昨日は冬至で天候も晴れとの予報。夕方期待しつつ多摩境の東京のストーンサークル、田端積石遺構を訪れた。すでに20人近い人が冬至に沈む太陽を観ようと集まっていた。
残念ながら厚い雲に覆われ、夕日が綺麗に丹沢山系の最高峰、蛭が岳に沈む光景は見られなかったが、表紙の写真を撮ることができた。来年こそはと思いつつ帰宅した。
しかし、隣には富士山があるのに何故蛭が岳が聖地になっていたか、そんな疑問が湧くが、死と再生の意味を考えるとやはり蛭ケ岳だと気が付く。縄文後期、石棒等が祭儀に使われていたことは有名だが、沈む太陽と蛭ガ岳が文字どおり合体するイメージとなることで、太陽の生命体の再生を意味していたのだと思う。
さて、昨日は田端遺跡見学の後、やはりビデオでトムハンクスの「ターミナル」というハリウッド映画を観た。祖国のクーデターで突然ビザが無効となり米国に入国できず、しかも帰宅できないという主人公(瞬間的に無国籍となった)の物語。生きるために何をするか。生き甲斐は何か・・・いろいろ考えさせられた。
考えてみれば、私も突然地球に日本に裸一貫?で生まれたわけだが、生まれるとすぐ国籍とかいろいろな世間的な属性をもち始める。そして、その属性によってなんとなく支えられているところがあるが、よく考えると本当の「生き甲斐」は、自分の中から湧きおこる何かであることがわかってくる。それは、属性の上に構築されるものでは基本的にない。しかし、湧きおこった何かは、生き生きと活動する原動力となるが、不思議に世の中で属性として判断されある属性に代わってしまうところがある。それは水垢のように「生き甲斐」を今を閉塞させていく。
冬至の次の日の今日。新しい日が始まっている。裸一貫の意味を考えるときかもしれない。
新しい年の迎え方! 3/10
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