がある教会です。
まったく派手さや装飾性がなく、質素で素朴で、いかにも在留民のための祈りの場所といった風情をたたえています。

今は教会としての用途は終えており、人の気配がありません。単なる歴史建築として保存しているのでしょうか。



日本租界であれば天津神社に当たる施設です。
天津神社は早々に取り壊されて今や社務所の一部が残るのみですが、こうして教会がそのままの姿で残してもらえる旧列強の国々がうらやましいものだと思ったりもします。



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