祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
インドの祇園精舎という寺の無常堂の鐘の音は「世の中のすべとのものは、生まれては滅び流れては去っていき、とどまることはない」と説いている。お釈迦様が亡くなった時、白い色に変わったという沙羅双樹の花の色は、いま勢いの盛んなものも、いつしか必ず衰える時がくるという道理を示している。おごりたかぶる人もその暮らしがいつまでも続くことはなく、ちょうど春の夜に見る夢の様に儚いものである。そして荒々しい強い者でも最後には滅びゆく。それはまるでたあいもなく吹き飛ばされてしまう風の前の塵に等しい。
あまりにも有名なこの平家物語の節は今でも小学校高学年で暗唱するほど読み込まれている。
では作者は誰なのか。諸説ある中で『徒然草』の伝える信濃前司藤原行長が書き、生仏という琵琶法師に語らせたという説が信頼できるという。そして藤原行長の生涯と『平家物語』を書きあげた経緯がまた興味深い。
後鳥羽上皇の院の御所で開かれた御論議で「七徳の舞」について講義した藤原行長。「一には暴を禁じ、二に兵を治め、三に大を保ち、四に功を定め、五に民を安んじ…」ところがこの後が思い出せなかったという。(六に衆を和し、七に財を豊かにする)
他の公卿からは「お忘れになられたのか」と問いただされ、上皇に低頭する行長に対し、後鳥羽院はこう諭したという。「七徳の二つを忘れた行長にいい名前を授けよう。今日からそなたを『五徳の冠者』呼ぶがよい」
あまりの落胆から行長は官職を捨て都の外の草庵にひこもり、今の自分と同じように栄華を極めながら滅んでいった平家一門の物語を書き始めたという。但し源氏や武士にの合戦について造詣はなく、思案していたところ天台座主慈円が物語を読み、源平合戦のことをよく知る琵琶法師生仏を紹介したという。
こうして『平家物語』が藤原行長によってまとめ上げられたのは建長二年(1250)。無念の思いを抱えながら書きあげた軍記物語は、その後多くの人々の加筆を受けながら今日まで読み伝えられている。
8百年の後、自分の残した物語が多くの人々から読み知られることを五徳冠者と蔑まれた行長は思いもよらなかったに違いない。
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