上州板倉智恵付け天神と名高い高鳥天満宮。御祭神は菅原道真公。
延喜元年(901年)菅原道真公が九州大宰府に左遷となった時、菅公に長く仕えていた岩下勝之丞が随行を願い出たが許されず、代わりに「これを私だと思って仕えなさい」と自画像を下賜される。勝之丞は泣く泣く随行をあきらめ、その御尊躰画像を本国である出羽の国に持ち帰り、末永く守護したという。
文暦元年(1234)勝之丞の後裔岩下勝之進が祖先の恩を感謝しようと画像を伴って京都北野天満宮参拝の折、板倉の地に至り宿を求めると、その晩鳥が飛来してやまないこの地に私を祀りなさいと菅原道真公が枕元に立ったことから、その夢に従ってこの地に天満宮をお祀りしたという。
境内地裏の天神の滝。この滝で身を清めた岩下勝之進の夢枕に道真公が立ったことから、天神の滝といい、また夢が叶うとされる「夢見の滝」とも称される。
更にその先は天神池が広がっており、天満宮の境内を囲むように広がっている。大変良く整備された環境で水の町板倉の象徴のような景観が見られる。
道真公は承和十二年(846)乙丑(きのとうし)年生まれとされ、天神様と牛に纏わる説話は数多く残っている。大宰府に行く途中牛によって待ち伏せの賊を逃れたり、また道真公が亡くなった際、亡骸を運ぶ途中牛車が動かなくなったところが安楽寺(大宰府)に始まりだったといわれている。学問の神として信仰が深まったのは江戸期からで、平安当初は天神様は農耕の神としての御神徳が厚かった。
現在「願掛けなで牛」として牛の像をお持ち帰り、願えが叶えば返納するという。
合格祈願の奉納者の名前が数多く記されている。
吉田松陰の肖像画
板倉町郷土資料館には吉田松陰がこの地を通った資料が展示されている。
長州藩士、吉田松陰は文政十三年(1830)生まれ。「安政の大獄」で斬首刑に処せられているが、明治維新の精神的指導者とされ、多くの人材を育てている。嘉永六年(1853)ペリー来航の前に江戸湾防衛の脆弱さを指摘し、なおかつ江戸湾のみならず、北からのロシア南下にも備える必要性を説きながら、北の防衛を点検すべく、旅に出たといわれている。松陰自身21歳の時萩を発ち、九州、中国、東海道、北陸道、東北道と徒歩で廻っている。途中館林から板倉を通り谷田川を船で渡って高鳥天満宮の参道を通って利根川堤防を下って行ったことが「東北道遊日記」に記されているという。
伊藤博文、高杉晋作、山形有朋らを育てた維新の指導者の足跡をたどることができ、智恵付け天神の御神徳を感じる次第だ。