下総国佐倉市指定史跡臼井城跡。文明10年(1478)享徳の乱の折、千葉自胤に敗北した千葉孝胤はこの臼井城に籠城する。半年以上に及ぶ籠城戦の末、城方が討って出て激戦となり落城する。その際、太田道灌の甥太田資忠討ち死にし現在土塁の上に墓石が立っている。
その後足利政氏の次男足利義明が小弓城を制圧し、小弓公方と称した際、臼井城主臼井景胤小弓公方側に立ち、一方前城主千葉孝胤の嫡男、勝胤と対立した。天文7年(1538)国府台合戦により足利義明が討ち死にしたことで臼井景胤は後ろ盾を失い、千葉氏の勢力下に戻っている。
中世の土塁跡が良く残っている。
永禄四年(1561)臼井久胤が城主を務めたいた頃、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城城主正木信茂に攻められれ、臼井城は落城する。臼井久胤は結城晴朝を頼って出奔、ここで臼井氏は滅亡する。実はこの時臼井城は久胤の母方の祖母にあたる原胤貞に乗っ取られており、幼かった久胤は軟禁状態にあったといい、正木信茂の攻めに乗じて城を出て結城氏に付いた。此の後臼井城は原氏の手中に収まったとされる。
永禄九年(1566)上杉謙信に攻められた原胤貞は臼井城に立て籠り、落城間近となるも、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師白井浄三の策略により謙信を大敗させている。「関八州古戦録」や「北条記」によればこの戦いを臼井城の戦いとし、上杉勢が優勢に戦いを進めるも、赤鬼と称された北条軍松田康郷の武勇によって上杉軍に数千人の死傷者を出したことを伝えている。
関東の覇権を狙う上杉謙信にとって大きな痛手であったことは勿論、、常陸、上野、下野の諸将が謙信を見限る経緯となった戦いといわれている。またこれを機に謙信は北条氏からの越相同盟を受け入れる原因の一つになったといわれている。
臼井城の戦い以降関東において謙信に従うものは羽生城をおいてほかになく、その出城として皿尾城も謙信の情報収集機関としての役割を担うようになっていく。利根川の南で謙信に従属するのは羽生城主広田直繁、その弟、皿尾城城主木戸忠朋の兄弟ののみになったという。
臼井城を落とせば上杉謙信の運命も変わっていったことだろう。城郭址からは今でも印旛沼を見渡すことができ、この地を抑えれば下総の水利を抑えることができたと思われる。
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