旅順太陽溝の旧松村町は、個人商店が軒を連ねていた商店街がありました。
商店街は旅順商品廉売所と呼ばれていました。
往時には20軒以上の店があったようですので、相当にぎわったのではないでしょうか。
商店街の一部は今も残っています。
今の列寧街と解放街が交わるラウンドアバウトの西北角です。
2階建ての長屋が連なっています。
正確な建築年次は不明ですが、日本租借時代です。
太陽溝はロシア建築がたくさん残っていますが、これは日本時代です。

古地図で照合すると、この建物は服部薬店という店が使っていたようです。

これは文化亭という店が入っていた場所です。文化亭とは飲食店でしょうか。
僕はこの店でラーメンを食べたことがあります。2016年だったでしょうか。

ここは坂本靴店でした。1階が店舗で、2階が住居だったのでしょうか。

ここは三浦酒店があった場所と思われます。売っていたのは日本酒やビールなど、日本人向けの酒だったのでしょうか。

ここは文英堂という店が使っていた場所です。文英堂は何を扱った店だったのでしょうか。

ここは藤井洋品店だった場所です。今は空き家になっています。

ここは満電バス松村町営業所です。
ここは今年1月18日の日記で2015年の訪問時の写真を使ってご紹介しましたが、まだそのまま残っていました。



この角は近江屋という店が使っていたようです。ここも空き家です。
おや...、クリーム色の壁面から何か文字が顔を出しています。
拡大してみましょう。

品廉賣所という文字が確認できます。
どうやらここには、「旅順商品廉売所」という文字が入っていたようです。
古写真に写っていないでしょうか。探してみます。
ありました。

1934年頃の写真です。右側が旅順商品廉売所です。左側は旧満蒙物産館(2015年7月1日の日記)です。
廉売所の看板を拡大してみます。

いかがでしょうか。
今年訪問したときには気が付きませんでしたが、たまたま撮影した写真にこの4文字が入っていました。幸運に感謝です。
以前はこの文字は見えていなかったはずです。
僕が大連に駐在した頃は、ここには店が入っていて、営業していました。
ここが空き家になり、壁面が露出するようになってから、誰かが意図的に壁を剝がしたのではないでしょうか。
いつまでもこの4文字が見えているわけではないと思います。
思いがけないお宝との遭遇に感謝します。
商店街は旅順商品廉売所と呼ばれていました。
往時には20軒以上の店があったようですので、相当にぎわったのではないでしょうか。
商店街の一部は今も残っています。
今の列寧街と解放街が交わるラウンドアバウトの西北角です。
2階建ての長屋が連なっています。
正確な建築年次は不明ですが、日本租借時代です。
太陽溝はロシア建築がたくさん残っていますが、これは日本時代です。

古地図で照合すると、この建物は服部薬店という店が使っていたようです。

これは文化亭という店が入っていた場所です。文化亭とは飲食店でしょうか。
僕はこの店でラーメンを食べたことがあります。2016年だったでしょうか。

ここは坂本靴店でした。1階が店舗で、2階が住居だったのでしょうか。

ここは三浦酒店があった場所と思われます。売っていたのは日本酒やビールなど、日本人向けの酒だったのでしょうか。

ここは文英堂という店が使っていた場所です。文英堂は何を扱った店だったのでしょうか。

ここは藤井洋品店だった場所です。今は空き家になっています。

ここは満電バス松村町営業所です。
ここは今年1月18日の日記で2015年の訪問時の写真を使ってご紹介しましたが、まだそのまま残っていました。



この角は近江屋という店が使っていたようです。ここも空き家です。
おや...、クリーム色の壁面から何か文字が顔を出しています。
拡大してみましょう。

品廉賣所という文字が確認できます。
どうやらここには、「旅順商品廉売所」という文字が入っていたようです。
古写真に写っていないでしょうか。探してみます。
ありました。

1934年頃の写真です。右側が旅順商品廉売所です。左側は旧満蒙物産館(2015年7月1日の日記)です。
廉売所の看板を拡大してみます。

いかがでしょうか。
今年訪問したときには気が付きませんでしたが、たまたま撮影した写真にこの4文字が入っていました。幸運に感謝です。
以前はこの文字は見えていなかったはずです。
僕が大連に駐在した頃は、ここには店が入っていて、営業していました。
ここが空き家になり、壁面が露出するようになってから、誰かが意図的に壁を剝がしたのではないでしょうか。
いつまでもこの4文字が見えているわけではないと思います。
思いがけないお宝との遭遇に感謝します。
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