行田市行田一丁目一番地に鎮座する愛宕社は氏子区域としては現在の大字行田の西部地区にあたる。昔はここを本町一丁目とし更に行田市上町と総称していたことから今でも上町の愛宕様、或いは本町の愛宕様と呼ばれている。一方行田酉の市で名高い愛宕神社は行田下町に当たり長野口に面している。上町は行田市駅前の繁華街にあたり、今では商店街もやや減少しているが城下町時代からの商人の町で、現在でも商工会議所が建ち、足袋産業の象徴として「足袋と暮らしの博物館」整備されている。
行田は先の戦争でも空襲を受けず、古い町並みが随所に残り、近年では「足袋蔵」が日本遺産として認定されるところだが、神社の前は「北谷通り」と言って古くは鎌倉時代からの行田の歴史を映す場所として、道路も石畳状に整備されている。
主祭神は迦具土神(かぐつちのみこと)、配祀神は大己貴命とされ、愛宕様と呼ばれる。社殿内には明治期に奉納された社号額が残る。当時の富豪富田次郎助義興によるもの。
事任神社(ことのままじんじゃ)が合祀された経緯について「埼玉の神社」にも記載がなく不明だが、「事任八幡宮」は静岡県掛川市にある式内社で、遠江国一宮。主祭神は己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)で天児屋命の母神にあたるという。清少納言の「枕草子」にも記述があるといい「ことのまま」は願いが「言のまま」に叶うに通じ古くから信仰があったという。但し「枕草紙」には「事のまま明神、いと頼もし」と記されているが、その解釈については清少納言が間違った解釈を皮肉を込めて綴ったとも言われている。いづれにしてもここ北武蔵においてこうした事任神社が合祀されているのは数少ないように思う。
「愛宕」=あたごの読みは祭神迦具土命を母伊邪那美命がお産みになった際、陰部を焼かれて亡くなった神話により「仇子」或いは「熱子」に由来するとも伝わる。全国の愛宕神社の総本山は京都府北西部の愛宕神社とされ、江戸期まで白雲寺という境内にあった。火伏の神として古くから信仰が厚く、各地で寺院は勿論城の火防の神として祀られることが多い。
行田の本町にはかつて法性寺という真言宗のお寺があったという。いつの時代にかお寺は火災により焼失し、明治初めになって忍城内代官町の黒助稲荷社内から、内殿を発見し「正徳二年行田町願主講中当社建立法性寺」と記されていたことからこれを譲り受けたという。
ところが再建計画の中、法性寺が焼けてしまい、跡地が行田尋常小学校となってしまい、社地がなくなってしまった。ひとまず上町の氏子の稲荷社として安置されたが、仮住まいの神社では心もとないとして、明治十四年元代官所跡地を氏子富田次郎助らが境内地として寄付し社殿を新築、明治十七年遷宮が行われ現在に至るという。
鳥居の脇には「代官所跡」の石碑が建ち当時の歴史も伝えている。殊に行田は忍の城下町として江戸期より人家の密集地で、消防技術が発達していなかった当時としては火事は恐ろしいものであり、愛宕様に火災除けを祈願したのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます