旅順には、日本租借時代、関東神宮という本格的な神社がありました。
中国大陸では唯一の官幣大社でした。
祭神は天照大神と明治天皇でした。
終戦間際の1944年10月に鎮座・創建されましたが、翌1945年の日本敗戦後、廃社されました。
つまり、神社としてまともに利用されたのは1年間にも満たなかったわけです。
なんと短い歴史でしょう。あまりにも儚い歴史です。

これは鎮座した1944年に発売された関東神宮の切手です。
神社は戦況が悪くなってからの着工だったはずなので、建築資材の調達には相当の困難があったのではないかと思われます。
敗戦から社をしまい、引き揚げたときの神社関係者の苦労と無念は想像に難くありません。
廃社から69年を迎える今年、現地を訪ねてみました。
跡地は現在、中国海軍の施設として利用されていますので、立ち入ることができません。
しかし、どこかに神社としての痕跡が残っていないでしょうか?
周辺を歩いて探ってみました。
これは、表参道だった道です。

格調があって立派な参道です。正面が旧神宮です。
周囲の家屋の密集度や交通量から考えて明らかに広すぎる道幅です。まっすぐ旧神宮に繋がっています。
道の両脇に街路樹が植栽されていて、その両側には歩道が整備されています。
街路樹は当時植栽されたものでしょう。
街路樹の雰囲気といい、道幅といい、ちょうど東京・明治神宮の表参道に似ています。
これだけ立派な参道を作ったのですから、当時の居留民にとって関東神宮がどれだけ重要な存在だったのか、その思い入れが伝わってきます。
海外領土最大の神社、という位置づけだったと思われます。
当然ながら、今は本殿や拝殿、鳥居は残っていません。
しかし、敷地の東南角でこのような建造物が残っているのを発見しました。


この建造物は、神宮の社務所だったのではないでしょうか。
本殿があったと想定される場所から、やや傾斜を下がった場所です。鳥居をくぐってすぐ左側にあたります。
この写真の右奥に拝殿や本殿があったと考えられますが、今は残っていません。
奥はなだらかに傾斜し、山に繋がっています。
施設の中に入ってウロウロ歩いてみれば、これ以外にも神社の名残りを見つけることができると思うのですが、こればかりは叶いません。
本殿の方向を向いて静かに目礼をして、往時の居留民の思いに想像を巡らせてみました。
中国大陸では唯一の官幣大社でした。
祭神は天照大神と明治天皇でした。
終戦間際の1944年10月に鎮座・創建されましたが、翌1945年の日本敗戦後、廃社されました。
つまり、神社としてまともに利用されたのは1年間にも満たなかったわけです。
なんと短い歴史でしょう。あまりにも儚い歴史です。

これは鎮座した1944年に発売された関東神宮の切手です。
神社は戦況が悪くなってからの着工だったはずなので、建築資材の調達には相当の困難があったのではないかと思われます。
敗戦から社をしまい、引き揚げたときの神社関係者の苦労と無念は想像に難くありません。
廃社から69年を迎える今年、現地を訪ねてみました。
跡地は現在、中国海軍の施設として利用されていますので、立ち入ることができません。
しかし、どこかに神社としての痕跡が残っていないでしょうか?
周辺を歩いて探ってみました。
これは、表参道だった道です。

格調があって立派な参道です。正面が旧神宮です。
周囲の家屋の密集度や交通量から考えて明らかに広すぎる道幅です。まっすぐ旧神宮に繋がっています。
道の両脇に街路樹が植栽されていて、その両側には歩道が整備されています。
街路樹は当時植栽されたものでしょう。
街路樹の雰囲気といい、道幅といい、ちょうど東京・明治神宮の表参道に似ています。
これだけ立派な参道を作ったのですから、当時の居留民にとって関東神宮がどれだけ重要な存在だったのか、その思い入れが伝わってきます。
海外領土最大の神社、という位置づけだったと思われます。
当然ながら、今は本殿や拝殿、鳥居は残っていません。
しかし、敷地の東南角でこのような建造物が残っているのを発見しました。


この建造物は、神宮の社務所だったのではないでしょうか。
本殿があったと想定される場所から、やや傾斜を下がった場所です。鳥居をくぐってすぐ左側にあたります。
この写真の右奥に拝殿や本殿があったと考えられますが、今は残っていません。
奥はなだらかに傾斜し、山に繋がっています。
施設の中に入ってウロウロ歩いてみれば、これ以外にも神社の名残りを見つけることができると思うのですが、こればかりは叶いません。
本殿の方向を向いて静かに目礼をして、往時の居留民の思いに想像を巡らせてみました。









※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます