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皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

忍城二の丸跡

2018-05-15 20:54:24 | 行田史跡物語

二の丸は藩主の居宅で十数棟からなる平屋の立派な建物であったとされる。忍城内最大の建物で、明治四年(1871)八月忍藩主松平忠敬は東京に移るにあたり、三度にわたって千四百人からなる家臣を招き別離に宴を催したというので一度に五百人近くが座れる部屋を有していたのだという。そしてよく明治五年(1872))忍城の建物はすべて取り壊しを命じられ姿を消している。

行田史石碑は多くは昭和五十年代に建てられ、通りに建っているが二の丸跡石碑は忍中学校の敷地内にある。直接見る機会はなかなかなく、子供の忍中学校入学式の際目にすることができた。また忍中学校校舎北側窓には「二の丸跡の誇りにかけて」というスローガンが郷土資料館を訪れた人々に向け書かれている。もちろん誇りにかけて培うのは「自治・共同・勤勉」の精神だ。
めぐりあわせか、私がこの世に生まれたのは、忍城廃城取り壊しの後百年後のことだった。

忍城御本丸跡

2018-05-15 20:31:01 | 行田史跡物語

行田市郷土博物館が建って今年で三十周年。昭和六十二年当時自分は忍中学校の二年生だった。博物館建設前は「本丸球場」という野球場があった。入学して野球部に入り忍中学校の特典として、当時の本丸球場で練習することができた。行田市少年野球の聖地だった。
 成田記の中に「忍城を攻め落としたならば、その他の城は手を下さずとも降参し、北武蔵を掌握することはたやすいことである」と記されているらしい。忍城の本丸には成田氏築城以来から天守閣はなかった。文明十一年(1479)以前の築城時期に本丸はあったが、天守閣建築はなかったらしい。だから現在の郷土博物館建設時、忍城の当時の様子にそぐわないとの意見の出されたらしい。今となっては、多くの観光客が訪れ埼玉古墳と並ぶ市の重要な施設となった。

本丸跡の石碑は郷土博物館駐車場にある。館内へ急ぐ人々はあまり目を留めていないようだが、緑の芝生に包まれるように静かに建っている。

鳥居強右衛門居宅跡

2018-05-14 20:43:28 | 行田史跡物語

 行田市の中心を走る国道125号線、市街地に建つ商工センター脇に小さな史跡跡が二つ建っています。一つは商工センター敷地内にある忍警察署跡。そして道を隔てて反対側に建つ「鳥居強右衛門居宅跡」です。特に強右衛門居宅跡は貸しビルの敷地生垣に隠れるように建っていてその姿に気づく人も少ないでしょう。
 史跡の説明には「天正三年(1575)三河長篠城救援軍師として役割を果たし磔死した鳥居強右衛門の第十二代商近は松平家家老として五百石を以てここを忍の居宅にした」とあります。鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とはいかなる人物だったたのでしょうか。
文政六年(1823)幕府は忍藩主阿部正権(まさのり)に陸奥白河へ転封を命じます。忍藩に入ったのは桑名藩松平忠尭です。「三方領地替」と呼ばれます。老中を輩出し、幕政に影響を誇った忍城の歴史の転換点とされます。
 桑名から入った松平家は下総守、その祖先は三河長篠城主であった奥平信昌と家康の長女亀姫との四男松平忠明を初代とします。その長篠城主に仕え、家康に命を賭けて急を知らせたのが初代鳥居強右衛門とされます。自らは磔にされて命を落としますが、軍神として祀られ、その子の信商は武士として取り立てられ初代松平忠明に取り立てられます。そして鳥居家は代々家老を継ぎ十二代商近の時桑名から忍に来て居を構えたとされます。

十三代商次の時に明治維新を迎え、慶応四年(1868)官軍が羽生より進軍し行田町に入り大砲を地獄橋に構えて藩主に勤王の確証を求めました。藩主と先代との間には意見の相違があり、鳥居をを含めた家老5名のうち署名するのは一人、万事があれば切腹をという状況で、顔を見合わせた家老の内鳥居強右衛門が進み出て一人署名したとして、藩を救った名家老として語り草となったといいます。
 
貸しビルには長く大手音楽教室が入り、子供も多くみられましたが、残念ながら撤退しテナント募集となっています。明治から数えて百五十年。来年の今頃には次の元号となっていますが、史跡を通して様々な歴史を読み解くことができます。

忍城 谷郷口六ツ門

2018-05-09 12:51:35 | 行田史跡物語

忍藩の穀倉地帯、谷郷、星宮に通じる重要な道の出入りを見張る谷郷御門。明六ツ暮六ツに開閉するのでいつしか六ツ門と呼ばれ地名となった。明け六ツ暮六ツとは江戸期の時刻法で現在の朝晩六時にあたる。

忍城は関東の名城として築城以来二百八十年の歴史を経て明治六年に取り壊された。明治二十一年忍橋から東照宮境内の南を通過し持田へ抜ける行田・熊谷線が開通し、この道路工事の請負人であった田村重兵衛に払い下げ、重兵衛は日頃信仰する加須の不動尊(総願時)に寄進している。これが黒門であるという。黒門は総欅造りで門扉は一枚板からなる。

今年の大河ドラマは幕末から維新にかけて西郷隆盛が描かれているが、ここ忍藩に於いても廃藩置県・版籍奉還は大きな出来事だった。財政は逼迫し、藩主と侍は居場所も仕事もなくなったのだ。昨年の市民大学講座でも当時の混乱ぶりについて触れられていた。大手門を始め忍城払い下げ入札価格の合計は2334円。現在の価値で四千五百万ほどですべて払い下げられたと考えられている。
 戦国時代15世紀後半から四百年あまり続いた忍城の歴史は幕を閉じたとされる。現在残る場内の建築物はこの総願寺黒門のほかに郷土資料館敷地内に立つ高麗門だけだとされている。

忍の涙橋

2018-02-19 21:10:59 | 行田史跡物語

忍東照宮北にある涙橋跡の石碑。天正元年(1573)成田氏長は、その妻、横瀬成繁田の娘と離縁したといわれます。縁切り橋で別れを惜しんだ妻は次の橋にて振り返り、涙を流して皿尾門から出ていったとされている。即ち涙橋として後世までつたえられた。その時忍城に残された一人娘甲斐姫はわずか二歳。それから十六年後、長刀の名手となった甲斐姫は、大宮口御門にて城兵を鼓舞し、忍城を守り抜いたと「成田記」は伝えている。