巡礼の旅(お遍路&スペイン サンティアゴデコンポステーラ馬巡礼)

当初四国遍路にフォーカスしていましたが、今後巡礼に範囲を広げました。

77番道隆寺&そこまでの道

2011年07月30日 | 日記

真言宗醍醐派大本山でご本尊は薬師如来です。寺伝によれば、当地の領主である和気道隆が乳母を誤って射殺してしまったため、これを悲しんで桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源だそうです。

金倉寺からは平らな道を約4キロですので、道そのものは普通でした。 でもここには地域の住民に守られた幾つかの地蔵堂があり、お地蔵さんは幸せそうにしています。 




途中あった神社には樹高27mという大きな楠の木もあり昔からの田園地帯の様相を示しています。 


道隆寺直前になりお寺の駐車場が見えたあたりでした。 先行していた歩きお遍路さんが、道端の人に呼び止められて何かはなしています。 私がそこにつく頃に、その道端の人が私に向かって話されました。 『これは息子が作ったお地蔵さんです。 どうぞ納めて下さい』 お父さんと知恵遅れ風の息子さんが二人で歩いてくる遍路さんに地蔵さんを一体一体渡されていました。 お父さんは前歯が数本抜けてしまい、かなりの年と見受けられます。 今まで色々な地蔵さんにお会いしてきましたが、頂いた地蔵さんは心がこもっており、なにか顔がすばらしいですね。 ありがたく頂いてそこを離れました。(後日自宅に戻ってから近くのお寺の和尚さんにお話をしたところ、ご本尊前に置いてお経を唱えてしょうこん(招魂かなそれとも性根かな)を入れて頂きました)
この地蔵さんは今私の机の上に大事に安置してあります。

 


76番金倉寺

2011年07月28日 | 日記

 

金倉寺は「こんぞうじ」と読みます。 善通寺から歩いて程なく到着。774年の創建と伝えられ、本尊は薬師如来、宗派は天台寺門宗です。 近くにあるJR四国の駅は読み方は同じですが、表記は金蔵寺駅です。 


ここの特徴は本堂にある大きな数珠で一つ一つ括ると大きな音をして数珠が回ってきます。 

もう一つ特徴のある事は本堂横、駐車場に抜ける道にある訶梨帝堂です。 これは鬼子母神のお堂ですが、掲げられている額にある鬼子母神像はとても穏やかなお姿です。 寺のWebサイト説明ですと、『訶利帝母(かりていも)さまはインドで「ハーリティ」と呼ばれた神様で、中国、日本では「鬼子母神(きしもじん)」とも呼ばれています。訶利帝母さまというと穏やかな天女形、一方鬼子母神さまというと鬼女形であることが一般的です』
この訶利帝母さまが日本で最初に出現された場所、それが金倉寺です。訶利帝母さまが金倉寺に出現されたのは、弘仁9年(818)、智証大師5才の時でした。 「あなたは将来仏教を発展させる人、だから私はあなたを護りましょう。」
という縁起だそうです。

ところで有名な東京雑司ヶ谷の鬼子母神も優しいお姿なんですね。 『雑司ヶ谷の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角のつかない鬼の字を用い と尊称しております。』
鬼子母神というと子供を貪り食う恐ろしい異形の神様のように思っていたのですが、子育ての神様で実に優しい姿をしています。


総本山 75番善通寺番外 善通寺市立郷土館

2011年07月26日 | 日記



http://www.city.zentsuji.kagawa.jp/selection/kyoudokan/index.html

 これまで市立郷土館として使用していた旧善通寺偕行社を重要文化財建造物として保存修理するため、郷土館の機能は平成17年4月から赤門筋に移転しました。貴重な考古資料を中心に歴史資料や民俗資料を多数展示しています。開館時間 10:00~16:00    入館無料

ここは善通寺を出て金倉寺の道筋にあります。
ここは私のお薦めです。
善通寺近くで発掘された古墳から出土した古代の殯(もがり)を見ることが出来ます。  またお城の隠されたなぞなど常駐の人と話をしていると、お遍路だけでない讃岐を知るいい機会になりました。


善通寺番外 赤門七仏薬師如来  天霧城

2011年07月26日 | 日記



第75番善通寺の門前である赤門筋商店街の中にある小さな薬師如来さんです。 石造りで穏やかな顔をしております。 別名乳薬師とも呼ばれ乳の出にご利益があり吉原町七仏薬師寺から総本山善通寺創建1200年を記念して勧請されたそうです。 説明を読むと粉ミルクの普及によってこの乳薬師さんの人気も下り坂になってしまったとか。 でも違う町に来て商店街の一角にお住まいになるのは大変でしょう。



善通寺市立郷土館の追加
展示のあった天霧城の話です。 Wikipdiaによると『讃岐守護細川氏に従って相模より讃岐に入部した香川景則が讃岐西方守護代に任ぜられ天霧山に築城。以後、香川氏は細川京兆家内衆として細川氏に従い畿内で活躍しつつ西讃岐を支配する。』 香川氏と言うのでてっきり讃岐の人かと考えましたがこの記録を読むと、この香川氏は今の神奈川県茅ヶ崎市寒川あたりの人間が讃岐に移り住んだようです。 また調べてみたい事が増えました。


仙遊寺を出て弘法大師ゆかりの地 犬塚を経て善通寺へ

2011年07月22日 | 旅行


 仙遊寺を出て直ぐにまた犬塚なる標識があります。 早速寄り道です。 本音今日は善通寺宿坊のいろは会館に予約を入れていません。 勿論泊まったほうが善通寺の寺宝を見れていいのですが、昨日まで一緒になった歩き遍路の人たちやバス遍路の人達と距離をおきたいと思い、門前の宿に予約を入れました。 私はまだ帰依して1年の新米ですが、四国88箇所だけを巡っているのではなく、四国全土の大師ゆかりの地を巡っているという気持ちがあります。 88箇所だけでなく、名もない小さな地蔵堂でもそこに共感するものがあれば、そして地元の方々が守り続けているお堂であれば、手を合わせていかないとすまない気分になっています。 そうここの仙遊寺も犬塚もそうなんです。



説明には作者は不明で鎌倉時代の作と推定される。空海が唐から持ち帰った薬草(麦の種子)にまつわる義犬伝説とあり、ネットで調べてみると色々あります。 一番この地にふさわしいのが「唐での留学を終えた空海が帰国の際に小麦の種を持ち帰ろうとした。しかし、当時は小麦の国外持ち出しが禁止されていて、唐の役人が小麦の臭いを嗅ぎわけることのできる犬を使い、国外持ち出しをチェックしていた。空海は足のふくらはぎのところを切って、その中に小麦の種を隠していた。検査のとき、犬は空海のところで吠えましたが、小麦を隠していることは発覚しなかったた。空海はその犬を不憫に思い日本に連れて帰り、その犬が死んだときに葬られたところが犬塚だという。」
家々に囲まれ、風化激しいこの犬塚ですが、時代を感じさせるいい遺跡でした。