お寺について納経している時に一番困るのがバス遍路です。 勿論目的は同じなのですからバス遍路が悪いと決め付けることはしないです。 でもお願いです。 『お経が終わったら境内では静かにしていましょう。』
納経場でバスの添乗員が数十冊の納経帳を持ち込み長々と待たされるのも我慢します。
本堂、大師堂のまえに人だかりが出来て、鐘を鳴らしながらの読経も我慢します。
待てばいいので、ベンチに腰を下ろして終わるのをまっています。 30分かかる大渋滞にはまだ会っていませんが、歩き遍路にとって宿に着く時間が延びるのは暗くなってしまうのですこし嫌ですが、そこは時間に余裕をみて日程を立てればいいので、そこはなんとかします。
でも我慢できないのは、本堂、太子堂と読経をして終わった後に、嵐のようなお喋りが始まります。それもご本尊とは関係ない、お菓子だの昨日の食事だの、近所の噂話です。
般若心経の最後に「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」と唱えます。
ここはこのブログで以前書いたようにこのような意味をサンスクリット語で唱えています。 「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァハー」の音訳で「渡れる者よ、渡れる者よ、彼岸に渡れる者よ、彼岸に完全に渡れる者よ、悟りよ」という意味でスヴァハーとはキリスト教だとアーメンという祈りの最後に唱える言葉だそうです。
しばし心を静めて、そして般若心経を読んでいる間に明るい外の光にいた眼が堂内の暗い光に慣れてきて本堂内部がよく見えるようになります。 入ったときには気づかなかったもの、そしてご本尊がよく見えてきます。 長い歩きそして場合によっては急な境内への階段でドキドキしていた心臓も静まり、静かになった心でご本尊との無言の対話を始めようとした時にこのお喋りだけは耐えられません。 まだ修行が足らないので心を空にする過程がまだ出来ていません。 なんとかお経を読みながらその境地に達していきたいとしている中でのお喋りはさすがに心乱れるものです。 バスガイドには、先達という経験者が付いているのですが、未だに境内は静かにしましょうと言う事をお話している先達には会った事がありません。
納経場でバスの添乗員が数十冊の納経帳を持ち込み長々と待たされるのも我慢します。
本堂、大師堂のまえに人だかりが出来て、鐘を鳴らしながらの読経も我慢します。
待てばいいので、ベンチに腰を下ろして終わるのをまっています。 30分かかる大渋滞にはまだ会っていませんが、歩き遍路にとって宿に着く時間が延びるのは暗くなってしまうのですこし嫌ですが、そこは時間に余裕をみて日程を立てればいいので、そこはなんとかします。
でも我慢できないのは、本堂、太子堂と読経をして終わった後に、嵐のようなお喋りが始まります。それもご本尊とは関係ない、お菓子だの昨日の食事だの、近所の噂話です。
般若心経の最後に「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」と唱えます。
ここはこのブログで以前書いたようにこのような意味をサンスクリット語で唱えています。 「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァハー」の音訳で「渡れる者よ、渡れる者よ、彼岸に渡れる者よ、彼岸に完全に渡れる者よ、悟りよ」という意味でスヴァハーとはキリスト教だとアーメンという祈りの最後に唱える言葉だそうです。
しばし心を静めて、そして般若心経を読んでいる間に明るい外の光にいた眼が堂内の暗い光に慣れてきて本堂内部がよく見えるようになります。 入ったときには気づかなかったもの、そしてご本尊がよく見えてきます。 長い歩きそして場合によっては急な境内への階段でドキドキしていた心臓も静まり、静かになった心でご本尊との無言の対話を始めようとした時にこのお喋りだけは耐えられません。 まだ修行が足らないので心を空にする過程がまだ出来ていません。 なんとかお経を読みながらその境地に達していきたいとしている中でのお喋りはさすがに心乱れるものです。 バスガイドには、先達という経験者が付いているのですが、未だに境内は静かにしましょうと言う事をお話している先達には会った事がありません。
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