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皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

うるさいか厳しいか

2021-05-05 23:09:00 | 先人の教えに導かれ


 立夏。新緑の生命力に溢れる季節。
多くの新社会人や新入生もGW休み明け、本格的にそれぞれの役割を担う頃になる。五月病などというのも日本独特のものだろうが、季節は過ごしやすくも、心を病んでしまう人も出てくるところだ。


職場には昨年入社の若い社員もいて、連日周囲からの期待や叱責に悩みながら試行錯誤の日々を重ねている。二年目というのも良かれ悪しかれで、ようやく後輩が入って来て、注意がそちらへ向くはずなのに、むしろ先輩のくせにと見られてしまうこともあるだろう。


彼らを見ていて、彼らの周囲のひとの振る舞いについて気に留めている。できない子にうるさく指導するタイプ、大雑把に指示する人。厳しく指摘する人。優しく褒めてやる人。最近ね流れは、所謂コーチング重視。教えるのではなく、導くことを良とする。基本的には褒める事が多い。取り組みを褒め、できるようになる過程を褒め、結果を認めてやること。たとえ失敗しても。
至れり尽せりのよう。


今思うと、うるさくて厳しい人の方が其の場は辛く煩わしくもとも、数年後ためになる事を感じる。
うるさいだけの人もいるし、厳しいが根はいい人とわかる人もいる。
うるさくて厳しいひとは嫌われるかも知れないが、父がそうであったように、そういう人のおかげで今の自分がいるように思う。

一番困るのは何も言わない人。
愛情の反対は無関心
そう言ったのはマザーテレサ
煙たがれても嫌がられても必要なことは言える人でありたい。
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仕事とは

2021-04-07 21:50:48 | 先人の教えに導かれ

明日は高校の入学式。下の子の中学入学式も重なり忙しい年度始めとなる。新たな環境の中でどんな生活が待っているのか期待と不安の交差する時だろう。

 薄れゆく自分自身の学生時代の入学式の記憶。特に大学入学に当たっては学ぶというより一刻も早く働きたいと思っていた。机の上で学ぶことから自由になりたかったのだろう。仕事に対する自分なりの価値観もあまりなかった。ただある程度好きなことをして稼ぐ。そんな気持ちでいたように思う。

好きなことは趣味でやればいい。

仕事っていうのはお金をもらってやることだからそれはお金を払う人に対して責任を取らなきゃいけない。

こっちが好きか嫌いかなんてどうでもいい

向こうがお金を払ったことに対して責任をとれるか

そういうことがちゃんとできているというプライドが持てるか

そこだけでいいと僕は思う。

ここでいう僕とは 林修氏。

誇りをもって生きる。仕事に対して、生き方そのものに対して。

10年後、20年後彼らがこうした気持ちでをもって自立してくれたらと思う。

 

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四馬の譬え

2020-04-25 22:12:06 | 先人の教えに導かれ

 新聞紙上に毎日の新型コロナウィルスよる感染者数と死者数が載るようになって久しい。しばらく前までは他国の出来事であったものがあっという間に自国の数計となり、日々不安と隣り合わせの毎日である。人の死を数で表すことに慣れてしまうと、本当の自分の死に向き合うことの意味を見失ってしまう。

 一年前の今日、お世話になった先輩がお亡くなりになった。とても急なことでただただ驚きと悲しみに暮れていた。本日一年忌の法要が営まれるはずであったが、今般の状況を考慮し、施主様のご判断で延期されることになった。

 

お釈迦様はその教えの中で人の死について四頭の馬に例えて説いているという。

 仏比丘尼告げたまはく、四種の馬有

 一つには鞭影を見て即驚束して、御者の意に随う

 二つには毛に触るれば、即ち驚束して御者の意に随う

 三つには肉に触れて然してのち、即ち驚く

 四つには骨に徹して然してはじめて驚く

           ~『雑阿含経』~

第一の馬は振り上げた鞭を見ただけで走り出す馬。第二の馬は鞭が毛の先に触れて走り出す馬。第三の馬は肉をたたかれて走り出す馬。そして第四の馬は鞭が骨の髄まで達してようやく走り出す馬のことだという。死をどれだけ身近なこととして感じることができるか、その大切さについて諭したのだという。

つまり一頭目は知らない人の死を知って自分の命、人生について考えられる人のこと。二頭目は身近な知人、友人の死に際しその意味を考える人のこと。三頭目は親兄弟などの身内の死に遭って初めて考える人のこと。そして四頭目は自分の余命を宣告されて初めて自分のことに気づき、慌てふためく人のことをいう。

