皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

忍城 下忍口跡

2019-02-16 20:40:06 | 行田史跡物語

忍城の南側、下忍口跡。近年新しく建てられた石碑で、住宅地に入り込むように建っている。

忍城は関東七名城に数えられる難攻不落の模範的平城であったという。東を首とし西を尾とする造りでここ下忍口は城の真南にあたる入り口だったとされる。下忍とは上(殿様)に対し仕える武士が住まいにした土地のことで、下忍村自体はここから1㎞ほど先にある。

天正十八年忍城攻めに際し、大将石田三成がここ下忍口を攻めたとされる。

忍城を水攻めにすると厳命したことは秀吉の朱印状から見て取れる。六月上旬に「岩付城は成敗したので(忍城兵)命だけは助けて城を請けとるべき」と各地の武将に宛てている。また六月十二日に宛てた三成への朱印状では水攻めにすること、籠城中の兵は足軽以下は城の端に寄せて受け取ること、三成を信用しているため、他の奉行を派遣することはないなどと記している。

 一方大軍を初めて率いる三成はこの水攻めに対する疑問を持ち合わせていて、浅野長政への書状の中で籠城に対して攻め込むべきではないかと記している。疑心暗鬼の中で秀吉の指示に忠実に従っていたというのである。この結果忍城攻略は長引き、小田原落城後も忍城が落ちなかった原因となったのである。

 丸墓山を起点とする石田堤が即座に築かれたものの、利根川から引き入れた水の勢いは乏しく、石原村の荒川の堰を止め水を注いだが、城を浸したものの城兵を苦しめるまではいかなかったという。

こののち袋、堤根の堤防が決壊し水攻めの工事が無に帰したため、秀吉は鉢形城付近にとどまっていた浅野長政、真田昌幸の二隊に援軍を命じている。浅野軍が陣取ったのが皿尾口。三成軍が下忍口、大谷刑部の軍が佐間口を攻めると協議した。しかし焦った石田三成軍が期日に先立って下忍口を攻めかかり、守将酒巻靱負尉、警鐘を鳴らして援兵を集め激戦の後、石田軍の死者三百、負傷者八百を数え大将軍ながら退却を余儀なくされたという。

 こののち戦況を聞きつけた浅野長政が長野口を攻め立てたが、佐間口の守将正木丹波守が急を聞きつけ精兵五十を率いて寄せ手を挟み込み、浅野軍も退却したという。

太閤秀吉の信頼厚く、戦働きの少なかった治部少輔石田三成にとって、苦い思いをした忍城下忍口であったという。

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桶川 稲荷神社

2019-02-16 19:29:33 | 神社と歴史

中山道桶川宿の街道から少し東側に入ったところ、閑静な住宅街の一角に美しい朱の鳥居が立っている。古くは桶皮郷と呼ばれたこの地の総鎮守で享保二年(1717)神祇管領吉田家より正一位を賜っている稲荷神社がある。明治の合祀政策により桶川各地の無各社が合祀され、浅間社白山社、若宮社などが見られ、移築された際神楽殿に使用されたという。

 本殿は文化十四年(1817)に幕府御用大工であった江戸の立川小兵衛による造営といわれている。御祭神は宇迦御霊命。

中山道桶川宿として繁栄した宿場町に祀られてきたことから、商売繁盛の神としての信仰が厚い。古くは遊郭や飲み屋の女性が店に出る前、夕刻に参拝する姿が多くみられたという。またその姿を追う男のが神社に足を運ぶことも少なくなかった。

 また社殿裏の池は、干ばつにも水を絶やすことがなく腹痛に効くとして近郷から水を受けに来るものが後を絶たなかったという。

 古くから「市の立つ日(五・十の日)が初午にあたると火災が多い」と恐れられ、火防の祈願祭が執り行われた。18

天明ー寛政年間に出羽最上地方の紅花の種が江戸商人によって桶川にもたらされ、紅花栽培が盛んになった。安政四年(1857)の奉納された「紅花灯篭」と呼ばれる石灯篭はそうした紅花商人が奉納したものとして、石には紅花商人中の文字と、奉納者の名が刻まれている。

境内には力石が残っており、「大盤石」と呼ばれ市指定文化財となっている。力石とは江戸時代氏子区域の若者が娯楽として石を持ち上げる力比べをしたもので、各地に残っているが、この地の石は特別に大きく口伝として残っている。

嘉永五年岩槻の三ノ宮卯之助という力士が持ち上げたとされ、重さ二百貫(700kg)と推定されている。三ノ宮卯之助は江戸一番の力持ちと謳われ、勧進相撲でも活躍したという。

宿場町桶川の総鎮守として今日でも商売繁盛、火防の神として信仰を集めている。

 

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中山道桶川宿

2019-02-16 16:43:16 | 史跡をめぐり

桶川宿は中山道六十九次の内江戸日本橋から数えて六番目にあたる。日本橋からの距離が十里十四町(約40km)で江戸を出た旅人が一日で歩く道程にあたり、上尾宿と並んで宿場町として絶好の位置にあったとされる。マラソンの距離にほど近いという。

寛永十二年(1635)に設置され当所58件であった宿内家数は紅花などの染料や農作物の集積地となってから江戸後期には350件近くに達し、宿場町として大いに発展したという。

加賀藩前田家を始め多くの大名が参勤交代において桶川宿の本陣を定宿としていたと伝えられている。

天明ー寛政年間(1781-1801)にかけて出羽最上地方の紅花の種が江戸商人によって桶川にもたらせれ、紅花栽培が盛んとなり、桶川宿において紅花を扱う商人が多くなったという。

中山道沿いに残る矢部家の住宅は明治期に建立された土蔵造りの店蔵で、市指定文化財となっている。矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)と称し穀物問屋を営んだという。また紅花の商いも行い、桶川稲荷神社に残る「紅花商人寄進石灯籠」にその名を刻んでいる。

桶川の紅花は最上に次いで全国二位の生産を誇っていたという。また出羽国最上地方に比べて気候が温暖であったため早く収穫できたことから紅花商人からは「早場もの」として重宝されたといわれている。

中山道から一本奥に入った清閑な住宅地に稲荷神社が祀られている。御祭神は宇迦御霊神。近世以降商売繁盛の神として信仰を受ける。かつては他の宿場町同様遊郭や飲み屋が多くあり、夕方その女性が店に出る前に参拝したという。またその艶やかな姿を眺めようとお宮に参る男も少なくなかったという。

 また中山道をまたいで神社と反対側にある曹洞宗大雲寺の境内には「女郎買い地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩が鎮座する。

宿場町特有の飯盛女と呼ばれる女性が大勢いて、女色に溺れる男たちを飯盛り旅籠に引き入れていたところ、土地のお地蔵さまが女を買いに出かけているらしいと噂が立った。耳にした寺の住職は困り果てるも、地蔵の背に鎹(鎹)を打ち付けて鎖で縛って動けなくしてしまったという。実のところ一人の若い僧が遊郭に通いつめ、坊主頭を隠して人目を忍び歩いているところを、寺に帰るところを見つかってしまい、住職に知らされてしまった。翌日になると鎹と鎖で縛られた地蔵様が立っていたのである。住職は煩悩多い若い僧にその罪を地蔵菩薩に被っていただき、その僧を改心させたというのである。

 地蔵の背には今も鎹が残っているという。

 

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