皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

野 久伊豆神社

2020-02-28 22:48:17 | 神社と歴史 忍領行田

 行田市の南端に位置する野は「風土記稿」によれば広い野原であったことを意味し、江戸期の慶長年間(1611~)に開発され「野村」と称したという。天台宗正覚寺持ちとして、村鎮守は近くの野氷川神社であった。

 鴻巣市く屈巣と隣接し、忍領最南東部にあたることから、戦国期には忍、騎西、岩槻と度々所領が変わったことから、戦の度に被害を受けた。よって忍の城主は戦に備えて、野村の道をわざと迷路のように屈曲させたという。記録にはないが、現在でも舗装路は曲がりくねったところが多く、当時を偲ばせる。

西向きの社殿は社務所の様な造りになっており、インターネット地図の検索に乗っておらず、地元の人でななければ、神社までたどり着くのは難しい。また御祭神は大己貴命。本殿内に雷電社が合祀されている。

 口碑によれば御祭神はせっつさま(久伊豆様)の鎮まるところを「中耕地」と呼ぶ。これはせっつさまあが情け深く面倒見のよい神様で耕地内でもめ事がなかったからだという。また同じく中耕地の万願寺は妻沼の聖天様の本家で仲が良いともいわれていたらしい。

文久二年には正一位久伊豆明神の神階を受けている。

祭りは年四回行われ、元旦、丑寅、フセギ、ササラと数える。

丑寅は三月初巳に当たり、志を持って神社に集まり御神酒を頂く嵐除けの意味を持つという。

フセギは七月二十日で土用祭。辻札を立てて直会を行う。ササラは十一月の新嘗祭で、近くの諏訪社、氷川社、万願寺を廻る。

合祀されている雷電社は古くは雨乞い神事があったという。板倉雷電社、榛名社、三峰などの講社もあったというが現在では行われているか不明である。

成田氏が忍城居城後、鬼門(丑寅)に長野久伊豆神社、裏鬼門(未申)に大宮神社(久伊豆社)を祀ったことは城の守りとして知られている。一方で忍城築城以前から成田家の祖先が祀った皿尾久伊豆大雷神社は忍城の戌亥(北西)に当たり、その対方向は辰巳(南東)であり、そこに同じく久伊豆神社と雷電社が合祀されているところが非常に興味深い。偶然ではなく城鎮守として配置されたとみるほうが自然である。

 野の鎮守は氷川様ではあるが、忍城が落ちなかった守りの要が四つの久伊豆社とすれば、この地の久伊豆様の意味合いは忍の歴史に於いて重要なものと考えられるだろう。


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