忍城の南側、下忍口跡。近年新しく建てられた石碑で、住宅地に入り込むように建っている。
忍城は関東七名城に数えられる難攻不落の模範的平城であったという。東を首とし西を尾とする造りでここ下忍口は城の真南にあたる入り口だったとされる。下忍とは上(殿様)に対し仕える武士が住まいにした土地のことで、下忍村自体はここから1㎞ほど先にある。
天正十八年忍城攻めに際し、大将石田三成がここ下忍口を攻めたとされる。
忍城を水攻めにすると厳命したことは秀吉の朱印状から見て取れる。六月上旬に「岩付城は成敗したので(忍城兵)命だけは助けて城を請けとるべき」と各地の武将に宛てている。また六月十二日に宛てた三成への朱印状では水攻めにすること、籠城中の兵は足軽以下は城の端に寄せて受け取ること、三成を信用しているため、他の奉行を派遣することはないなどと記している。
一方大軍を初めて率いる三成はこの水攻めに対する疑問を持ち合わせていて、浅野長政への書状の中で籠城に対して攻め込むべきではないかと記している。疑心暗鬼の中で秀吉の指示に忠実に従っていたというのである。この結果忍城攻略は長引き、小田原落城後も忍城が落ちなかった原因となったのである。
丸墓山を起点とする石田堤が即座に築かれたものの、利根川から引き入れた水の勢いは乏しく、石原村の荒川の堰を止め水を注いだが、城を浸したものの城兵を苦しめるまではいかなかったという。
こののち袋、堤根の堤防が決壊し水攻めの工事が無に帰したため、秀吉は鉢形城付近にとどまっていた浅野長政、真田昌幸の二隊に援軍を命じている。浅野軍が陣取ったのが皿尾口。三成軍が下忍口、大谷刑部の軍が佐間口を攻めると協議した。しかし焦った石田三成軍が期日に先立って下忍口を攻めかかり、守将酒巻靱負尉、警鐘を鳴らして援兵を集め激戦の後、石田軍の死者三百、負傷者八百を数え大将軍ながら退却を余儀なくされたという。
こののち戦況を聞きつけた浅野長政が長野口を攻め立てたが、佐間口の守将正木丹波守が急を聞きつけ精兵五十を率いて寄せ手を挟み込み、浅野軍も退却したという。
太閤秀吉の信頼厚く、戦働きの少なかった治部少輔石田三成にとって、苦い思いをした忍城下忍口であったという。