巡礼の旅(お遍路&スペイン サンティアゴデコンポステーラ馬巡礼)

当初四国遍路にフォーカスしていましたが、今後巡礼に範囲を広げました。

怨霊(崇徳上皇) 香川県

2011年07月02日 | 旅行


香川県に入ると急に今まで無かったテーマ、怨霊が出てきました。 日本三大怨霊として、平将門、菅原道真、そして崇徳上皇がトップスリーですが、崇徳上皇は天皇家ということもあり、その怨霊度と実際の話とのかけ離れもまたすごいです。
詳しくは「怨霊になった天皇」という本を読むのをお薦めします。
さて崇徳上皇と四国お遍路の関わりは、79番天皇寺と81番白峰寺があります。 また金比羅さんも崇徳上皇とかかわっています。 さらに歌人の西行もここに絡んでおり、壇ノ浦で海に入水された安徳天皇までがかかわり、最後に明治天皇、昭和天皇と話は1000年近くにわたるお話です。

崇徳上皇とは、皇位継承問題や摂関家の内紛による保元の乱で負けて、讃岐に流された上皇です。 崇徳上皇はここで8年静かに暮らして亡くなりました。 崇徳上皇の遺体は京都からの指示を待つ間腐敗しないように甕に入れて冷たい清水をかけていました。 この清水があった場所が79番天皇寺の八十場の名水だそうです。 その後讃岐で荼毘に付されて81番白峰寺に葬られたそうです。 79番天皇寺と81番白峰寺にはお寺に隣接して白峰宮、崇徳天皇陵(白峯陵)があります。 お遍路としてはここまでなのですが、怨霊はここから興味深い展開が始まります。

実は讃岐に流された崇徳上皇は静かに写経をして暮らしていたのですが、その写経を京都に送り後悔の念を示したにも関わらず、その写経が破かれて返された事などから「天皇家を呪ってやる」として憤死した事に世間には伝わり、そこから崇徳上皇の怨霊化が始まりました。

崇徳上皇が亡くなって10年ほどして崇徳天皇陵(白峯陵)を訪れた西行、彼は崇徳上皇と和歌で親交があり、ここで崇徳上皇の亡霊に会い、その怨霊としての行動をなだめるのですが、崇徳天皇は納得せずに天皇家を呪うのです。このあたりは雨月物語にあり、鬼気迫る内容になっています。 怨霊となった崇徳天皇を助ける為に神奈川県大山にいた相模坊という天狗がここ讃岐に飛来して、白峰相模坊として崇徳上皇の呪いをサポートします。(ちなみに丹沢大山の天狗の座が空っぽになったので、鳥取県の伯耆大山に棲んでいた大山伯坊が丹沢に住み着いたとか、ところで鳥取県の伯耆大山はどうなったでしょう?)

保元の乱以降日本の政治は朝廷から武士に移りました。 これは崇徳上皇の呪いの為という話になりました。 天皇家の象徴である草薙の剣は須佐之男命が出雲国で倒した八岐大蛇の尾から出てきた太刀です。 ところがこの剣は安徳天皇と一緒に壇ノ浦に沈んで回収されていません。 ところがまことしとやかな話として、この剣は竜宮城の宝で八岐大蛇が殺された時に天皇家に奪われたが、崇徳上皇の呪いで竜宮城の子供が安徳天皇に生まれ変わり、壇ノ浦で竜宮城にまた戻ったという話があります。 よくできた話です。ところで86番志度寺にも竜宮と関わる伝説があります。

武士に移った政治は明治維新でまた朝廷に戻ってきました。 この時に心配した事が崇徳上皇の呪いです。 その為に明治時代に朝廷がした事が崇徳上皇の名誉回復です。 
以下Wikipediaからの引用
「明治天皇は1868年に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。
昭和天皇は1964年の東京オリンピック開催に際して香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、崇徳天皇式年祭を執り行わせている。」

そしてその片棒を担いだのが金比羅さんです。金比羅さんの本宮より上に登るとそこには明治時代に設立された白峰神社があります。
金比羅さんのオームページではもっと昔1165年に上皇の神霊をひそかにお宮にお迎えしたとあります。
http://www.konpira.or.jp/about/history/sutoku/sutoku_01.html

でも金比羅さんにある白峰神社縁起には明治11年に願い出て神社を創設したことが書かれてました。 このあたりも朝廷にとって四国の代表的神社金比羅さんが崇徳天皇の御霊を祭ることで、再び政治の力が朝廷から去っていかないよう祈念したのではないでしょうか。

ところで崇徳上皇は和歌の世界で有名な和歌を詠んでいます。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川のわれてもすゑに 逢はむとぞ思ふ」
割れて分かれたのは、争った弟の後白河天皇といつか分かり合える時が来ると考えて詠んだのでしょうか、