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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

藤原京のストレス曲線!(歴史に癒される 2/10)

2013-04-30 | 第二章「五感と体感」

 大和三山を飲み込むようなスケールの藤原京。今年の3月に行った時は、何で藤原京から平城京に移ったのか、素晴らしい景色を愛でつつ思ったものだ。


 昨日も書かせていただいたが、今、続日本紀の名現代語訳と言われている宇治谷 孟著の続日本紀を読みすすめている。5-6年前であれば、1ページで読むのをやめてしまいそうな本であるが、貴重な一次資料であり、かつ読みやすいのでぐんぐん引き込まれていくのを感じている。

 持統天皇が在命中の697年から95年間におよぶ日本の正史(藤原氏の影響の強い正史だが)。読んでいくと、生き甲斐の心理学で学ぶ、系統図が思い出される。硬い正史ではあるが、その中には当時の政権が感じるたくさんのストレス曲線(不安、怒り、身体症状、欝、錯乱)、反対のほっとする幸福曲線(平安、友好的感情、健康感、幸福感、統御感)、そして蠢く思考・感情・行動などが何となく感じられるのだ(勿論、消失した情報、私の拙い理解力、知識では捉えられないことも多いと思うが)。

 さて、現代人の私がへーと思ったストレス曲線を、ご紹介してみたい。ひとつは日蝕である。ネットで調べると続日本紀には70回以上の日蝕の記載があるそうだ。「十二月一日 日蝕があった。」こんな記載である。最近、月にこっていることがあるが、この記載で気づくのは、全て一日(朔)であり、太陰暦で朔の日に原理的に日蝕が起こることを当時の人は熟知しているようにさえ思う。

 勿論、日蝕は政権からすると、ストレス曲線であったろう。日蝕を予測することは当時の技術でできたのだろうか?江戸時代にはできたようだが・・・いろいろ妄想してしまう。

 天文に関するストレス曲線の最たるものは、持統天皇が崩御される前の次の記述である。

 「十二月六日 金星が昼間に見られた。(変兆)」

 実際は、今でも双眼鏡程度で昼間に金星を見ることができるようだが、当時の人の混乱・錯乱を感じてしまう。

 ちょっと前後するが、この大宝2年には次の記載もある。

 「六月二十八日 海犬養門(あめのいぬかいもん)(藤原京十二門の一つ)に落雷があった」。どんな門だったか興味が尽きないが、当時の政権にとって大きなインパクトがあったようだ。

 その他に、続日本紀には多産記事もある。

 春正月二十六年 京職が次のように言上した。 「林坊に住む新羅の女・牟久売が、一度に二男・二女を産みました。」と。朝廷はあしぎぬ(ふとめの糸で織った絹布)五疋・真綿五屯・麻生十端・稲五百束・乳母一人を賜った。

 微笑ましい記事であるが、当時の人は、これをストレス曲線と感じたのかもしれない。実に妄想を掻き立てられる。

 今日は、藤原京とストレス曲線の話をさせていただいたが、勿論、疫病や大切な人の死という、究極のストレス曲線もたくさんある。そして、元明天皇は政治的な理由もあるが遷都を決定し、和銅元年12月5日に平城京の地魂祭を行う。

 ストレス曲線をどのように解釈し直し平城京に至ったか。人の生き抜くう知恵は偉大だ。興味のあるテーマである。最後に、元明天皇の万葉集に残された有名な歌。この歌は和銅元年の作。同じ年に平城京地魂祭が行われた。

ますらおの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おほまへつきみ) 楯立つらしも

 歴史に癒される 2/10

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