死について考えというと、深刻で暗い話になりがちであるが、人は生まれてから死ぬまでを人生とするならば、生まれ生きることそのものが、死への旅路であり、後戻りできないのだ。だから死について考えることは自分の人生の終着点を定めることであり、生きることそのものを創造することに他ならない。だから自分が死に瀕してからでは遅いのだ。

 ある方の言葉によれば人生で一番大切なことは、「死をみつめること」だという。時間というものは区切りの無い永遠のものであるのに対し、一人のひとにとってみればわずかばかりの限られたものだという。だから誰しも人生そのものは片道切符を手にした旅の様なもの。決して後戻りはできない。

 日本人の遺伝子の中には他者の死を深く悼むというのが伝わっているという。そうしたことが古来からの葬儀儀礼にも表れている。「死」を以て人は残された人へとその意味を伝えるという。

 今一度握りしめたその切符の意味を確かめ、日々丁寧に生き抜いていきたいと感じている。

 

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私後悔しないので~ギャンブラーの誤謬

2019-12-05 23:54:41 | 先人の教えに導かれ

 「私失敗しないので!」は今クールも高視聴率が続く人気医療ドラマの決め台詞。主人公のドクターが絶対の自信をもって言い放つ姿は、爽快感にあふれている。主題歌のアーティストが変更になったのが少し残念だが、何故かこのシリーズから見て楽しんでいる。(これまで見たことはなかったのに)

 昨今ランチにしろ何にしろ、自分で選択できない人が増えているという。平和でものが豊かになった故の賜物ともいえるが、豊富な選択肢があるとかえって自分で選べなくなる傾向があるという。理由は「後悔したくない」という心理が働くせいだという。人は経験を積みある程度成功体験が積み重なると、自分から積極的に選択するということを楽しむより、失敗を恐れる傾向が出てくるらしい。勿論人それぞれだとも思うが、当てはまる事例も多いだろう。歳を重ねても、新たな経験を楽しむ気持ちを失わないようにしたいと思う。

似たような事象に「ギャンブラーの誤謬」というものがあるらしい。

広義の思い込みで、本来の事象の確率が少数の試行でも観察されるはずだといった、所謂「玄人のなんとなくの勘」のことを指すらしい。

例えばサッカーの試合の前に行われるコイントス。コイントスの回数を増やしていくと表と裏の出る回数はほぼ1/2に近くなるという。表と裏のでる確率は理論的には1/2だから続ければ続けるほど、その確率は1/2に収束していく。これを大数の法則という。

 ところがギャンブルなどで表と裏それぞれの目が出るほうに賭けたとき、何度も同じ目が続くと次は反対の目が出てくるような気がしてくる。表に三回賭けて負け続けると次はそろそろ裏が出そうな気がする。そして結果的に四回目も五回目も表が続いて負けてしまうこと。

この錯覚をギャンブラーの誤謬という。なぜなら五回表が続いたとしても、理論的には6回目のコイントスも表と裏の出る確率は1/2に変わりないからである。大数の法則はその試行を無限に増やしていくと当はまる法則であって少ない試行の範囲では表が続くという事例はありえることだともいう。

 ギャンブルにしても投資にしても、このなんとなく、或いはそろそろ次はといった理論的に根拠のない判断のことをギャンブラーの誤謬といい、判断基準の選択を戒めるようにするという。じゃんけんにしても同じでグー、チョキ、パーの三手からなる結果の帰属は勝ち負けあいこの33.333333、、、、、、%であってじゃんけんに強い弱いの差はないのである。

あるとすれば自分はじゃんけんに強い、弱いという勝ってな思い込みだけであって、その思い込みによる心理状態が与える精神的有利不利は本人次第である。

 

 ところで営業成績を曜日周りや天候のせいにするのも予見といえば聞こえがいいが、誤謬と言ってもよいのではないか。そろそろ前年を割れる、或いはまだ前年をクリアできるといった観点も客観性はあまりないようにおもう。自由主義経済において予算を立てることは非常に重要なことであるけれども、実際には思い込み拠るところも多いだろう。

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因果はめぐる小車

2019-07-09 22:04:25 | 先人の教えに導かれ

『悪い事をした報いは自分に返って来る』即ち自業自得としての意味だけではなく、『いい事をした報いも自分に返って来る』という教え。『情けは人のためならず』と同義となるようだ。
この情けは人のためならずの本来の意味を記せという問題が、自分の高校入試の国語の問題に出された事をいまでもおぼえている。
因果はめぐる小車では、五七調にならないため、『糸車』や『風車』など五文字に起き替えられるという。いずれもクルクルと回転し、同じ位置に戻っては通り過ぎて、何度も繰り返す様子のこと。
生きて行くのはそれきりではなく、良い事も悪い事も繰り返すものだ。
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