関東の石舞台と呼ばれる八幡山古墳の入り口に万葉遺跡として歌碑が建てられている。行田市教育委員会の解説によれば、天平勝宝七年(755)防人を派遣する際、父母妻子との惜別の情を歌ったものが、万葉集に載せられているという。若小玉地区の神社や地名から、この地を藤原部等母麿の遺跡と考察し、昭和36年に歌碑が建てられている。現在は埼玉県の旧跡にしてされている。若小玉古墳郡は近年調査が進み古くは北大竹遺跡として旧石器から縄文にかけての土器などが出土し、古墳時代後半から、埼玉古墳の後を受け継ぐように、古墳が築かれるようになったとさる。関東地方においては、その頃古墳は小型化し、古墳の築造に対して政治的規制がかかったと考えられているが、この八幡山古墳は例外で、直径80メートルの巨大な円墳だ。この後地蔵塚古墳を最後に若小玉古墳郡でも、古墳の築造は終わりになり、
こうした解説板も近年の調査で新しくなっている。人気もなく散策していると、地元の管理人に呼び止められ、長々と話を聞かされてしまった。明日は地元若小玉勝呂神社のささら舞があるらしい。
「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」藤原部等母麿(足柄峠で袖を振ったならば、家に残った妻にもみえるのかなあ)
「色深く せなが衣は 染めましを まさかたばらば まさやかにみむ」物部刀自売
(もっと色を濃く衣を染めれば良かった。足柄の坂を通ったら、はっきり見えたであろうに)
別れを惜しんだ儚い夫婦の歌だ。互いを思う気持ちが今の世になっても伝わる様だ。
工業団地に残る八幡山古墳。調査が進み遺跡の様子が明らかになってきた北大竹遺跡。そうした歴史遺産よりも、人が人を思う歌が歌碑として残り、今に伝わること。その方に気持ちが傾くのは、時代が流れても変わらないものだと感じている。
こうした解説板も近年の調査で新しくなっている。人気もなく散策していると、地元の管理人に呼び止められ、長々と話を聞かされてしまった。明日は地元若小玉勝呂神社のささら舞があるらしい。
「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」藤原部等母麿(足柄峠で袖を振ったならば、家に残った妻にもみえるのかなあ)
「色深く せなが衣は 染めましを まさかたばらば まさやかにみむ」物部刀自売
(もっと色を濃く衣を染めれば良かった。足柄の坂を通ったら、はっきり見えたであろうに)
別れを惜しんだ儚い夫婦の歌だ。互いを思う気持ちが今の世になっても伝わる様だ。
工業団地に残る八幡山古墳。調査が進み遺跡の様子が明らかになってきた北大竹遺跡。そうした歴史遺産よりも、人が人を思う歌が歌碑として残り、今に伝わること。その方に気持ちが傾くのは、時代が流れても変わらないものだと感じている。